第84話 サンドバッグになっちまった
二十四日まで更新の予定でしたが、二十五日までの更新へ変更となります。
ずっと俺の腕の中で泣き続けていたうーさんは、眠気がきたのか意識が曖昧になってきたようだった。
俺は時々彼女の頭を撫でたり話しかけたりしてみたが、何も反応は返ってこなかった。
時計を見ると二十三時だった。ほんの少し寒くなってきたので俺はタクシーを呼び、以前一度聞いたことがあったうーさんの自宅住所付近へ向かった。
静かな住宅街だった。俺はほとんど眠っている彼女の身体を抱き上げた。おんぶしようかと思ったが、タイトスカートの彼女の脚を開くことは出来なかった。
うーさんを抱きかかえながら、手のひらにどうにか空白を作って鞄を二つ持った。住宅街を五分くらい歩いた。
体格的に予想はしていたが、彼女の身体は渚よりも重かった。三十秒もしないうちに腕が痺れた。何故、学生の時もっと筋トレをしておかなかったのだろうと俺は後悔した。
ぐっすり眠っているうーさんを抱えて、やっとの思いでマンションに到着した。そこまでは良かったが、エントランスには部屋番号を入力するボタンとカードリーダーとカメラが一体になった装置があった。
俺はエントランスのロックを解除する術を持たなかった。腕には確実に限界が近づいてきており、右往左往した時のことだった。
エントランスから身に覚えのある人物が出てきて、俺は目を丸くした。
「よぉ。随分頑張ったみてぇじゃん」
「え?葛木さん?」
スウェットとサンダル姿の葛木が、面白おかしなものでも見るような目で俺を見てケラケラと笑っていた。
右手に煙草と、左手に半分まで飲み減らされたウイスキーの瓶が握られていた。
俺は何か言おうとしたが、葛木は「とりあえず入れ」と言って俺をマンション内に入れてくれた。葛木は一階の、手前側の一番端の部屋を解錠して扉を開けた。
「えっと……ここって葛木さんの部屋ですよね?」
「違ぇよ。鹿沼んとこ」
俺は訳が分からなかったが、とりあえずうーさんを抱いたまま部屋の中に入った。
部屋は薄暗く、お世辞にも綺麗とは言い難かった。十畳の部屋の中に複数台のテーブルがあり、その上に無数のパソコンがあり、様々な種類のモニターが置かれて白く怪しく光っていた。
パソコン以外にも見たことの無い機械がずらっと並んでいた。俺は展覧会にでも来たかのような気分になった。
部屋の真ん中にひとつだけ清潔感ある綺麗な白いデスクがあり、蛍光灯の下には俺が勧めた本『皆で食べる唐揚げに勝手にレモン汁ぶっかけて地球大爆発』が丁寧に置かれていた。
渚の綺麗な部屋とはあまりにも大きく印象が異なるな、と俺は思った。
隣の六畳の部屋は小さな明かりがついていたが、服やら本屋やら何やらが散らかり放題で、足の踏み場もあまり無い空間だった。俺はその部屋のベッドに、慎重にうーさんを横たえた。
ちらりと見えたゴミ箱の中に使用済みのコンドームが幾つも捨てられていた。十や二十ではなく、パッと見で幾つあるか数える気も失せるくらい山盛りになっていた。
俺は見なかった事にして気持ち足早にその部屋を後にした。
「お前さぁ、たまたま俺が出てきて良かったな。さっきどうすればいいか分かんなくて、鳩が豆鉄砲食らったみてぇな面でちゃかちゃかステップ踏んでただろ。ワハハ」
「その言い方はムカつきますが正直助かりましたよ。どこ行く予定だったんですか」
「別に。酒飲みながら適当にぶらぶら散歩でもしようと思っただけだよ」
葛木はキッチンの丸椅子に座って換気扇を全開で回し、ニコニコ笑顔でウイスキーを飲んでいた。そして煙草に火を付けて吸った。
俺はその向かいの床に適当に腰を下ろした。
「ここで絶対煙草吸うなって、わりとキツめに言われてんだ。後で怒られたらお前のせいな」
「責任転嫁やめてもらっていいっすか!?」
葛木は冷蔵庫からチーズを取り出して、俺に手渡した。俺は葛木と一緒にチーズを食べて水を飲んだ。ウイスキーを勧められたが、断った。
「鹿沼の身体結構重かったろ」
「ええ、まあ……ていうか、さっきからずっと聞きたかったんですが……うーさんとどういう関係なんですか?」
「付き合ってる」
「や、やっぱりそうなんですか!?」
「まあな。そろそろ付き合い始めて二年くらいってとこか」
「いつの間にそんな関係に……全然気づかなかったですよ」
「まぁ全然嘘だけどな。付き合ってねぇし。そもそも俺嫁居るしな」
「殴りますよ?」
葛木は仕事の時と雰囲気が違い上機嫌で、俺を見つめるニヤニヤ笑顔には拍車がかかっていた。
しかし聞けば聞くほど、この部屋における葛木の存在は謎だった。肉体関係ありきにしても何故この時間に部屋に居るのだろうか、と俺は思った。
「鹿沼も相当嬉しかっただろうぜ。ここまでお前に抱かれて来れてな」
「うーさん、今すごく弱ってるんですよ。道端に崩れ落ちて泣いてたんです。それでここまで一緒に」
「その時はそうだったかもしれねぇけど、今はそんな事ねぇぞ?ピンピンしてるし、起きてるしなあいつ」
起きてる?
え?
