一 ~出会い~
すれ違う人たちが皆、私をジロジロと見ていることは容易に分かった。都会のような、そこらじゅうで人混みが交差しているような場所ではないが、しばらく歩いていれば、これほどの田舎道でも人とはすれ違う。
車道の端の、自転車通行用のスペースを歩きながら、すぐ横を通り過ぎる車を横目に、私はただ一つの手がかりをもとに歩いた。
気づけばもう、太陽を見るのは二度目だった。青空に浮かぶ陽の光は、私の哀れな姿を容赦なく照らす。この一日で、大雨によってびしょ濡れになった服も本体も、なんとか乾かすことはできた。
同時に、あのような場所にいた自分の服が、ある程度綺麗な状態で残っていたことに、私は後で気がついた。おかげでこのように、胸を張って人前を歩くことができてはいるが、私はそのことが気になって仕方がなかった。これも彼女の言っていた、「幸運」というものなのだろうか。
体温センサーの温度、通りゆく人々の身につける服装。そして、年末セールのポスターやしめ飾りなどが見られないことから、今が一月下旬~二月頃であるということは、皆目見当がつく。しかし記憶が失われているせいで、どれくらいあそこで眠っていたのかまでは、考えようがなかった。早く記憶を取り戻さなければ、という無意識の焦りが、私の足を前に進めさせた。
静かな住宅地の緩やかな下り坂を曲がっていくと、左手のガードレール越しに、坂の下の方の景色が一望できた。都会のようなビル群はそこそこに、なだらかな建物の街並みが広がっており、遠くの方には、陽の光で輝く海が見える。
そのまま坂を少し進むと、右手に、滑り台とベンチが置かれただけの小さな公園があった。小学校低学年ほどの子供たちが二人、一人の大人の女性とキャッチボールをして遊んでいる。ただの日常の風景に見えなくもないが、二人と遊んでいる彼女も、“それ”であるということはすぐに分かった。
「二人とも上手だったね。そろそろお時間です。お家に帰りましょうか」
「え〜、もっと遊びたい〜」
「遊びたい〜」
「今頃お家で、お母さんがご飯を作ってくれているところです。今日のメニューは、二人の大好物の、カニクリームコロッケですよ」
「え、やった〜!早く帰ろ〜!」
「帰ろ帰ろ〜!」
長男の方が、小さな右手に大事そうにボールを握っている。二人は彼女と手を繋ぎ、公園から足早に去っていった。それを見届けていると、さらに私の後ろから、車椅子に乗ったご老人と、その車椅子を押す一人の男性が歩いてきた。
「本日の巳波様のお身体の様子から、今日はここで引き返した方がよろしいかと」
「構いませんよ。いつもすいませんね。このお散歩だけは、どうしても欠かせなくてね」
笑顔で応えた男性は、道路を左右確認した後、横断歩道を渡り、ゆっくりと車椅子を押して坂を登っていく。ご老人が坂の下の景色を眺められるようにか、歩道の狭いガードレール側を歩いていった。
記憶媒体をリセットされているとはいえ、この程度の常識は頭脳に残っていたため、驚きはしない。むしろ、自分が知っている日常風景がそのまま存在していることに、私は安堵した。だが、ファイルに示された住所付近までやってきても、何一つ思い出すことはなかった。
やはりデータの塊というのは、人間とは大きく違っているらしい。
私は、足を進めた。
ようやく辿り着いた場所は、一戸建ての民家だった。二階建の白い建物で、門扉の奥のスペースには花壇が広がっている。アネモネの赤とスイセンの白が、玄関までの通り道を鮮やかに彩っていた。
表札を見ると、『園村』と書かれている。念の為、脳内データベースで検索をかけるも、やはりヒットしない。
この家の住所が、私の中に唯一残っていた情報だ。私は過去に、ここに来たことがあるのだろうか。門扉の前に立ち尽くし、一人考えを巡らせていると、背後からヒールの靴音が近づいてくるのが聞こえた。
「もしもし、どちら様?」
私の背後に立っていたのは、オレンジ色のマイバッグをぶら下げた、四十代ほどの女性だった。すみれ色のシャツに、柄の入った紺のミディアムスカート。髪は少しパーマがかかっていた。
「私は、コールと申します。あの、こちらにお住まいの方ですか?」
「ええ、そうです。あなたアンドロイドよね。家に何か用でも?」
彼女の詰め寄るような問いかけに、返答に困ってしまった。正直にいえば逆に怪しまれてしまう。そもそも、こんな得体の知れないアンドロイドを、家に入れるわけがない。
と、私の考えがまとまる前に、相手の女性が思い出したかのように声を上げた。
