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新しい客

  扉を開けた瞬間、ひなたが言葉を失うより早く、その小さな来訪者はするりと店の中へ入ってきた。


「どうも~。ここって髪を切ってくれるところでしょ?」


 明るくそう言ったのは、ひなたが見慣れているどんな客とも違う少女だった。年の頃は中学生くらいだろうか。茶色の髪は肩のあたりでぼさぼさに広がり、頭の上には小さなタヌキのような半円型の耳がちょこんと乗っている。


 しかもそれは飾りではなく、ぴくりと動いた。腰の後ろでは、丸いポンポンのような尻尾が左右にゆらゆら揺れている。

 ひなたは、開けた扉に手をかけたまま固まった。


「……えっ」


 ようやく出たのは、それだけだった。

 少女はそんなひなたの反応を気にした様子もなく、店の中をきょろきょろと見回した。トリミング台を見て、棚を見て、タオルの山を見て、最後にひなたへ向き直る。


「髪を切ってほしいの。あと、尻尾も絡まってるから綺麗にしてほしい! ほら」


 そう言うと、自分の尻尾を両手でつかみ、よいしょ!と持ち上げて見せてきた。確かに毛先のあたりは少し絡まり、丸い形も崩れている。艶はあるのに、きちんと手入れされていない感じだ。


 ひなたは反射的にその状態を観察してしまってから、はっとした。


「えっと……ここは……ペット専門のトリミングサロンなんだけど……」


 説明しながらも、自分で言っていて何が何だかわからない。目の前にいるのは、どう見ても人間と言いきれない。でも犬でも猫でもない。いや、耳も尻尾もついているのだから、そちら寄りなのかもしれないが、会話をしている時点で分類不能だ。

 少女は首をかしげた。


「ペットってなに?よく分かんないけど、切ってくれないの?」


「いや……そういうわけじゃ……」


 そこまで口にしたところで、少女の顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ切ってほしい! 髪も尻尾も綺麗にしてほしいの!」


 勢いよく言われ、ひなたは思わず苦笑した。押しが強いのにどこか柔らかい。こちらを困らせるつもりではなく、本当に当然の願いを口にしているだけなのだとわかる。


 改めて少女を見る。髪は伸びっぱなしで、毛先の向きもばらばらだ。尻尾はもっとわかりやすく、櫛を通していない毛の固まりがところどころにできている。素材自体は悪くない。むしろかなりいい。整えたらきっと映える。


「その……一応聞くけど、どこから来たの?」


 ひなたがそう尋ねると、少女は何でもないことのように答えた。


「森の向こうから歩いてきたよ」


 さらりと言う。言葉は通じているけれど、噛み合っているようで、どこか少しずつずれている。


 ひなたはまだ、ぎりぎりまでコスプレの可能性を捨てきれなかった。最近はイベント用の小道具も精巧だし、そういう趣味の人だと言われれば、なくはない。なくはないけれど、目の前のこの自然さは何だろう。


「ちょっと失礼……」


 確かめるつもりで、ひなたは頭の上の小さな耳を軽くつまんだ。引っ張るつもりはなかった。ただ、本物かどうか触れればわかるかもしれないと思っただけだ。


「イテッ」


 少女はすぐに耳を押さえて抗議した。触れた感触は、どう考えても付け耳ではなかった。温度があり、柔らかくちゃんと生きている耳の感触だった。


「……うそ……でしょ」


 ひなたが小さくつぶやくと、少女はもう気にしていないのか、店の奥を覗き込んでいた。


「ここ、いい匂いするね。毛を洗うところなの?」


「う、うん……そうだよ。トリミングっていうのは、まぁ簡単に言うと、毛を整えたり洗ったりする仕事をしてるからね……」


 答えながら、ひなたは少しずつ落ち着きを取り戻していた。混乱はしているけれど、目の前にいるのは困って店に来た客だ。トリマーの習性なのか、そう思うと体が先に動き出す。


