第86話 世界は私を中心に回ってる
視界一面に広がるのは、美しい青だった。その青は、俺の肉体も心も、何もかも全てを覆いつくして飲み込んでしまいそうだった。しかし、息が詰まることはなかった。
会社が休みの俺は、約二年ぶりに水族館に訪れていた。巨大な水槽の中では、数々の海洋生物が泳いでいた。
広大な青の世界は、まるで深い自意識を象徴するかのようだった。かつて会社で、楽しい時も辛い時もずっと俺の隣に居て、支え続けてくれていたあの子の意識のように。
手を伸ばせば、あの子に触れられるのだろうか。
俺はそう思って、どこまでも続くかのような深い青に手を伸ばした。しかし手のひらが感じたのは、ひんやりとしたガラスの感触だけだった。
まるで、『まだわたしに会うのは早いよ』と言われたかのようだった。
今の自分であれば、あの子に抱いて欲しいと言われたら何も躊躇わずに抱くだろう。仮に誰かがすぐ隣で見ていて、止められたとしても。
だけど、あの子はもうこの世界にいないのだ。
やがて俺のそんな思考を切り裂くように、後ろから俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、少し呆れた表情の渚がこちらを見ていた。
黒髪で眼鏡を掛けた渚。昔のような華の雰囲気は無いが、彼女を見ていると胸が熱くなった。そしてどこまでも真っ直ぐ射抜くような強気で澄んだ瞳に、相変わらずドキリとさせられた。
渚は腰まで伸びた黒髪を揺らしながら、ズンズンとこちらへ近寄って来た。
「久しぶりにデート誘ってくれたの嬉しいし、水族館選んでくれたのはもっと嬉しいの。そこは褒めてあげるんけどさー。さっさとついてきてよ。何回私を一人にさせる気?世界は私を中心に回ってるんだけど?」
「ごめん。渚も、渚を中心に回る魚たちも綺麗すぎてさ。つい見とれて。我慢強い俺ですら我慢できなくなる程の美しさ。そんなの、一周回って罪深いじゃん。反省してくれよな」
「何言ってんの?」
「ノってやったんだろが!急に冷笑すんな!」
しばらく二人で肩を並べて歩いていると、渚はどこか不満そうな瞳で俺を見つめた。
「ここ涼しいからさ……手、少し冷たい」
「そうなのか?大丈夫か?カイロなんて売ってたかなこの季節に」
「そうじゃなくて!さ」
俺は歩きながら辺りをきょろきょろと見渡してみた。しかし渚は、歩き過ぎていく俺を見つめたまま立ち止まった。
どうして渚が立ち止まったのか分からないまま、俺は後ろを振り返った。振り返ると、渚は刺すようにじっと俺を見つめていた。心底不満げな表情だった。
そして頬を赤らめて、こちらへ手を差し出した。どういう意味か分からなかったが、遅れて理解した俺も思わず頬を赤らめた。
俺は渚と手を繋いで水族館を一緒に歩いた。彼女の手は冷蔵庫の中を整理した後みたいに冷たかった。
手、めっちゃ冷たいねと言うと、渚は小声で不機嫌そうに「ヒロのせいじゃん」と言った。俺はごめんと謝った。
しかし、そんな渚の仕草も行動も言葉も、全てが俺には愛おしく見えた。そしてそんな渚が自分の妻である事実に、心底誇りを感じた。
正直、そんな渚を人に自慢したい気持ちも確かにあった。ひけらかしたいとかではなく、事実として本当にそう思うのだ。
平日の水族館は案外人も少なく快適だった。俺たちは三分くらい、脇目もそこそこに真っ直ぐ歩いた。そして、本日のお目当てであるコーナーへ辿り着き俺たちは足を止めた。
ガラスの向こうで泳ぐ巨大なシルエット。こちらの視線に気づき、スキンシップを望むかのようにこちらへゆっくり向かってくる。
それはシャチだった。俺たちが水族館へ来ていたのは他でもなく、シャチを見るためだった。海洋生物の食物連鎖の頂点と呼ばれるそれは、立派なんて陳腐な表現は決して許されない巨体だった。
「見て見てっ!あれが私の眷属!ぎゃーーー!」
「随分デカくて戦闘力高そうな眷属だな」
「大きくて戦闘力高そうな生き物見つけたら、全部私の眷属だと思って生きてるから」
「よく分からないけど、陽気な生き方だと思うよ」
「………あっ。ねぇ。ねぇ!ねぇねぇヒロ見て!あそこにいるシャチが一番大きい!」
「俺から見れば渚の中二病具合が一番大きいよ」
渚はその神秘的な雄姿に取り乱して飛び跳ね、熱狂し、興奮し、鼻息を荒くしてガラスに張り付いていた。そしてこんなに喜んでいる渚を見ていると、つくづく遠方からここまで来て良かったと思った。
同時に、俺の気持ちも高揚しつつあるのも確かだった。
「人が死ぬというのは即ち、シャチが見れなくなる事だよ」
「突然悟り開くのやめてくれる?滝修行でもしてたの?」
「これだけ神秘的な生き物が同じ星に生きていると知っていながら、何で人は傲慢になれるんだろうね?」
「目の前の人間の傲慢さに気づけるのは、それと同等の傲慢さをもった人間だけらしいぞ」
「シバかれたい?」
「いえ。すいません」
シャチの雄姿をしばらく眺めて満足し、俺たちは水族館を出た。
渚は大満足といった様子で嬉しそうな笑みを浮かべ、まるで少女のように先を走っていった。俺はそんな渚の背中を追いながら、真面目な眼差しで見つめていた。
渚には日々色々と迷惑を掛けているので、ここらでプレゼントをあげようと考えていた。その為にも、そろそろ渚が欲しいものを聞かなければいけなかった。
「ヒロー。ご飯食べようよ。その後はね、……次は馬見よ!馬!」
「動物園にも行くのか?体力無尽蔵だな。前に屋台まで歩いた時はすぐバテてたくせに」
「デートの時は別」
「あれもデートみたいなもんだろ?というか、俺そろそろ少し休みたいんだけど………」
「ダメ!休憩なんておじさんになってからでも出来るでしょ?」
「干からびさす気か!?」
しかし笑顔で振り返った渚は、俺にそんな暇も与えず次の場所へ手を引いていった。
第七章完結となります。
お読み頂きありがとうございました。
偶然の産物ですが、ランクイン通知なるものを初めて見る事が出来ました。
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