「あ!もしかして、お願いしてた家事アンドロイド?」
「.......はい、そうです。本日から園村家でお世話になります」
今はそう答えるしかなかった。
「あら、そうだったの。予定よりずいぶん早いのね。まあいいわ、入って」
「ありがとうございます。失礼します」
言われるがままに門扉を潜り、色鮮やかな庭を横目に、私はあっさりと家の中に入ってしまった。
入ってすぐの直線の廊下を進むと、左右の壁には、若い女性の笑顔の写真が額縁に収められ、いくつも飾られている。娘さんだろうか。
奥まで進むと、突き当たり左に十四畳ほどの縦長のリビングがあった。「適当に座ってて」とだけ私に言い、先ほどの女性はそそくさと、対面式のカウンターキッチンに向かった。奥から、カンカンと瓶の擦れるような音が聞こえてくる。キッチンから聞こえてくる音に耳を傾けながら、私は今一度リビング全体に目を向ける。
窓にかけられた花の形のガラス飾りが、陽の光を通して、室内に淡く黄色い光を照らし出している。玄関からここに至るまで清潔感に溢れていたのだが、キッチン手前のダイニングテーブルに、ビール瓶と中身が少し残っているコップが置きっぱなしになっていることに気がついた。
窓の近くに、仏壇が設置されている。中心の写真には、白い髭を少し生やして優しい笑顔を浮かべる、ベージュのジャケット姿の男性が映っていた。推定年齢は四十代後半から五十代前半。おそらく、あの女性の夫であろう人だということは察しがついた。細かく分析を試みようとしたところで、キッチンから戻ってきた彼女が、私の横の一人がけソファにドカッと座る。そして手に持った一枚の紙切れを、テーブルの上に放り出すように置いた。
「とりあえず、ここに書いてあるとこだけやってもらえれば大丈夫。しばらく手つけてなくて、片付いてないところもあるけど、適当にやっといてくださいね。あと、二階の左奥の部屋はやらなくていいから、あなたは入らないでね」
紙切れには乱れた文字で、キッチン、風呂場、寝室などのやることリストが書かれている。質問したいことを抑え込み、まずはリストをしっかりと記憶した。
私が顔を上げると、彼女は切れ長の目で、私の手元のメモを突き刺すように見つめていた。「じゃあ、分からないことあったら聞いてね」という彼女の言葉に、私が早速質問を投げようとした時、玄関ドアが開く音がした。
「お母さん、ただいま」
「おかえり。朱里、ちょっと来てくれる?」
彼女が朱里と呼んだその女性は、足取りの重い様子でリビングに顔を出した。黒のハンドバッグをダイニングテーブルに放り出すと、私を見て、一瞬にして表情が固まった。得体の知れない異星人でも見たような反応だ。
「なんでアンドロイドがいるの?」
「家事アンドロイドを買ったの。朱里だって、これから大学忙しくなるし、少しは負担減るでしょ?」
「うん、そうだね......」
明らかな作られた笑顔と、無関心な二つ返事を返し、朱里は二階へ向かっていった。
「娘の朱里です。あ、私は母の昌美です。あなた、名前は?」
「コールと申します。あの、失礼ですが、私に何か心当たりなどありませんか?」
「は?」
私はようやく最初にすべき質問を思い出し、昌美に早速投げかける。
「たとえば、どこかで会ったことがあるというような、ご記憶は?」
「アンドロイドなんて、同じ顔だらけで分かりませんけど」
昌美はぶっきらぼうに答えた。どうやら、彼女らは私を知っている様子はない。たとえ以前何か接点があったとしても、覚えていることも無さそうだ。
唯一の手がかりが呆気なく不発に終わった挙句、針の筵に自ら入り込んでしまったかもしれないことに、私は困惑してしまった。
「じゃあ、特になければ、後はお願いね。キッチンは最後でいいから」
「分かりました」
私という存在に一瞥もくれず、昌美はソファから立ち上がると、スタスタとダイニングテーブルに向かい、コップに残っていたビールを飲み干した。
私はもはや全てを諦め、コップに次のビールを注ぐ昌美を横目に、まずはリストにある二階の寝室へと足を進めた。いつの間にか青空を覆い始めた雲によって、家の中はフィルターがかったように、薄暗くなっていた。
◇ ◆ ◇
ある程度まとめて洗濯機を回すつもりだったのが、寝室に転がる洗濯物すらも、全てが洗濯機に入りきらなかった。これは何日かかることかと、私は二往復目の階段を登りながら考えていた。