「じゃあやっぱりここで合ってるじゃん。髪も尻尾も整えてほしいの」


 まっすぐに言われて、ひなたは内心で小さくため息をついた。


 私は犬猫専門なんだけどな、と内心思う。そう思うのに、視線はもう髪の流れや毛の密度を読みにいってしまう。髪は見た目より柔らかい質感で、量は多め。耳の付け根の近くは毛流れが独特で、普通の人間の髪とは少し違う。尻尾の毛は丸みを出せばかなり可愛く仕上がりそうだ。そこは完全に得意分野だった。


「じゃあ……まず椅子に座ってみようか」


 ひなたがそう言うと、少女は素直にうなずいた。


「うん。どうやってやるのか見てみたい」


 案内して椅子に座らせてみると身長が足りず、座面にちょこんと埋もれるような格好になった。ひなたはすぐにクッションを持ってきて高さを足す。


「これでどう?」


「おお、ちょっと高くなった」


 少女は嬉しそうに足をぶらぶらさせ、周囲をきょろきょろ見回した。それだけで尻尾がゆらゆら揺れる。


「ねえ、お名前なんていうの?」


「私?私は瀧野ひなた。ここの店主だよ」


「わたしミルシア。よろしくね」


 にこっと笑う顔は無邪気で、ひなたもつられて少し笑ってしまった。


「よろしく。で、どんな感じにしたいの?」


 ミルシアは少しだけ考えてから、ぱっと顔を上げた。


「かわいくしてほしいの。ふわっとしてる感じがいい!」


 あまりにも抽象的だ。けれど、その言い方には迷いがなかった。


「わかった。じゃあまず洗うところから始めよう」


「水って冷たくない?」


「大丈夫。ちゃんと温かいよ」


 シャンプー台へ案内すると、ミルシアは少しだけ肩をすくめたものの、おとなしく身を預けた。シャンプー台と言っても動物用のシャンプー台なんだけどね。


 髪を濡らしていくと、獣臭さのようなものはほとんどなく、むしろ乾いた木の葉みたいな匂いがかすかにする。森の向こうから来たという言葉が、妙に現実味を帯びた。


 目が合うのが何となく気まずくて、ひなたは顔の上に軽く布をかけた。


「うわ!なんか前が見えない」


「ごめんね、ちょっとだけ我慢して」


 言ったそばから、ミルシアはもぞもぞ動いて布をずらし、隙間から目がじっと合う。ひなたは吹き出しそうになりながら、髪を丁寧に洗っていく。


「じっとしてたらすぐ終わるから」


「うーん……」


 最初は落ち着かなかったミルシアも、温かい湯と頭皮を優しく洗われる感覚に負けたらしい。しばらくすると返事が弱くなり、やがてすうすうと寝息が聞こえ始めた。


「え、そこで寝るの!?」


 思わず声に出たが、ミルシアはもう完全に夢の中だ。耳も尻尾も力が抜けて、ふわりと沈んでいる。


 ひなたは苦笑しながら洗い流しを終え、タオルで水気を取った。ドライヤーを当てても、ミルシアは半分寝たままうつらうつらしている。乾いていくにつれて、髪も尻尾も本来の柔らかさがはっきりわかった。これは確かに整えがいがある。


 トリミング台に戻し、体勢を整える。ハサミを手に取ると、さっきまでの混乱が少し遠のいた。目の前にいるのが何者なのかはまだわからない。わからないけれど、毛の流れを見て、長さを想像し、仕上がりを組み立てるこの感覚だけは、いつも通りだった。


「それじゃあ始めるね。ミルシア、少しじっとしてて」


 半分眠たそうな目のまま、ミルシアは小さくうなずく。


 ひなたはハサミを構えた。

 その瞬間、ひなたはふと考える。


 この子は、本当にどこから来たんだろう。

 近くに森と言うほどの森はない。


 それにここは日本だ。住宅街の小さなトリミングサロンで、昼過ぎでついさっきまでいつもの常連さんといつもの会話をしていた。そんな場所に、こんな子が当たり前みたいな顔でやって来るはずがない。


 なのに、目の前のミルシアは少しも不自然そうにしていない。

 不自然なのは、驚いている自分のほうみたいに思えてくる。

 ひなたは息をひとつ整え、ハサミの角度を合わせた。


「……じゃあ、それでは始めますね」

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