第85話 菊の花が微かに揺れた
会社に着いてから朝一で管理室の扉を叩き、荒井に会った。そして午後は外せない用事が出来たから休暇をもらうと伝えた。
文句を二言三言言われた気がするが、取り合わずに管理室を出た。お前に構っている暇はない。むしろ何でお前は俺に指図をしてくるんだ?俺は仕事するために生きてる訳じゃねえんだよ。ぶち殺すぞと俺は思った。
俺は二時間半の間に、無意味な会議に参加して下らない承認書類のチェックをして取るに足らない資料を作って確認する価値を感じない溜まりまくったメールをチェックして返信し詐欺めいたプレゼンを披露した。
息をつく暇すら残っていなかった。俺は荷物をまとめ、取引先を回ろうとデスクを立った。
「………あの。時枝さん」
この忙しすぎて発狂しそうな時に一体誰だろうと思い振り向くと、部下らしき女が立っていた。俺を見つめるその瞳はどこか申し訳なさそうだった。そしてそれは俺が露骨に忙しそうにしていたからだろう、と思った。
顔には身に覚えがあって、二秒くらいその顔を凝視した末に俺は思い出した。
「もしかして、燕か?」
それは俺が入社して丁度三年目の時に、俺にパワハラの容疑があると会社内に広めようとした女だった。だが俺にとってそれはもう遥か昔の、何十年も前の出来事であるかのように感じた。
俺が名を呼ぶと燕は嬉しそうに目を見開いて、ショートヘアを揺らしながら更に距離を縮めてきた。
「は、はい!覚えていただけていて嬉しいです。光栄な事に、下半期からこちら本社でお世話になることになりました」
「やめろ!まさかこんな所まで訴えに来たんじゃないだろうな!?俺は無実だ!」
「ち、違いますよ!時枝さんに改めてあの時のお詫びと、ご挨拶をしたかったんです」
俺は驚いた。彼女は、二年前とはまるで別人に見違えた。まず言葉遣いが違う。
どう話しかけても角が立った口調で返し、何を指導しても拒絶の瞳だった彼女はそこには居なかった。
二重の瞳に小さな鼻と口がまさに後輩という印象を強めているが、こうして向き合うと身長は俺より少し大きかった。
まっすぐで真摯な意思を帯びた表情をしており、笑顔の似合う溌剌とした女性だった。
いつの間にやら彼女は大いに頼りになりそうな雰囲気を身に纏うようになっているが、先輩の俺と話しているからかほんの少しだけ縮こまるかのような姿勢だった。
「しばらく見ない間に、すごく成長したんだね」
俺がそう言うと燕は砕けた表情を真剣な色に戻して、恭しく頭を下げてきた。
「先日は本当にすいませんでした!時枝さん。至らない部分多々あると思いますが、ご指導どうぞよろしくお願いします!」
「よろしく。燕なら大丈夫だと思うけど。本社まで来れた訳だし」
「全然ですよ!私の力じゃまだ管理職に上がるなんて夢のまた夢ですし、この機会を頂けたのもたまたまなんです!」
「ここで働いているとキショい出来事も多々起こるけど、まあ頑張ろうね」
「キショい出来事!?」
燕は本当に嬉しそうに俺と会話していた。表情から伝わってくる。まるで数年かけて登り詰めた山の頂上から、ずっと求めていた景色を味わうかのような感動すらあるようだった。
「というか……時枝さんを目標にしてる人や憧れてる人、本当にかなり沢山いるんですよ。ちゃんと自覚あります?そこんとこ考えて、もうちょっとピシッとした方がいいんじゃないですかー?」
そう言って笑った燕は、俺の肩をとんと軽く叩いた。正直なところ自覚は無かった。
「俺はいつもピシッとしてるつもりだよ。なのに誰にも分かってもらえないんだ」
「あはは。相変わらずですね。でも、ここでも色々教えてもらいに来ますから、よろしくお願いしますね!」
「うん、いいけど全然。頑張りたいって思うんだったら、君の同僚に角田っていうキャリアアップ目指して色々動いてるバーサーカー女がいる。そいつと動いてみたら?」
「バーサーカー!?」
「困ったら俺か、俺の同僚の新山と向井っていう仕事馬鹿コンビがいるからそいつらに相談してみて。俺から見れば、その二人が今この会社における最もまともな人物達かな」
「他がまともじゃないみたいですね!?」
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俺は燕と別れて会社を出た。取引先を数社回って、その後は会社に戻らなかった。
最後に回った取引先の付近にあった公園のベンチに座り、渚に作ってもらった美味い弁当を食べた。
風呂敷を解いて弁当箱を開くと卵焼き、タコさんウインナー、米、マカロニサラダ、そして分けられたタッパーにリンゴが入っていた。
風呂敷からはらりと一枚の紙が落ちた。拾い上げて開いてみると『一番のおかずは愛情だよ♡ 文句あんのか?♡』と書かれていた。
平日昼間、仕事から解放されてスーツのまま食べる弁当は美味かった。木漏れ日の差し込むベンチに座って長閑な公園の風景を眺めた。
親子と思われる小さな子と女性が何人か、滑り台や砂場で遊んで過ごしていた。
食べ終わって立ち上がり、少し歩いてから天を見上げると透き通るような青空に、絵具で描いたみたいなやたら鮮やかな雲が浮かんでいた。暑さの過ぎ去った十月の気候は涼しくて過ごしやすいのが有難かった。