当然ながら、私は家事アンドロイドではない。仮にリセットされる以前にそうだったとしても、今の私は専門的な知識など持ち合わせていない。朱里さんの部屋に辿り着くまでに、インターネット上から最適な家事の知識を検索し、ある程度の知識は身につけたつもりだ。その程度の知識で何とかなればいいのだが。
階段を上がると、すぐ右側にある部屋の扉に、"あかり" と書かれた小さな木の板がぶら下げられている。
「コールです。入ってもよろしいでしょうか」
扉をノックしてからしばらく置いて、朱里は扉を半開きにして、こちらに顔を覗かせる。近くで見ると、彼女の大きな涙袋には、隈が見られた。
「なんでしょうか」
「お部屋のお掃除をしたいのですが」
「自分でやるので、大丈夫です」
「そうですか」
またしても、二つ返事で朱里は答えた。
気のせいだろうか。先ほどリビングで聞いた時とは、声色が少し変わっている気がする。今の朱里の声からは、あの時、廃棄場で出会った彼女に似た、温かい何かを感じた気がした。あくまで、機械が読み取ったことに過ぎないのだが。
私は紙に書かれた『朱里の部屋』の文字に斜線をひき、軽く頭を下げる。踵を返し一階へ降りようとした時、「ちょっと待って」という朱里の声が、私を呼び止めた。振り返ると、扉の隙間から顔を覗かせたまま、朱里は何かをためらっている様子だった。目を泳がせながら、朱里は小さな囁き声を出す。
「......母さん、今下にいますよね?」
「はい。少々飲みすぎてしまったようで、今はお休みになられています」
薄暗い空間に流れた少しの間の後、まるで独り言のように朱里は呟いた。
「......あの左奥の部屋も、やってほしいかも」
そう言いながら、彼女の目線は一瞬その部屋に向く。さっきまでとは正反対の、何かを訴えかけるような目だった。
「しかし、あの部屋は入らなくてもいいと」
「......バレなきゃいいです。お願いします」
そう言って、扉は静かに閉まった。
最後に朱里は、私の目を初めて真っ直ぐ見つめた。まるで、真っ暗闇の水平線上に浮かぶ、光の信号を捉えたような感覚だった。
私はなぜだか、今の朱里を信じてみたくなった。一階から微かに聞こえてくるいびきを今一度確認した後、私は廊下を奥へと進んだ。
扉の前に立ち、まずは中の音を確認した。扉の中は無音ではなく、微かにカチカチという音が聞こえた。人の声らしきものは、何も聞こえない。
もはや自分の過去を調べることなど忘れ去り、私は、軽く二回ほど扉をノックした。中から返事はない。少しの間を置いて、私は静かに扉に手をかけた。
内開きの扉を開けると、カーテンのしめられた部屋の中は、電気もつけられていない暗闇だった。その中で、小さなテレビ画面の光に照らされ、部屋の真ん中にちょこんと座り込む部屋着姿の少年が、私の目に映る。大きく綺麗な瞳に、顔は少し痩せこけて見え、首元まで伸びた髪にはベタつきが見られる。
私の入室に動きが止まった彼の手には、ゲームコントローラーらしきものが握られていた。少年は何やら怯えた様子で、私を真っ直ぐに見つめる。
彼を怯えさせないよう、ゆっくりと踏み出した私の右足が、床に転がっていたビニール袋を、クシャリと音を立てて踏みつぶした。
「驚かせてごめんね。私はコール。今日からこの家で、家事アンドロイドとしてお手伝いをさせてもらうよ」
「......」
少年は静かに会釈をした後、テレビ画面に映るゲームを再開させた。扉の外から聞こえたカチカチという音が、彼の動かすコントローラーから聞こえる。警戒心というか、少年は何かに怯えているように見えた。
いや、その前に確かめなければいけないことがある。
「君は、昌美さんのご子息だよね?」
少年は、静かに一度頷いた。
「見たところ、ここは片付けるものが少し多いみたいだ。お掃除してもいいかな?」
「......ダメ」
テレビ画面から目を離さず、手を止めず、少年は答えた。
暗闇の中に浮かぶ彼の顔を、私はもう一度よく観察する。そして、とある確信を持った。
「その顔の絆創膏、どうしたんだい?」
「......昨日転んだ」
ビンゴだ。少年は嘘をついた。
今すぐ解決策に踏み出そうと一瞬考えるも、朱里のあの様子、そして少年のこの落ち着いた態度。外部に連絡をするのは、もう少し後にした方が良いのかもしれない。機械のような論理的な思考、行動で解決できるほど、人間が単純な生き物ではないことくらい、分かっているつもりだ。
今すぐ少年の着ている部屋着を脱がし、証拠を抑えるべきだという論理的な思考に抗い、私は開けたままだった扉を静かに閉めた。そして膝をつき、目線を合わせたうえでコンタクトを試みる。
