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閉店間際のノック

 住宅街の一角にある小さな路面店。そのガラス扉に、丸みのある文字で《トリミングサロンひなた》と貼られている。


 昼下がりのやわらかな光が店先を照らし、通りを行く人の足取りものんびりしていた。大通りから少し外れた場所にあるせいか、車の音も遠い。聞こえるのは、電線にとまった小鳥の声と、店の奥で回るドライヤーの低い音くらいだった。


「はいはい、もうちょっとだけねー」


 店主の瀧野ひなたは二十五歳は、独立してから三年。トリミング台の上に立つ柴犬の首元をそっと支えながら笑った。肩につかない長さの髪を後ろでまとめ、エプロンの胸元には自分の店の名前と同じ、ひらがなで《ひなた》と刺繍してある。明るい声は店の空気によくなじみ、初めて来た犬でも少しすると落ち着いてしまうことが多かった。


 今日の予約は、この柴犬の一件だけだった。朝のうちに予約表を見たときは少し拍子抜けしたものの、こういう日もあるよねとすぐに気持ちは切り替えた。忙しい日にまとめてできない掃除や道具の手入れをするにはちょうどいい。店を開いてから数年、そういうふうに波を受け流すことも覚えた。


「よしよし、いい子だねえ」


 ブラシを通すたび、柴犬の背中の毛がふわっと起きる。耳の後ろは絡みやすいから丁寧に。足回りは汚れが残りやすいので短めに整える。尻尾はこの子の特徴でもあるから、丸みを残しながら形だけを整える。動物ごとに似合う長さや触り心地がある。そこを外さないのがトリマーの仕事だと、ひなたは思っていた。


 受付のそばで待っていた飼い主の女性が、笑顔でその様子を見ている。


「ここに来ると、この子ほんとに機嫌いいんですよ」


「うれしいです。今日は毛並みの状態もいいですね」


「朝ちょっとだけブラッシングしてきました」


「おぉ、それは助かります。下準備してもらえると、この子も楽なんです」


 そんな会話をしながら、ひなたは最後にコームを通した。細かい毛を払ってから、全体のバランスを見直す。耳、頬、胸元、足、尻尾。少し離れて眺めて、うん、と小さくうなずく。


「よし、完成です」


 台の上の柴犬は終わったとわかったのか、ぱたぱたと尻尾を振った。ひなたが抱き上げて床に下ろすと、そのまま飼い主のもとへ駆けていく。女性はしゃがみ込み、ふわふわになった背中を撫でて嬉しそうに笑った。


「かわいい。ありがとうございます」


「こちらこそです。また来月くらいに来てもらえると、いい感じを保てますよ」


「はい、またお願いします」


「待ってます」


 ガラス扉のベルが軽く鳴り、常連客と柴犬が店を出ていった。ひなたは扉のところまで行き、軽く会釈をして見送る。通りの向こうへ姿が小さくなると、店の中にはふっと静けさが戻った。


 ひなたは壁の時計を見上げた。まだ昼を少し回ったくらいだ。これで今日の予約は終わり。忙しい日ならすぐ次の犬を迎える時間だが、今日はもうカルテを開く必要もない。


「さて、と」


 カウンターに戻り、レジの中身を確認する。今日の売上は一件分。控えの紙と照らし合わせて金額を確かめ、問題がないことを確認する。次にカルテを開き、今日の施術内容を簡単に書き込んだ。耳後ろのもつれ軽度、足回り短め、次回も同程度の長さ推奨。


 次に予約表にも目を通す。明日は午前にプードル、午後にダックス。どちらも何度も来ている子だ。特別な準備はいらない。


「よし、問題なし」


 ファイルを閉じると、ひなたは片付けに取りかかった。使ったタオルをたたみ直して棚へ戻す。ブラシについた毛を取り、軽く拭いて元の位置へ。バリカンの刃を外し、細かい毛を払い落としてからオイルを差す。作業は手慣れたものだった。


 店の中は落ち着く。広くはないが、自分の手で整えてきた空間だ。棚の高さも道具の位置も、全部が使いやすい。大きなチェーン店のような派手さはないけれど、そのぶん、この店には自分のやり方がそのまま詰まっている。


 床に落ちた毛を掃き寄せながら、ひなたは小さく鼻歌を歌った。静かな昼下がり。窓から入る光が、トリミング台のステンレスをやわらかく照らしている。

 そのときだった。


 トントン、トントントン


 入口の扉を叩く音がした。

 ひなたは顔を上げる。宅配便ならインターホンを押すはずだ。この店にはちゃんとチャイムがある。しかも今日はもう予約がない。新規の客だとしても、普通は電話かメッセージで問い合わせが来る時間帯だった。


「ん?」


 ほうきを壁に立てかけ、入口のほうを見る。ガラス扉の向こうに、ぼんやりと小さな人影があった。


「誰ですー?」


 ひなたはいつもの調子で声をかけた。だが返事はない。


 トントン、トントントン


 同じリズムで、もう一度ノック。

 急いでいる感じでもない。ただ、そこにいることを知らせるような、妙に落ち着いた叩き方だった。


「あれ?聞こえてます?」


 そう言っても反応はない。無視されているというより、こちらの言葉が届いていないような妙な感覚がある。


 ひなたは首をかしげながら入口へ歩いた。ガラス越しの影は動かない。昼の光を背にして立っているせいで、輪郭が白くぼやけて見える。小柄な人影だった。


「はいはい、いま開けます」


 軽い調子で言いながら、ドアノブに手をかける。昼間だし怖さはない。ただ少し不思議な感じがするだけだ。


 扉を開けたその瞬間、ひなたは言葉を失った。


 目の前に立っていたのは、日本にいるはずのない存在だった。

 いや、日本どころか、この世界にいるはずがない。


 小説やゲーム、アニメの中でしか見たことのない、まるでファンタジーの住人のような存在が、当たり前のような顔で店の前に立っていた。

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