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ベスティエ王国と毛並み文化

 店の扉を閉める前に、ひなたは一度だけ振り返った。


 カウンターの近くには、さっきまで無かった木箱が置かれている。外観も看板も変わってしまった店内は、見慣れているはずなのに、どこか自分の店ではないようにも見えた。


 けれど、いつまでもそこに立ち尽くしているわけにはいかない。状況は何ひとつ分からないままだが、だからこそ、まずは外を知る必要があった。


「早く来てよ。街はこっちなの」


 すでに外へ出ていたミルシアが、少し先から手を振っている。ひなたは小さく息を吐き、扉をそっと閉めてから店先へ出た。


 目の前には、大通りが広がっていた。石畳ではなく、踏み固められた土の道。両側には木造の建物が並び、看板を掲げた店や、布を張った屋台が点々と続いている。焼いた魚の匂い、甘い匂い、乾いた木の匂いが入り混じり、人の声と荷車の軋む音が絶えず流れていた。


 行き交うのは、もちろん普通の人間ではない。荷物袋を背負って歩いている犬系獣人がいれば、屋台の前で手際よく魚を焼いている猫系獣人もいる。少し先では、荷車を押して運んでいる狼系獣人が通り、道の反対側では、大きな麻袋を肩に担いでいる熊系獣人がゆっくり歩いていた。


 耳の形も、体格も、尻尾の長さも種族ごとに違う。その光景を見ているだけで、ここが自分の知っている世界ではないことを改めて突きつけられる。


 ミルシアは、そんな街の中を少し前に立って歩いていた。小さな背中がやけに堂々としている。胸を張り、ふわふわになった尻尾を揺らしながら、いかにも誇らしげに歩いているのだ。


 ひなたはその様子を見て、少しだけ首をかしげた。


(さっき店を出たときから、やけに自信満々に歩いてる気がする)

(何か理由があるのかな)


 そう思いながら後を追ううちに、ひなたの目は自然と周囲の獣人たちの毛並みに向いた。職業柄、そこにはどうしても意識がいってしまう。


 前から歩いてきた犬系獣人は、耳のまわりも首元もきれいに整っている。ところが、その横を通り過ぎた猫系獣人は、頬のあたりの毛流れが乱れ、毛先も少し跳ねていた。さらに先には、尻尾の毛が広がったままの狼系獣人がいて、その後ろを歩く犬系獣人は前髪のように見える毛が不揃いだった。


 よく見れば見るほど、整っている獣人の方が少ない。


 そんな中で、ミルシアはかなり目立っていた。ボサボサだった髪は丸みのあるボブに整い、絡まっていた尻尾は丸いポンポンのように仕上がっている。ついさっきまで店の椅子の上でもぞもぞしていた子と同じとは思えないくらい、見た目にまとまりがある。


 通りすがりの獣人たちが、ちらちらと視線を向けてくる。一人の獣人は、ひなたたちの前でさっと道を譲った。さらに少し進むと、屋台に立っていた猫系のおばさんが、目を細めてミルシアに声をかけた。


「おや、その毛並みは綺麗だねぇ」


 そう言って差し出してきたのは、小さなおやつだった。焼き菓子のような、香ばしい匂いがする。ミルシアは嬉しそうにそれを受け取ると、その場ですぐに口へ放り込んだ。


「おぉ、おいしい!」


 そう言った次の瞬間には、もう屋台のおばさんへ両手を揃えて出している。


「もう一つちょうだい!」


 猫系のおばさんは、けらけらと笑った。


「欲張りだねぇ」


 口ではそう言いながら、結局もう一つ渡してくれる。ミルシアは何の遠慮もなくそれを受け取り、満足そうに頬張った。


 それからくるりと振り返り、ひなたに向かって胸を張る。


「ほらね。やっぱり違うでしょ」


 尻尾もふわっと揺れている。どう見ても得意げだ。


「確かに、さっきからよく声をかけられてるね」


 ひなたがそう言うと、ミルシアはさらに胸を張った。


「毛並みはわかりやすいくらい重要なの」


 その一言に、ひなたはさっきの銅貨のことを思い出した。あれだけぷんすか怒っていた理由も、ここでようやくつながってくる気がする。


「そういえばさっき銅貨一枚で怒ってたけど、あれってそんなに安いの?」


 ミルシアはぴたりと足を止め、むっとした顔で振り返った。


「安いけど?何なの!怒るよ!」


「いや、そこまで怒るのかなって思って」


「思うでしょ普通!」


 言い返しながらも、ミルシアはちゃんと説明してくれた。


「この国のお金は三つあるの。金貨と、銀貨と、銅貨」


 そう言って、指を一本ずつ立てていく。


「金貨一枚は銀貨十枚」

「銀貨一枚は銅貨三十枚」


 ひなたは頭の中で計算した。


「ってことは、金貨一枚で銅貨三百枚分?」


「そう。だから銅貨一枚なんて、屋台のおやつくらいなの」


 ミルシアは、さっきもらった二つ目のおやつを食べ終えながら言った。なるほど、それなら怒るのも分かる。ついさっき綺麗にしたばかりの毛を変換して、出てきたのが駄菓子一個分の価値だとしたら、確かに不満は出るだろう。