俺は背筋に冷たいものを感じて振り返り、暗い空間の六畳の部屋の入り口を見つめた。流石に葛木さんは冗談を言ったんだよな?俺らが会話していなければ部屋の中は不気味なほど静かで、無数のパソコンや機械装置の、ファンの音と駆動音だけが鼓膜を叩いていた。
今のところ、起きている人がいる気配は無いように感じるが……。
「タクシー代はちゃんと返す。ありがとな。もう遅いし今日は泊まってけよ」
「今の流れでそれ提案します!??」
「寝てる間にあいつに何かされるかもしんねぇけどな!ガハハ」
「そもそも色々と分からないんですが、葛木さんはこのマンションの住人なんですか?」
葛木は俺に、スマートホンで幾つか写真を見せてきた。
観光名所の神社近くの海で、白いワンピースを着たうーさんが恥ずかしげに頬を赤らめてこちらを向いている写真や、温泉宿の絶景を背景にうーさんが浴衣姿で狼狽えたような顔でこちらを見ている写真だった。
どれに写っている彼女も、恐ろしい程に綺麗だった。誰が撮ったのかを訊くと、葛木自身で撮ったのだと言った。
「うーさん、めちゃくちゃ綺麗ですね……」
「だな。本当に」
「まさかデートしてきたんですか?奥さんがいるのに?」
「あれをデートと呼べるかは分かんねぇ。あいつ最近俺に対して凶暴なんだぞ。遠慮というものがねぇ。あらゆる欲求が不満で、それを俺にぶつけてきやがる」
「うーさんに酷いことをしてるんじゃないでしょうね?」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。俺がサンドバッグにされてんだわ逆に。助けてくれよ。あいつは録でもねェぞ〜!ダーッハッハッハ!!」
「逆に!??」
葛木は突然何も言わず立ち上がり、その声を潜めた。そして「ついてこい」と言って、俺をマンションの外に連れ出した。
既に深夜零時三十分の住宅街は人気が無かった。怪しい道を、俺は葛木と肩を並べて黙々と何も喋らず歩き続けた。
五分くらい歩いて、本格的に家すら見当たらない拓けた道に入った辺りで、葛木が前を見たまま口を開いた。
「管理室の窓から、飛び降りようとしてたんだよ」
何の話かを理解するのに、俺の脳は二秒程度の時間を要した。そして、激しく泣いていたうーさんの様子がフラッシュバックした。
「止めてくださったんですね」
「間一髪だったわ。おかげで右腕がもげかけた」
「さっきの写真も、それ以降のものですか」
「そうだ。会社を休めって言ったんだが、そういう問題じゃねぇって言うから遊びに連れて行ったんだよ。その結果、俺はサンドバッグになっちまった」
「さっきからその表現気になるんですが!?」
「儚くて何も知らない少女みたいな見かけしといてやる事とんでもねぇからなあいつ」
葛木はやたら被害者ヅラを強調していた。普段の二人の様子を考えれば、葛木がうーさんをサンドバッグにしている光景しか俺は想像出来なかった。やがて想像がピンク色に傾いていき、俺は首をブンブンと横に振った。
「盛大に哀れんでくれ。頼むぞ。哀れみのあまり、お前が涙ながらにサッポロビールの差し入れを毎週してくれるってんなら、俺は────遠慮しながらも、ちゃんとそれを受け取ってやる気でいるぜ。遠慮しながらも──な」
「ただビールが飲みてぇだけですよね!?」
土を踏んで、俺と葛木は歩き続けた。拓けた道からは田んぼの匂いがした。藍色の空の向こうから、微かに犬の鳴き声が聞こえた。
「時枝。分かってると思うが鹿沼はお前が好きだ。だが、あいつは知らねぇのよ。人の愛し方も、愛され方もな。誰よりも仕事が出来て、アルテミス計画の論文が読めて、自らテクノロジーを創り出せるようなとんでもねぇ奴だが、人の愛し方は知らねぇんだ」
「…………」
「あいつにはお前しかいねぇ」
「だけど、葛木さんが……」
「あいつは俺を実験台としか思ってねぇし、助けた事に対しても余計な事をされたから責任を取れって思ってるよ。この訳の分からねぇ状況が終わるまでは、俺もあいつを都合良く使わせて貰うぜ。俺には嫁が居るんだぞ?ったくいい迷惑だわ」
「…………」
「あいつは、絶対にお前を傷つけたくないと思ってる。それをずっと怖がってんだよ。真実こそが愛と信じ切って、意図せずに何度も人を傷つけた経験があいつの後ろ足を引っ張り続けてるんだ。どうせ今日もお前に、誘惑的で聞こえが良いような事ばかり言って来たんだろ?」
「…………」
「それじゃ時枝には響かねぇって教えてやったのになぁ……」
俺はうーさんのバスローブ姿、おさげの黒髪、赤らんだ頬や輝く瞳、楽しそうな笑顔を見せた時の事を思い出していた。
その後結局俺は「タクシーで帰ります」と伝え、荷物をまとめ葛木と別れた。十五分くらい歩くと駅に辿り着いた。暗くなり人気のない駅はひっそりとしていた。
俺は来週うーさんと一緒に行く海鮮の店を調べて、ホームページのシステムで予約を入れた。そしてスマートホンをポケットに仕舞い、喫煙所の陰に座り込んで鞄を抱きかかえて眠った。
浅い眠りから覚めて再びスマートホンを見ると、何事も無かったかのように渚から返信が返ってきていた。
……………
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