もふもふカット専門店
ひなたは、窓の外に広がる森を見たまま固まっていた。さっきまで、向かいの家の塀も、細い道路も、電柱も見えていたはずだ。
なのに今、窓の向こうには高い木々が揺れている。葉の重なりの奥は薄暗く、見慣れた住宅街の気配はどこにもない。
「ひなた、どうしたの?」
鏡の前からかけられた声で、ようやく意識が戻った。ハサミを持った手が止まったままだったことに気づき、ひなたは小さく息を飲む。目の前には、まだカットの途中のミルシアがいる。今はまず、それを終わらせなければいけない。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」
できるだけ普通の調子でそう言うと、ミルシアは大して気にしていない様子で首をかしげた。
「もう終わる?」
「うん、もう少しね。じっとしててくれたら、すぐ終わるよ」
「じゃあがんばる」
さっきのおやつがまだ効いているのか、ミルシアは椅子の上でおとなしく座り直した。ひなたは深呼吸して、もう一度ハサミを構える。森のことは常に気になる。気になるけれど、今は目の前のカットが優先だ。仕事をしている間だけでも、頭をそちらに切り替える。
まずは髪の最終調整。丸みを出したい横のラインを少しだけ整え、首筋に沿う後ろの長さをそろえる。前髪は重くなりすぎないように少し軽くする。濡れていたときより乾いた今の方が、髪の表情がよくわかる。柔らかくて量があり、切るほどに形がまとまっていく。
「ミルシア、顔ちょっとだけまっすぐしていてね」
「こう?」
「そうそう。いい子」
「わたし、さっきからいい子っていっぱい言われてるの」
「ちゃんとできてるからだよ」
「えへへ」
笑うたびに耳がぴくっと動く。見れば見るほど不思議な光景なのに、作業を続けているうちに、ひなたの中では少しずつそれが当たり前になり始めていた。少なくとも、髪を切る相手として見れば、ミルシアはもうただの変わった客ではなく、ちゃんと仕上げたい一人の来店者だった。
全体の形が整ったところで、ひなたは次に尻尾へ目を向けた。ここからは本領発揮だ。絡まっていた部分はすでにほぐしてある。あとは形を作るだけ。丸みを活かしながら、外側の乱れた毛を少しずつ落としていく。
「尻尾どうなってる?」
ミルシアが気になったように体をひねろうとするので、ひなたは慌てて肩を押さえた。
「動かない。すごくいい感じだから、もうちょっとだけ待って」
「見たいの」
「見せるから、今は待って」
「うー」
不満そうな声を出しながらも、ミルシアはちゃんと止まった。ひなたは尻尾の外側を丸く切りそろえ、ふわっとした輪郭を作る。根元に近いところは切りすぎない。先の方だけを整えて、全体がポンポンのように見えるように調整する。犬や猫の尻尾で何度もやってきた感覚が、そのまま手に乗っていた。
最後に少し離れて全体を見る。髪は綺麗なボブ。頬まわりはやわらかく、首元はすっきりしている。尻尾は丸く、ふわふわで、見るからに触り心地がよさそうだ。最初のぼさぼさ加減を思えば、かなり見違えた。
「はい、終わりだよ。お疲れさま」
そう告げると、ミルシアはぱっと顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんと。降りていいよ」
椅子からぴょんと降りたミルシアは、まっすぐ鏡の前へ走った。そして自分の姿を見た瞬間、目をまんまるにする。
「すごい! 軽い!」
両手で髪の先を触り、くるりと横を向いてまた見る。今度は尻尾に手を伸ばした。
「尻尾も丸くなってる! 前よりふわってしてるの!」
嬉しそうに尻尾をぶんぶん振るので、その丸い形がよくわかる。ひなたは少しだけ肩の力を抜いた。少なくとも、仕上がりには満足してもらえたらしい。
「素材がよかったからね」
「そざい?」
「元の毛がよかったってこと」
「へへ、そうなんだ」
照れたように笑うミルシアを見ながら、ひなたの頭の中にはまた別のことが戻ってきた。さっき見た森。あれは何だったのか。見間違いなんかではない。目を逸らしても消えず、確かにそこにあった光景だ。
ひなたは意を決して、ミルシアに向き直った。
「ねえ、ミルシア。ここってどこなの?」
ミルシアは鏡の前で自分の髪を撫でながら、あっさり答えた。
「ここ?ベスティエ王国だよ?」
あまりにも当然みたいな口調だった。
「……王国?」
「うん。大きい樹があるところ。ひなた知らないの?」
もちろん知らないに決まっている。ベスティエ王国なんて地名も、そんな国があるという話も、ひなたは一度も聞いたことがなかった。けれどミルシアは冗談を言っている顔ではない。むしろ、どうしてそんなことも知らないの、という不思議そうな顔だ。
ひなたは喉の奥がひやりとするのを感じながら、入口の方へ歩いた。確かめるしかない。自分の目で、外を見て。
扉を開けた
そこに広がっていたのは、やはり見覚えのない森だった。店の前にあるはずの道路はなく、代わりに踏み固められた土の道が伸びている。その向こうには、ひなたが今まで見たこともないほど巨大な樹がそびえていた。太い幹は遠目にも圧倒的で、枝葉は空を覆うように広がっている。
さらにその周囲には、街があった。けれどそこを行き交っているのは、普通の人間ではない。耳や尻尾を持つ者たちが、当たり前のように行き交い、話し、荷物を運び、店先をのぞいている。
「なに、これ……」
声がかすれる。
ひなたは思わず一歩下がって、自分の店を振り返った。見慣れたはずの外観が、どこか木造の街並みに馴染むような雰囲気に変わって見える。入口の上に掲げられた看板には、見慣れない文字ではなく、はっきりと読める字でこう書かれていた。
《もふもふカット専門店》
「なんで……」
さっきまで《トリミングサロンひなた》だったはずだ。
混乱したまま視線を戻した、そのときだった。
店の中、カウンターの近くに、見覚えのない木箱がひとつ置かれていた。
ひなたは息を止めた。さっきまで、あんなものはなかった。絶対になかった。
外には見たことのない森と巨大な樹。行き交うのは耳と尻尾を持つ人々。そして店の中には、いつの間に現れたのかわからない木箱がひとつ。
その光景は何ひとつ、いつものままではなかった。