「君の名前は?」
「......修哉。中学一年生」
「ゲームが好きなのかい?」
「......これ、一年前に、アンドロイドが家のポストに入れていったんだ」
「アンドロイドが?」
「うん。母さんには言ってない」
彼の警戒心を解くよう、少しずつ言葉を選んでいく。
「RPGゲームだね。それも、少しレトロな雰囲気だ」
「ダサい?」
「とんでもない。素敵な趣味だと思うよ。ゲームはいつの時代にも、プレイヤーに多くのものを授けてくれる。素晴らしいコンテンツだ」
「......そうだね」
ボソッと言い放ち、修哉はコントローラーを布団に静かに置いたと思うと、徐に立ち上がった。奥にあったリュックからノートと筆箱を取り出すと、私のすぐ横を通り過ぎ、部屋の扉を開ける。
立ち上がった彼の体は、立っているのもやっとに見えるほど痩せこけていた。
「どこに行くんだい?」
「宿題。母さんの前でやる約束なんだ」
修哉は廊下へ出て行った。俯いていたせいで、彼の表情は陰になり確認できなかった。
一人取り残された暗闇の部屋で、私は床に散らばるゴミを確認し始める。カップラーメンのゴミ、コンビニのおにぎりのゴミがまとめられたビニール袋。別のゴミ袋の中身は、二五〇mlの小さな空のペットボトルで埋まっており、分別はしっかりされている。
私が捨てては、この部屋に入ったことが昌美にバレてしまうため、今は手を出すわけにはいかない。
まずは布団を直そうとした時、不意につきっぱなしのテレビ画面が目に入る。
タイトル画面には大きな文字で、『ミャームの冒険』と書かれていた。
小さい音量で、背景に流れる底抜けに明るいBGMが聞こえてくる。ヴァイオリン、ハープ、笛を主旋律として、楽曲が織りなされている。しばらく聞き入った私は、この楽曲を自分の記憶媒体に刻み込んだ。
「......これは、」
その時、私はあることに気がつく。このゲームのことが気になってしまい、インターネット上で『ミャームの冒険』を検索した時だ。
データベース上に浮かんだ検索結果に、私は困惑を隠せなかった。
「どういうことだ......?」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「続いて、昨日起きた、アンドロイドに関するニュースです。昨日、路上を歩いていた一体の男性型アンドロイドが、突然炎に包まれるという事件が発生しました。付近の監視カメラの映像には、道を歩いていたアンドロイドが、何の前触れもなく炎に包まれ、停止するまでの様子が捉えられていました。幸い、周囲に怪我人は出なかったものの、一歩間違えれば大惨事に繋がる可能性もある、危険な出来事でした。これを受け、この個体の製造元である山芝工業は、メーカー対象の全アンドロイドの回収を、企業や一般家庭に向けて発表しました。またこれにより、全国で大規模な労働者の不足が確認されており、多くの企業から悲鳴が上がっています。今回の事態に専門家は『今回の事例は、アンドロイド社会における一つの転換点となり得るものであり、技術に頼りすぎている社会の現状を、我々はもう一度見直す必要がある』と、社会への警鐘を鳴らしています」
電気屋のテレビに映ったそのニュースを強く記憶し、私は満杯のマイバッグを持ち直して、再び帰路についた。
帰路の途中、私は今日も、同じ思考を繰り返していた。
昨日、昌美に入らないよう言われたあの部屋で出会った、修哉という息子の存在。玄関からリビングに至るまで、額縁に飾られた幾つもの写真の中に、修哉の姿は無かった。そして、修哉が転んだと言った、あの顔の怪我。
その全てから導かれる真実において、最善策を考えようにも、今は情報が少なすぎる。おそらくまだ、私は手を出すべきではない。
その結論の通り、私はこの件において、今は“黙認”を選択した。
「ただいま戻りました」
預かっていたスペアキーで玄関ドアを開け、そろそろ戻っているはずの昌美に帰宅を知らせる。しかし、返事らしきものは聞こえない。廊下奥のリビングから聞こえたのは、狂気に塗れたような、昌美の怒号だった。
「先生の前で私に恥かかせて!この親不孝者!」
「余計なこと言わなきゃいいだけなのに。そんなことも分からないの?」
朱里の声も聞こえる。朱里の声色は、最初にリビングで聞いた時の、凍りつくような冷たさが宿ったものだった。
