トリミング?カット?
「……じゃあそれでは始めますね」
そう言ったはいいものの、ひなたの手は、ハサミを入れる直前でほんの少し止まった。
犬や猫のトリミングなら、もう何百回もやってきた。暴れる子、眠る子、なぜかドライヤーだけ全力で嫌がる子。そういう子たち相手なら、ひなたはかなり経験豊富なほうだと思っている。けれど今、自分の前に座っているのは、どう見ても犬でも猫でもない。
人間に近い?けれども人間とも違う……
小さな半円型の耳が頭の上でぴくりと動き、背もたれの横からは丸いポンポンのような尻尾がのぞいている。
その尻尾の毛はやはり少し絡まり、髪もまた、丁寧に洗えばかなり綺麗になりそうな質なのに、伸びっぱなしでまとまりがない。
人間と言うより、獣人と言うべきなのか。そんな言葉が頭に浮かぶ。
しかも、人生初の人間カットが、獣人らしき少女になるとは思わなかった。
(いや、なんでそうなるのよ……)
心の中でつぶやきつつも、ひなたはもう一度、目の前の髪を見た。量は多めだが、重すぎるほどではない。毛先に少しばらつきはあるが、流れはなんとなくつかめる。顔立ちは丸めで、頬に沿うように整えれば可愛くまとまりそうだ。尻尾の方も、根元から無理に梳きすぎず、毛先を丸くそろえてやれば、かなり見映えが良くなる。
不安はあるけれど、仕上がりのイメージ自体はできている。
(まあ、やるしかないよね……)
ひなたは小さく息を吐いて、まず前髪の長さを見た。ミルシアは鏡の前でちょこんと座っている。さっき入れたクッションのおかげで高さは合っているものの、やはり慣れないのか、体がふわふわ落ち着かない。
「少し切るから、動かないでね」
「うん。でも、これどれくらいかかるの?」
「そんなに長くはしないよ。……たぶん」
「ん?たぶん?」
最後の一言をしっかり拾われて、ひなたは苦笑した。
「大丈夫。ちゃんと可愛くするから」
「ほんと? じゃあじっとする!」
そう言ったわりに、ミルシアは三分もしないうちにもぞもぞし始めた。腰を浮かせて座り直し、尻尾をくるんと巻いてみたり、足をぶらぶらさせたりと忙しい。
「ミルシア、頭が動くと危ないよ」
「でも、お尻ちょっと痛くなってきたの」
「もう?」
「もうなの」
ひなたは内心で、いつもの子たちの方がお利口かもしれない、と思った。少なくとも常連の柴犬なら、ここでここまで落ち着きなくはならない。もちろん、相手は犬ではなく会話のできる女の子なのだから比べるのも変だが、それでも職業柄、ついそういう感想が浮かんでしまう。
どうしたものかと棚を見たとき、目に入ったのは犬用のおやつだった。乾燥させた小さなささみスティック。いつも、施術後のごほうびにあげているものだ。
(いや、でも、これ犬用なんだけどな……)
少し悩んでから、ひなたはミルシアに聞いた。
「ねえ、甘くはないけど、おやつあるよ。食べる?」
ミルシアの耳がピクピクと動いた。
「おやつ!?食べる!」
返事が早い。ひなたは一本まるごとではなく、小さくちぎって渡した。ミルシアはそれを口に入れ、もぐもぐしてから目を丸くした。
「おいしい!」
「それならよかった」
「もう一個ある?」
「ちゃんと座れたらね」
「じゃあじっと座る」
元気なものだと思いつつ、ひなたは少しだけ安心する。食べても大丈夫らしい。何を基準に大丈夫と判断していいのかはわからないが、少なくともミルシアは嬉しそうだ。
ハサミを入れながら、ひなたはなるべく自然に会話を続けた。こういうとき、犬相手なら声の調子で落ち着かせるが、ミルシアとはちゃんと会話ができる。なら、喋って気を逸らした方がやりやすい。
「ミルシアは、いつもどうやって髪切ってるの?」
「自分でちょっと切るか、お母さんにやってもらうの」
「お母さんが?」
「うん。後ろは自分じゃ見えないでしょ?」
「確かにそれはそうね」
ひなたは内心で納得した。どうりで前の方は比較的そろっているのに、後ろは妙に不揃いなわけだ。尻尾の手入れも、届くところだけ何とかして、結局うまくいかないまま放置されていたのだろう。
「ところで、さっき言ってた森ってどんなところなの?」
毛先を少しずつ整えながら尋ねると、ミルシアは楽しそうに話し始めた。
「大きな樹があるよ。すっごく大きいの。上のほうなんて、どこまであるのかよく分かんないくらいだよ」
「へえ……大きな樹か……」
「私の村はね、タヌキ系の獣人が多いの。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもそう」
タヌキ系獣人……
ひなたは思わず、ミルシアの耳と尻尾を見た。丸みのある小さな耳。ぽん、と丸くふくらんだ尻尾。
(ああ、なるほど。だからそんな見た目なのか……)
そう思うと、姿の印象にすとんと説明がついた気がした。もちろん、だから何だという話ではあるが、日本の住宅街で、タヌキ系の獣人の説明がつくこと自体がおかしい。けれど少なくとも、ミルシア本人の中では何もおかしなことではないらしい。
「今日はお母さんと一緒じゃないの?」
「ううん。一人で来たよ」
「すごいね。迷わなかった?」
「大丈夫だよ。街で最近できた店だから少し気になってたの」
ひなたの手が、そこでほんの一瞬止まった。
街で?
