変換箱
ひなたは、店の中に置かれた木箱をじっと見つめていた。
さっきまで確かに何もなかった場所だ。カウンターの近くで、掃除のときにも目に入る位置に、あんな箱は絶対になかった。それなのに今は、まるで最初からそこにあったみたいな顔で、見覚えのない木箱がひとつ置かれている。
「ひなた、どうしたの?」
後ろからミルシアの声がする。ひなたは振り向かずに答えた。
「ねぇ、この箱って……ここにあった?」
「箱?」
ミルシアはきょとんとして、それからひなたの横に並ぶように近づいてきた。箱を見つけると、丸い耳をぴくりと動かす。
「ほんとだ。さっきは無かったと思う」
「だよね……」
ひなたはゆっくりしゃがみ込んだ。木箱は装飾のないごく単純な作りで、大きさは果物箱くらい。重厚な雰囲気もなければ、いかにも怪しい魔道具みたいな見た目でもない。むしろ拍子抜けするくらい普通だった。上に蓋がついていて、取っ手も鍵穴もない。
「開けてみる??」
ミルシアが興味津々で言う。
ひなたは一度だけ唇を引き結んでから、小さくうなずいた。
「……こりゃ開けるしかないよね」
恐る恐る蓋に手をかける。木の感触は冷たくも熱くもなく、本当にただの箱みたいだった。ぎし、と小さな音を立てて蓋が開く。
しかし、中は空だった。
「えー、なにも入ってないの?」
ミルシアが身を乗り出して言う。だが次の瞬間、ひなたは目の前にふっと浮かび上がった光の文字に息をのんだ。
「……なにこれ」
空中に、淡い光で形づくられた文字が並んでいる。
職業:トリマー
設備:もふもふカット専門店
固有スキル:変換箱
ひなたはしばらくそれを見上げたまま固まった。日本語で読めて、意味も十二分にわかる。なのに意味がわからない。矛盾しているがこうとしか表現ができない。自分の頭がおかしくなったのかと思ったが、文字は消えず、確かにそこにあった。
「どうしたの?」
ミルシアが不思議そうに顔をのぞき込んでくる。
「ミルシア、この文字見える……?」
「ん?文字って?」
「ほらほら、ここに浮いてるやつ」
「なんにもないよ?」
その返事に、ひなたはますます混乱した。見えているのは自分だけらしい。
光の文字はさらに続いた。
変換箱:素材を投入すると等価の物資へ 変換する
素材例:毛・皮・素材など
変換結果:貨幣・道具・設備
ひなたは一行ずつ目で追う。素材を投入すると、等価の物資へ変換。貨幣、道具、設備に。説明文としてはずいぶん親切だが、親切すぎて逆に怖い。
「変換って……なにをどう変換するの」
つぶやいてから、ひなたは床に散らばった毛を見た。さっきミルシアをカットしたときの毛が、掃き集める前のまま少し残っている。もし説明どおりなら、これを入れれば何かが起こるのだろうか。
ひなたはその一房を拾い上げた。
「……これ入れてみるね」
「それわたしの毛?」
「そうだけど……」
「ふーん、入れてみれば?」
ミルシアが箱の縁に手をかけてのぞき込む。ひなたは少しためらってから、摘んだ毛を箱の中へ落とした。
ぱさ、と軽い音がしたかと思うと、箱の内側がごく淡く光った。次いで、ころん、と小さな硬いものが転がる音がする。
ひなたはそっと中をのぞき込んだ。
「え……」
そこにあったのは、一枚の銅貨だった。
見たことのない意匠だが、硬貨だとすぐにわかる。茶色がかった金属で、中央に樹のような模様が刻まれている。手に取ると、確かな重みがあった。
隣でのぞき込んでいたミルシアも、それを見た瞬間に動きを止めた。
「え?」
一拍おいて、尻尾の毛がぶわっと逆立つ。
「なんで銅貨一枚なのよぉ!!!!!!」
ミルシアは頬をふくらませ、箱と銅貨を交互に指さした。
「なんでそんなに安いの!? わたしの毛だよ!!?」
丸かった尻尾は怒りでぷりぷり揺れ、先の方の毛まで逆立っている。耳までぴんと張っていて、怒っているのが全身からわかった。
「もっと価値あると思うの!!」
「まあまあ落ち着いて……」
「落ち着けないの!! 一枚ってなに! 一枚ってぇぇぇ!!!」
ものすごく不満そうだ。ひなたは銅貨を持ったまま、暴れる尻尾を見て、笑うより先になだめる気持ちになった。
「まあまあ、ほら、まだ仕組みがよく分かってないから」
「でも一枚なの!」
「うん、それは分かったから。まず落ち着こう?」
ひなたがそう言うと、ミルシアはむすっとした顔のまま、ようやく少しだけ口を閉じた。それでも尻尾は不満げにぱたぱたしている。
ひなたは改めて箱を見る。毛を入れると、銅貨が出てきた。つまり、入れたものが何かしら別の物に変わる。それはわかった。だが、それ以上はまだ曖昧だ。
(入れたら何かしらの物に変換できる……)
(それはその毛と同等の価値の物か……?)
そして、ひなたはミルシアの方を見て思った。
(銅貨は一番価値が低い、よね?……ミルシアってポンコツ?)
(いや、今は関係ない……)
説明文を思い返してみても、完全には腑に落ちない。仕組みを理解したようで、肝心の中身がつかめていない感じがする。ただひとつ言えるのは、この箱がただの箱ではないということだけだった。
そのとき、ひなたの意識に外の街のことがよみがえった。見たことのない獣人の街にさっき聞いた巨大な樹。木造の建物がリアルにあり、あれが幻でないなら、自分は今知らない場所にいる。そして、ここで立ち止まっていても何も分からない。
ひなたは、まだぷんすかしているミルシアに声をかけた。
「ねぇミルシア。この街ってどんなところなの?」
ミルシアは頬をふくらませたまま答える。
「大きい街だよ。いろんな獣人が住んでるの」
「さっき言ってた村は、ここから遠いの?」
「うーん、歩くとちょっとある」
答え方は素直だが、まだ機嫌は戻っていない。尻尾がぷり、と一度大きく揺れたあと、ミルシアはちらりとひなたを見た。
「……おやつくれたら案内してあげてもいいの」
その言い方に、ひなたは少しだけ肩の力を抜いた。さっきの犬用おやつがよほど気に入ったらしい。怒っていてもそこは別なのか、と妙に感心する。
「ミルシア、案内してくれるの?」
「おやつくれたらね」
「交渉上手だね」
「そう?」
ひなたは棚から、さっきと同じおやつを取り出した。少し迷ったが、ひとまず今はミルシアの機嫌が優先だ。一粒渡すと、ミルシアはすぐに表情をやわらげて、それを大事そうに口に入れた。
「おいしい!」
「それはよかった」
「じゃあ案内してあげようか?」
さっきまでの不機嫌が嘘みたいに、ミルシアは明るい声でそう言った。尻尾の逆立ちも少しおさまっている。
ひなたは店の外へ視線を向ける。見たことのない街が広がっている。何もわからないまま閉じこもっていても仕方がない。目の前には、この場所を知っている案内役までいる。
「……そうだね。街を見てみないと……」
ひなたはゆっくり息を吐いた。
店の外には、見たことのない獣人の街が広がっている。
どうやら私は、本当に異世界というものに来てしまったらしい。