足を止め、リビングの手前で私は聞き耳をたてる。そこへちょうど、昌美が手提げカバンを片手に、足早に廊下へ飛び出してきた。昌美は私を見て、一瞬の驚きの表情と共に立ち止まる。
「......あら、帰ってたの」
「ただいま戻りました。領収書はどちらに置いておけばよろしいでしょうか?」
「テーブルに置いといて。私ちょっと出かけるから。お風呂掃除よろしくね」
それだけを言い放ち、昌美は私の肩にややぶつかりながら、乱暴に玄関ドアを押し開ける。閉める寸前、昌美は一言だけ私に残した。
「そこにいる子のこと、気にしなくていいから」
言い終わるとほぼ同時に、玄関ドアは大きく音を立てて閉ざされた。ドアの向こう側で、門扉の閉まる音がするのをしっかり確認してから、私はようやくリビングに入る。
リビングに広がる景色は、おおよそ私の予想通りだった。ヨレヨレのリュックサックを背負ったまま、床に座り込む修哉。朱里はその横で、一人がけソファに座り、下を向いている。修哉はあの部屋にかけてあった、中学校の制服を着ていた。
長袖の制服だが、下に黒のヒートテックを着用しており、首元まで隠れている。
そして左の頬は、薄い赤色に染まっていた。
死んだように動かず、ずっと宙を見つめているだけの修哉の目の中は、黒い絵の具を落としたように、光を取り込んでいなかった。
「修哉くん、大丈夫かい?」
最適解の言葉をかけたつもりだったが、修哉は無反応だ。
「朱里さん?何があったんです?」
私の質問に答える前に、朱里は椅子から立ち上がり、修哉の目の前に膝をつく。そこから先のことも、私にとっては想定通りの出来事だった。
「......ごめん修哉。私が無力なばっかりに」
朱里は修哉の体を、自分と一体化させるほどに強く、優しく腕の中に包み込んだ。それでも修哉の体は、死んだように動かないままだ。
「もう少しだけ耐えて。お願いだから......」
そこで私はようやく気づく。今にも消えてしまいそうな朱里の声は、あの時、彼女の部屋の扉越しに聞いたそれに戻っていた。
あの時朱里は、昌美にバレないよう、私を修哉へと導いた。昌美が私に隠そうとした息子の存在を、朱里は教えてくれた。朱里が私の協力者であることは、その時からすでに予測できていたことだ。もちろん、朱里の目的としている地点については、未だ見当がついていないのだが。
「......」
自分を包み込む姉の手をするりと抜け出した修哉は、目を赤らめる朱里に向かって、表情も無く一つ頷く。そのままトボトボと床を見ながら、リビングの入り口へと向かって歩いていく。
「......セーブファイルみたいに、戻れたらいいのにね」
独り言のように、修哉は私たちにそう伝えると、慣れたように二階への階段を上がっていった。二階奥で、軋む扉の閉まる音が聞こえるまで、朱里も、私も動かなかった。
「......」
「少し休みましょう。今、コーヒーを淹れます。お母様から、朱里さんが疲れている時には、コーヒーを飲ませてあげてほしいとお聞きしています。食材を整理してからご用意するので、少々お待ちください」
私はマイバッグをダイニングテーブルの上に置き、食材の整理を始める。昌美の申し付け通り、半額になっている食材を中心に買ってきたため、ジャガイモの袋にも、細切れの豚肉のパックにも、半額のシールが付けられている。
買い物リストには、修哉の部屋で見たものと同じ、カップラーメンも含まれていた。二つのカップラーメンと、二五〇mlのミネラルウォーターが二本。これは言われた通り、ダイニングテーブルの隅に並べて置いておく。
冷蔵庫を開き、レタスなどの野菜を野菜室に入れていると、唐突に朱里の声がした。
「......お父さんが死んでから、母さんはおかしくなりました」
突然の言葉に、私は思わず手を止める。冷蔵庫を一度閉じ、私は朱里の方へと振り返った。
「お父様が亡くなられたのは、いつ頃ですか?」
「二年前の春頃に、病気で亡くなったらしいです。父は、いつも仕事で忙しくて、なかなか家に顔を見せてくれませんでした。でも、たまに帰ってきてくれた時には、いつも私たちのことを思いっきり抱きしめてくれました。たまにしか会えなくても、私たちは父が大好きだったんです」
朱里の視線が、仏壇の方へと向く。初めて来た時ぶりに、私も仏壇に飾られた父親の笑顔を、じっくりと観察した。
「お仕事は何をされていたんですか?」
「分かりません。父は、家では仕事の話をしなかったので。亡くなったことを聞いたのも突然でした。だから死に目にも会えなくて」
「その頃から、お母様は修哉くんに虐待を?」