最近できた店?
その言い方が、妙に引っかかった。
この店は日本の住宅街にある。森の向こうだの村だのという話も十分に妙なのに、今の言い方は、まるでこの店がミルシアの暮らす街の中に、最近ぽんと現れたみたいだった。
「ん?ひなたどうしたの?」
「いや、なんでもない。ごめんね、止めちゃって。ちょっと動かないでね」
ごまかすようにそう言って、ひなたは再び手を動かした。考えるのは後だ。今はまず、目の前の髪を整える。
前髪の長さをそろえ、頬にかかる毛を軽く落とす。横はふわりと丸さが出るように重さを残し、後ろは首筋に沿って収まる長さへ整える。人間のカット経験はなくても、毛の扱いそのものには慣れている。どこを残し、どこを軽くするか。そういう勘は、やはり今までの仕事で身についていた。
「ねえ、まだぁ?」
「まだって言うほど時間経ってないよ」
「でもちょっと長いの」
「可愛くするには必要な時間なのよ」
「じゃあがんばる!」」
「えらい」
おやつをもう一つ小さくちぎって渡すと、ミルシアはにこにこしてそれを食べた。尻尾もさっきより機嫌よく揺れている。こうして見ると、気まぐれで落ち着かないところも含めて、やっぱり動物っぽい。けれど喋り方はちゃんと少女で、そのアンバランスさにひなたは何とも言えない不思議さを覚えた。
髪の形が少しずつ整っていくにつれ、ミルシアの顔立ちもはっきりしてきた。丸い目とやわらかい頬。ボブのラインが入ると、ぐっと幼く、愛らしい印象になる。これはかなり似合いそうだ、とひなたは思う。
「尻尾もちょっと整えるね」
「うん。そこ、絡まってるからお願いしたいの」
「見れば分かるくらい絡まってる」
「えへへ」
「褒めてないからね」
そう言いながらも、ひなたの口元は少し笑っていた。尻尾の毛を手に取ると、思った通り質はかなりいい。ふわっとして、量も十分ある。だからこそ、雑に切るともったいない。根元近くはそのまま活かし、外側の乱れた部分を少しずつ整えていく。丸く、やわらかく、触りたくなる形を目指す。
店内には、ハサミの小さな音だけが響いていた。ミルシアはおやつのおかげで今は機嫌がいい。外からは、昼間らしい静かな明るさが差し込んでいる。
ひなたは次の一房を指ですくい、角度を合わせた。そのまま何気なく顔を上げ、窓の外を見た。
そこで、手が止まった。
さっきまで見えていたはずの住宅街がない。
向かいの家の塀も、電柱も、細い道路もない。
窓の向こうに広がっていたのは、見覚えのない森だった。高い木々が幾重にも立ち並び、陽の光をまだらに遮っている。風が吹くたび、葉の影が揺れる。その景色は、作り物にも見えなければ、見間違いにも思えなかった。
ひなたの体から、すっと血の気が引く。
ハサミを持つ手が止まったまま動かない。
なのにミルシアは、何事もないように椅子に座っている。おやつをもぐもぐ食べ、少しだけ首をかしげた。
「ひなた、どうしたの?」
ひなたは答えられなかった。
ゆっくりと、もう一度窓の外を見る。
そこには、確かに見覚えのない森が広がっていた。