春夏秋冬はどうして代わる代わるやってくるのだろう。好きな季節でずっと止められたらいいのに、と思った。
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電車に乗って、自宅のマンションに帰り着いた。
俺は「ただいま」と言って玄関の扉を開けた。返事は返ってこなかった。靴を脱いで居間に入ると、青空が見える窓から昼の空気が滲んでいた。
ソファを見ると、セーターにショートパンツ姿の渚がごろりと横になってすぅすぅと寝息を立てていた。テーブルの上には渚の眼鏡と、スマホが置かれていた。
俺は小声でお疲れ様、と言った。
スーツを脱いで弁当箱を洗い、どこでも買える安いワイシャツを着てジーンズを履き、出かける準備をした。
少しだけ休憩したいと思ったのでテーブルに座ってコーヒーを飲み、スマートホンでニュースをチェックしていると後ろのソファでごそごそと音がした。
振り返ると、渚が半分起きて半分寝てる様子でこちら側へ身体を向け、身体を震わせながら寝起きの伸びをしていた。
「渚。ごめん、起こして」
「…………んぅ」
「また行ってくるからな。帰り遅くなるかも」
「……ひお………」
渚は目を瞑ったまま、半覚醒状態で俺に手を伸ばした。俺はその手を取り、しっかりと握り返した。
三秒くらい手を繋いでいたが、その後渚の腕は力を失ってがくりと落ちた。そして「かー」と寝息を立てて、再び眠り込んでしまった。
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俺はスーパーでマグロの刺身とビールを購入し、電車を二度乗り継いで、うーさんの地元の墓所へ向けて歩いていた。
改札を通って駅を出ると、申し訳程度に飲食店や喫茶店が並んでいた。それらのお店に沿ってしばらく歩き、右に曲がると田舎道の国道に出た。
そこから真っ直ぐ十五分くらいの所にある墓所に、うーさんの墓があった。
『ひーくんの事だけを、わたしは信じてる』
俺は澄んだ空気を吸い込んで味わいながら歩いていた。
そして『ハンバーグの見た目のチョコレートを食べた時、食べた人間にしっかりと伝わったのはジューシーなハンバーグの見た目か、甘いチョコレートの味わいか』みたいな、そういうことを歩きながらずっとぐるぐる考え続けた。
そのうちその命題の意味も、何故問うのかも見失いそうになっていた。上司を納得させるよりも、自分自身を納得させる方が遥かに難しかった。
あと五分もすれば到着するであろうところまで歩いてきて、俺は視界がぼんやりと真っ白になり、突然崩れ落ちそうになるかのような、足元から全身を闇の中に引きずり込まれそうになるかのような脱力感に襲われた。
一瞬でも気を抜いたら、崩れ落ちてしまいそうだった。それでも俺は、歯を食いしばって踏ん張って、鉛のように重い足を動かして墓所を目指し続けた。
『ひーくんはわたしにとって、『生きる意味』だよ』
ああ、きっと俺は心のどこかで、彼女はずっとそばにいてくれるなんて考えていたんだ。
いつまでも、歳を取ってジジババになっても、俺の傍に居て一緒に働いててくれるなんて考えていたんだ。
ようやく墓所に辿り着いて見てみると、うーさんの墓の前に神松がいる事に気づいた。
実に二年前の、彼女の葬式の時ぶりの再会だった。軍手を付けて草刈り鎌を持ちしゃがみこんだ神松はこれまでと何も変わらない無機質な瞳で、周りに生えた草を刈っていた。
足元にはゴミ袋と水の入ったバケツとミニタオルがあり、磨かれた墓碑の脇にある花立には今生けられたばかりの瑞々しい菊の花が飾られていた。
俺が歩み寄っている事に気づいた神松は、少し驚いたように目を見開いた。
「俺も手伝いますよ」
「不要だ。もう終わる」
神松はさっさと残りの草を刈り終えてゴミ袋に草を詰め、袋の口を縛って軍手を取り、草刈り鎌を下に置いて立ち上がり一息ついた。
俺はそんな神松を見ていて、何か非日常的で可笑しなものでも見ているような気持ちになった。失礼を承知で気持ちを表現すると、その姿はかつて俺の会社の全てを掌握していた支配者の行いとは思えなかった。
それ程長閑な光景に見えたからだ。これ程の御仁でも墓参りというものをするのだ、と思った。それだけ俺は、神松を異質というか、同じ人間か疑わしいという目で見てきていたのだ。
神松からは平凡な日々に違和感なく溶け込もうとする姿勢を感じた。しかしやはり、相も変わらず目を合わせると気持ちが悪い人物だった。理解し合うために目を合わせているはずが、こちら側の全てだけを一方的に覗き込まれているかのように心地が悪かった。まるで絵画の人物と目を合わせているようだった。
「お疲れ様でした」
「うむ。君は久しぶりか?」
「ええ……なかなか顔を出せず。一年ぶり、といったところでしょうか」
「酷いものだった。私も半年振りに来てみたが、家族は誰一人墓の手入れをしていないようだ」
俺は神松と一緒に線香をあげ、二人で手を合わせて目を瞑った。
うーさん。そっちには食べ物がいっぱいあるのか?時間がいっぱいあるのか?沢山眠る事が出来るのか?