朱里の手が、小刻みに震え出すのを見逃さなかった。手を重ね、必死に震えを抑えようとしているのが見てとれる。
朱里は、そこでようやく私に目を向けた。
「......母が修哉を好きじゃなかったのは、昔からです」
声がどんどん震えていく。顔は俯いていく。彼女が見てきたものを想像しながら、私はさらに情報を聞き出した。
「学校には、ちゃんと行っているんですか?」
「はい。でも今日、学校側から母に呼び出しがかかって、私も嫌な予感がして着いていきました。そしたら担任の先生が、『修哉くんは、家で十分な暮らしをできていないようです』って言ったんです。それで帰ってきたら、母が修哉に、『私に恥をかかせるな』とか言い出して......」
「そういうことでしたか」
大体の事情は把握することができた。
おそらく学校側も、今の修哉に起こっていることは、おおかた見当がついていることだろう。だが、おそらく今の私と同じで、まだ踏み込めずにいる。勇み足をしてしまうと、被害が全て修哉に降りかかることは、私でも理解できる。
ソファに座り込み、哀愁に支配された朱里の横顔に、雲から顔を出した陽の光が、窓ガラス越しに美しいスポットを当てた。
「ごめんなさい。コールさんにお話することじゃなかったです」
「むしろありがたいことです。ここに来た以上、この件は私も知っておくべきですから」
笑顔の表情でそう返すと、朱里の表情に安堵が生まれた。父親が亡くなってからは、ある意味で、ずっと孤独だったのだろう。朱里は少し俯きながらも、私の方へ体を向け「ありがとうございます」と優しい声を出した。ある程度の話を聞き出せたところで、私はキッチンでの作業へ戻ろうとした。
だがそこで、最も大切なことを忘れていたことに気がつく。
「すいません。私からも一つ、伺いたいことが」
「何ですか?」
階段へ向かっていた朱里が、足を止めて振り向く。
「『ミャームの冒険』というゲームに、何か心当たりはありませんか?」
「ミャームの冒険?」
少し考えた後、「すいません。私、ゲームはあまりやらなくて」という答えが返ってきた。朱里の様子からして、おそらく本当に知らないようだ。
私は今、とある理由から気になって仕方がないのだ。
修哉が部屋でプレイしているあのゲーム。『ミャームの冒険』のことが。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
数日後。気づけば私は、もう一度あの部屋に足を踏み入れていた。
平日の午前中であれば、この家にいるのは私一人だ。あれから昌美を警戒し、なかなか入ることができなかったが、数日ぶりに、私は修哉のいない修哉の部屋への潜入に成功した。このために、今日はなるべく作業量が少なくなるよう、洗濯などの作業量を昨日までに分散させておいた。
いよいよ私は、あのゲームについて調べることができる。早速私は、部屋の小さなテレビの電源を入れ、布団の下敷きになっているハード機本体の電源もオンにする。真っ白な画面に現れたセレクト画面から、現在カセットが刺さっている『ミャームの冒険』を選択し、“プレイする”をクリックする。真っ黒な画面の右下に表示される“now roading”の文字の横で、ドット絵の少年が足踏みをし始める。
十五秒ほどでロードが終了し、タイトル画面が表示された。アニメ調の自然の背景に、丸々としたフォントの『ミャームの冒険』の文字が浮かぶ。背景で流れる音楽の印象は、やはり以前聴いた時と同じく、とても明るく快活なものだった。タイトルを確認した後、私はもう一度インターネット上で、このゲームについて調べる。出た結果は、以前と同じだった。
「やはり。『ミャームの冒険』というゲームは、過去にどこにも存在していない。かといって、修哉がこれほどのゲームを作り上げることも、おそらく不可能。一体、このゲームは何なんだ?」
脳内に浮かび上がる疑問符は、私の中で永遠に増え続けていった。
そもそも私は、自分がここに来た理由すらも、いまだに解明できていない。リセットされ、失われた私の過去。なぜかデータベースに残っていた、この家の住所。
そしてそこで見つけた、正体不明の謎のゲーム。
果たして、この全てに接点などあるのだろうか。これらの点が、一本の線で結ばれる時は来るのだろうか。
コントローラーも持たず、ただテレビ画面を見つめることしかできなかった、その時だった。
突如、ゲーム画面が勝手に切り替わる。私は何も操作をしていない。コントローラーが誤作動を起こしているのだろうか。