 ひなたは歩きながら、さらに気になっていたことを口にした。


「毛並みがそんなに大事なら、みんなお店に行けばいいんじゃない?」


 するとミルシアは首を振った。


「みんなしたくても、それができないの」


「どうして?」


「毛並みを整える職人が少ないし、そのほとんどは貴族に雇われてるから」


 さらっと言うが、内容はなかなか重い。


「料金も高いの。金貨二枚とか金貨三枚とか。高いところだと金貨四枚のところもあるよ」


 ひなたは思わず足を止めそうになった。屋台のおやつが銅貨一枚。それに対して金貨二枚や三枚というのは、かなりの大金だ。


「それじゃあ普通の人は無理だね……」


「そうなの。だからみんな自己流で整えるし、家族で切ったりするの」


 ひなたは少し考えてから、ミルシアに目を向けた。


「さっき言ってたけど、ミルシアもお母さんに切ってもらってるんだよね」


「そうだよ。お母さんがいつも切ってくれるの。たまに自分でもしてるの」


「なるほど。ところでミルシアは、どこから来たの?この近く?」


 そう聞くと、ミルシアは当たり前のように答えた。


「いや違うよ。私はマルダー村なの」


「村?」


「タヌキ系の村なの。街の外側にあるんだよ」


 そしてそのまま、他の村のことも教えてくれる。


「犬系の人たちはフンド村」

「猫系の人たちはカッツェ村」

「狼系の人たちはヴォルフ村」

「熊系の人たちはベーレン村」


 種族ごとに村があり、そこから街へ働きに来る者も多いらしい。中心の街があって、その外側に各種族の村が点在している。ひなたは、ただ通りを歩いているだけなのに、少しずつこの国の輪郭が見えてくるのを感じた。


 ミルシアはそこでもう一つ付け加えた。


「毛並みを整えるためにお金をためて、街のカットのお店に行く人もいるし」


「道具を買って、自分で整えようとする人もいるの」


「でもうまくできないことも多いんだよ」


 それを聞いて、ひなたはあらためて周囲を見渡した。整っていない毛並みにうまく切れずに乱れた毛先。誰もが無頓着なわけではなく、整えたいのに整えきれないのだと分かる。


「毛並みってそんなに大事なんだね……」


 ひなたがしみじみと言うと、ミルシアは不思議そうな顔をした。


「大事だよ、とてもね」


「それで、整えられなくて困ることってあるの?」


「いっぱいあるよ」


 ミルシアは指を折るようにしながら答えた。


「毛並みが悪いと商売の人は信用されにくいし」

「だらしない人だと思われるし」

「お祭りでも評価が下がるの」


 そこで少しだけ胸を張って付け加える。


「だからみんな整えたいの」


 その言葉を聞いて、ひなたはゆっくり周囲を見渡した。毛並みが整っていない獣人は多い。技術を持つ店は貴族専用。一般の獣人は、整えたいと思っていても、値段の壁で諦めている。


 でも、自分にはトリマーの技術がある。

 しかも店まである。


 もちろん、ここがどこで、どうして自分がここに来たのかはまだ分からない。つまり、ここの人たちを助ける義理ははっきり言ってない。


それでも、この街を歩いているうちに、一つだけはっきりしてきたことがあった。


 自分にできることが、ここには確かにある。

 ひなたはその場で立ち止まった。


「ねぇ、ミルシア」


 名前を呼ぶと、ミルシアはすぐに振り返る。


「どうしたの?」


 ひなたは少しだけ空を見上げてから、もう一度街へ視線を戻した。


「ここでお店、ちゃんとやってみようかな」


 ミルシアの目が丸くなる。


 3泊おいて、ひなたは、目の前に広がる獣人の街を見ながら少し、顔を上げて真面目な顔で続けた。


「トリマーとして」


さらに三泊……

丸くなったミルシアの目は「・」となり言った。


「……ん?いや、やってるじゃん。だって私はあのお店を見て来たもん」


ひなたは決意して宣言したが、あっさりと、いや鋭すぎるミルシアの突っ込みが少し痛かったのはここだけの話。


「まあまあ、まずはお店の準備からだね、ミルシア!」


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