俺はただ君がいるその場所が、君の知識欲を大いに満足させられるような不可思議が沢山眠っている場所であることを祈っている。
「今の舵取りは誰がしている?」
「統括官が荒井さん、セントラルマネージャーは九尾さんです」
「そうか」
神松は瞑目して息を吐き、うーさんの墓から目を逸らして空を見上げた。そして、「あれだけ栄えたあの会社も、もう潮時という事か」とごくごく小さな声で言った。「俺もそんな気がします」と返しておいた。
「俺は何もしてやれませんでした。彼女は、………彼女はずっと悩みながら生きていたんです」
「……………」
「自分が不甲斐なくて仕方がないんです。俺がもっと悩まなくて、覚悟があって、余裕があったら」
「何を自惚れているんだ?時枝 広志」
神松は俺を見ていた。取るに足らないものを見るかのような呆れた目だった。
「自分を特別で万能な人間だとでも思っているのか?そう思っているように聞こえるが」
「特別というか。少なくとも彼女といつも一緒に居たのは俺で。だから、本当なら俺が彼女を助けてやらなくちゃならなくて」
「私たちは単に人間だ。私も君も鹿沼も、総理大臣もどれだけの偉人であっても、皆弱くて脆い人間である事に変わりはない。特別な人間などどこにも居ないのだ。それを分からぬ者だけが、そうやって自分を卑下すればいい等と思い込み責め立てる」
俺は賞味期限が切れて味が微妙になったビーフジャーキーでも咀嚼するような顔で神松を見つめた。
「だが、今は良いんじゃないか?この時くらいは」
そう言った神松はゴミ袋とその他もろもろを持って去って行った。
俺はその背中を見送りながらこのまま動ける気がしないのを感じて、須藤の墓参りはまた次の機会にしようと考えた。
足元に置いておいた袋からマグロの刺身とビールを取り出して、持ってきた小皿に醤油を垂らしてわさびを乗せ、ビールをコップに注ぎ、一時的にではあるが墓碑に供えた。そして俺もその場にしゃがみ、自分用に別皿に取ったマグロを食べた。
俺は今、罰を受けている。拭い去る事の出来ないであろう深い後悔と哀しみを背負うという罰だ。彼女が死んで二年経った今も、そしてこれからも拭う事は出来まいと思う。
誰よりも彼女に近い場所にいたのに、俺に相談もなしにたった一人でビルから飛び降りようとする程追い込まれていた彼女の心に気づけなかった罰だ。
この罰を死ぬまで受け続ける。俺は報いを受けて生き続ける。彼女が存在した意味は、俺の一部となって残り続ける。
いつか罰が終わって自分が死ぬ時、俺は渚を思い、そしてうーさんの事を思い出すだろう。
その時になったらきっとうーさんは頬を赤くしながら、真っ先に俺を迎えに来てくれる。
だけどせめて最期の時に『生まれてこれて良かった』って思わせられるように、隣で支えたかったのに。そのチャンスが欲しかったのに。
そう思った時、空気に染みるような風と木の葉が擦れる音だけが聞こえる墓所の中で、菊の花が微かに揺れたような気がした。
『他人一人とでも分かり合えたと感じたなら、その出会いは奇跡なんだよ』
俺はしゃがみこんだまま何度も何度も、溢れてくる涙をシャツの袖で拭った。
何度拭っても涙はとめどなく溢れてきた。持っていた箸が落ちたのにも気づかずにボロボロと泣き続け、それを袖で拭い続けた。