ゲーム画面は、セーブデータを示す画面に切り替わる。そこには当然、修哉がプレイしていたセーブデータがある。ゲーム画面はさらにひとりでに進み、ついにゲーム本編のプレイ画面が表示された。
「どうなっているんだ?」
子供なら母親に叱られるほどに、思わずテレビ画面に顔を近づける。舞台となる草原の中央に立つ、主人公らしき青年。本編の画面は、ある程度デフォルメされた、アニメ調の作画だった。舞台となる草原の中央に、赤いテンガロンハットを被り、シアンカラーのベストに身を包んだ、主人公らしき青年が立っている。最初に見た通りのRPGゲームで、この主人公を動かして進んでいくようだ。コントローラーに触れることも忘れ、ただひたすらに私は画面を見つめる。
そしてその時、ことは起こった。
「......!」
突如、私の中に何かが入り込む。正確には、私の脳内にあるデータベースに、何かが侵入してきた。
私は瞼を一度閉じ、視界を全て遮断する。私の意識はこの本体から、脳内に存在するデータベースの中。いわゆるサイバー空間へと転送される。ここに入り込んだ何かを、直接調べるためだ。
私から見える景色は、修哉の部屋から、データで作られた空間へと切り替わった。見える場所の全てが真っ白に染まっており、ここ最近でインプットした家事に関するデータ、そして園村家に関する情報が、それぞれまとめられて近くにある。
本来なら、ここにはたくさんのデータが存在するはずだが、リセットされている私の中身は空っぽだ。
私はゆっくりと歩きながら空間内を見渡し、侵入してきたデータを探し出す。しかし、いくら歩いても何も見つからない。
「さっきのは一体......」
あれが何かのウイルスの類だったらどうするか。不安に襲われる中、ついにそれは正体を表す。
“それ”は、私の背後に現れた。
「待ってたよ、コール」
「!」
驚きのあまり振り返ると、そこにいたのは、、一人の少年だった。
「ここが君の中か〜。ずいぶん空っぽだね、こりゃ」
「君は何者だ。なぜ私の中にいる?」
「ごめんごめん、ちゃんと自己紹介するから。初めまして。僕はミャーム。見ての通り、あのゲーム『ミャームの冒険』の主人公だよ」
意味が分からない。そして、実に理解し難い。私は故障でもしたのだろうか。
「......少し、理解する時間をくれないか」
「何か難しいこと言ったかな?ほら、コールだって見てたでしょ?あのテレビで修哉が遊んでたゲーム。あれの主人公が僕。まだ自己紹介しかしてないよ」
「どこから質問すればいいんだ......」
いい調子でベラベラと青年が喋るせいで、言葉の咀嚼にどうも時間がかかる。このままでは、頭脳に当たる部分がオーバーヒートしてしまいそうだ。
私はまず、目の前にいるミャームと名乗る青年を、今一度しっかりと観察する。頭には赤いテンガロンハット。そしてシアンカラーのベストを着用し、首元には蝶ネクタイ。そして足に履いているのは、茶の入った短めのウエスタンブーツ。見た目は完全に、ゲーム画面に存在したあの主人公と一致している。彼の言っていることは本当なのだろうか。
「何ジロジロ見てんの。僕にだってプライバシーはあるよ」
私は園村家に来てからのことを思い出しながら、まずは一つずつ情報を得る。
「理解はした。ではミャーム、君はなぜ私の中にいるんだい?」
「それって、どう答えるのが正解?」
できれば問いに問いで返してほしくはないのだが。
「要するに、いちゲームキャラクターが、一体のアンドロイドのデータベースに侵入してきた、そのカラクリを知りたいんだ」
「ん〜、正直僕にもよく分からないんだよね。僕が生まれた時から、あのゲームの中には変なプログラムが残されてたんだよ。コールっていうアンドロイドのデータベースに、僕自身がいつでもアクセスできる、っていう変なプログラムが。そして、ようやくコールと出会えたから、思い切って飛んできたってこと」
まるでタップダンスでも踊り出すかのような身軽な動きで、ミャームは私の中を飛び跳ねながら口を動かす。しかし、彼の口から出てくる情報は、あまりにもあやふやすぎている。これでは咀嚼のしようがない。
「私へのアクセス権限が、なぜゲームの中に」
「ねえコール。画面越しにずっと見てたけどさ、修哉のとこで上手くやれてる?多分いろいろ大変でしょ。そうだよね〜。だってコール、どう見たって真面目だもん」
川を泳ぐ鮎の如く、自由奔放なミャームの雰囲気に、私はいつの間にか振り回されっぱなしだ。いつもの本調子が狂っていくのが、自分でも分かった。
話を戻すべく、私の周りを動きまわるミャームに、今度はストレートに問いをぶつける。
「ならば率直に教えてくれ。君は一体、何を知っている?私についてでも、自分についてでも、何でもいい」
「そんなの簡単だよ。僕があの世界の主人公だってことと、ゲームの画面越しに見てきた修哉のこと。あとはコールのことも、外の世界のことも、何も知らない。これでいい?」
正直、期待はずれの答えだった。
私がこの家に導かれてきた理由に、ここでようやく辿り着けるかと思ったのだが、あまりにも期待はずれだった。子供じみた瞳で私の顔を覗き込むミャームは、まさにゲームの主人公らしく、活気に溢れていた。
「じゃあさ、僕の質問にも答えてよ。コールは、どうしてこの家に来たの?」
私は記憶媒体を探り、自分のメモリーに記録されている最初の映像を、真っ白な空間に映し出した。
映像は、私からの一人称視点のものだ。最初に映ったのは、暗雲に覆われた夜空と、たくさんのゴミの山だ。今となっては、もはや懐かしくすら感じる。
やがて映像には、あの女性アンドロイドと、ルイが映る。映像は雨のせいでやや滲んでいたが、音声はしっかりと聞き取れた。同じアンドロイドの最期はもう一度見たくはなかったが、今は仕方がない。廃棄場のフェンスの穴を潜ったところで、私は映像を止めた。
「これが、今のところの私の全てだ」
「なるほどね。リセットされて記憶が無い。でもこの家の住所だけをなぜか知っていた。それでここに、自分の過去を知る手がかりを求めてやってきた、ってわけ。苦労してるね〜、コールも」
本当に思っているのか分からない爽やかな表情と動きで、ミャームは私の肩に手を置いた。今の私からすれば、自分の居場所だと胸を張って言える場所があるミャームのことは、正直羨ましく思えてくる。今の私の存在価値は、ゲームキャラ以下だ。
「私の過去について何も知らないというのなら、もう君と話すことはない。ゲームの中に戻ったらどうだ」
「何言ってるんだよ。せっかく出会えたんだし、もうちょっとお喋りしようよ〜」
「意味が分からない。大体、君はゲームキャラであって、ただのプログラムの塊のはずだろ」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」
「......」
一体なんなんだ、このミャームというゲームキャラは。
自分の空っぽさを知らしめられるこの空間で、彼という存在に触れているとおかしくなりそうだ。これならまだ、現実世界で昌美にこき使われていた方が、自分の存在価値を実感できるだけ、よっぽどマシではなかろうか。後ろ姿からもルンルンな様子が伝わってくるミャームを見ながら、私はついにそんなことを考えだしてしまった。
「ねえ、一緒にお散歩でも行かない?」
「何を言っているんだ」
「ここに身を置いておけば、僕は外の世界を見て回れる。こんなの初めてなんだよ。修哉が生きている世界がどんな場所なのか、この目で確かめてみたいんだ。だからコール、僕をこのまま外に連れて行ってよ。お願い!」
手を広げながら、彼は私の中を全力で駆け回る。ゲームキャラならちょうどいいのだろうが、その元気の良さが、今の私には息苦しい。
「申し訳ないが、私は君の子守りまでするつもりはない。そもそも君はゲームの中にいなければ、修哉が戻ってきた時に大変なことになるだろう」
「大丈夫。まだまだ時間はあるし、いつでもゲームの中には戻れるからさ。それにコールは、修哉のこと気になってるんでしょ?それは僕も同じ。二人で話してるうちに、修哉を助ける糸口が、見つかるかもしれないよ」
「別に私は、」
「全部お見通しだよ。画面越しに見てたんだからね、コールのことも一緒に」
痛いところを突かれてしまったが、ミャームの言うことにも一理ある。そもそも私は、あの『ミャームの冒険』について大変興味を持ってしまったところなのだ。それに忘れかけていたが、ミャームが私の脳内にアクセスできるプログラムが用意されていたことも不可解だ。
もしあのゲーム自体が、私の過去と繋がっていたとしたら。修哉の件も含め、今ここでミャームと手を取っておくのも、悪い話ではなさそうだ。また私の顔を覗き込むミャームの楽しげな顔を見て、私は答えを出した。
「......分かった。君と行動を共にしよう」
「サンキュ!」
思えば、私は外に出てから、ミャームに出会って初めて目にした気がした。
私に向けられる、誰かの笑顔を。