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第83話 最も無力な生き物

 俺は、うーさんが今どれだけ勇気を振り絞っているのだろうと考えた。


 彼女は身体をこちらに向けて、じっと俺を見つめていた。その拳はきつく握られていて、瞳は本当は胸の内をのたくる迷いや躊躇いを全部押し殺すかのような真剣さが宿っていた。


 いいよと言ってやりたかった。


 今にして考えれば俺はきっと、うーさんの事が好きだったんだと思う。渚と同じくらい、大切だったんだと思う。


「出来ない。ごめん」


 俺は自分の気持ちとは真逆の答えを伝えた。走ってもいないのに、息を切らすかのような思いだった。


 それを伝える他はなかったのだ。


「うん」


 うーさんはそれだけぽつりと返事して、前に向き直り俯き、手に持っている中身の無くなったチューハイの缶を見つめた。


「来週、海鮮行くか?」

「………うん。行く。美味しいところに連れて行って」

「期待に応えられるところ探しておくよ」


 そう伝えると、うーさんは俺を見て屈託なくにっこりと笑みを浮かべてみせた。


 俺はその笑みを見ても、バツが悪そうに俯くしか無かった。


 うーさんは困ったように眉を下げた笑みで、どこかやるせなさそうにほんの小さく息を吐いた。そして明るい表情を作って顔を上げた。


「確か、来週の報告会はひーくんが進行だったっけ?」

「そうだね。議事録が藤沢だったはず」

「ひーくんが進行してるの安心して見てられるから、好きだな。あはは」

「ありがとう。だけどまずは明日を乗り越えないとな」


 うーさんは明るい口調で仕事の話を始めた。そして、柄にも無くよく笑うのだ。


 その口調の明るさと笑いは、必死の思いで取り繕ってるように見えた。うーさんがそんな風にして喋れば喋るほど、俺の胸は痛んだ。


 空調が効いた室内は暖まりつつあり、酔ったのもあって暑くなってきたのか、彼女はバスローブから出ている脚をぶらぶらと揺らした。


 それによってうーさんのバスローブはどんどんはだけていった。


 脚は既に太ももあたりまで肌を露出していて、柔らかくてすべすべした感触が、触らずとも伝わってきそうなくらい綺麗だった。


「言い回しのリストと交渉方法の切り分け、読んでくれた?」

「読んだよ。取引先回る度にめちゃくちゃ役に立ってる」


 うーさんは足をパタパタしながら、時折楽しそうに身体をこちらに向けて笑顔を見せた。その度にはだけたバスローブから、ちらりと胸の谷間を覗かせた。


「本当?わたしが使ってたものひーくんが持ってくれてるの、嬉しい」

「あれを無償で貰っちゃうの申し訳ないんだけど……」

「いいの。わたしがあげたくてあげたんだから」


 俺はずっと、彼女に釘付けだった。


「そろそろ帰ろっか」


 うーさんはそう言うとはだけたバスローブを整えて、すくりと立ち上がった。彼女の様子はあっさりとしていて、俺は歩いていく彼女の背中を目で追った。


 そして、彼女は鞄から小さな黒い機械を取り出して俺に手渡した。


「これは?」

「最近世の中が物騒だから、わたしが作ったの。試作品だけど使えるからひーくんにあげるね」


 一見すると手のひらで握れるサイズの、ただの黒い箱だった。それは中に指輪でも入ってそうな程コンパクトで無駄がなく、洗練されたデザインだった。


「身が危なくなった時、それのスイッチを入れて。そして危険な人やものに向けるだけでいい」

「やっぱり凄いな……うーさんは。これがスイッチか?」


 俺はストッパーを解除して、スイッチを入れた。カチッと音が鳴り、箱の表面に現れたのは淡い緑青の光の粒子の集合体だった。


 現れた極小の光の粒子はほんの微かで、箱の表面を踊るようにのたくっているだけだった。触れてみると、手触りはなんだかザラザラとしたものが指の腹を蠢く感じがした。


 起動している間はデータをスキャンするような理知的な音が鳴り、腹の底に沈むような膨大なエネルギーを感じさせた。


「現段階で自然界にあると認められている物理法則であれば、おおよそそれを無視して触れた対象の動きを止められるの。その光……なるべく触らないようにしてね。わたしが知る限り銃弾も止められるけど、対人でどうなるかは試したことなくて」

「怖!?てか触っちゃったんだけど!?要らないよ流石に。こんなの使う機会無いって」

「大丈夫。持ってて損はないよ。小さいからポケットに入れておけるし……どうしても怖かったら、来週返してよ」


 俺は淡い光の粒が踊るのを見つめながら、これを使う事はまぁ無いだろうなと思った。それは見るからに危険で、身体の芯を冷たくするような力を持っていたのだ。


 来週になったら返せるよう、ポケットに入れておくことにした。


 俺とうーさんは着替えてホテルを出た。ずっと、明日とか来週の仕事の話しをしていた。いつも通りの雰囲気だった。


 そしてうーさんと別れた。


「ひーくん!」


 お互いに背を向けて歩き出していたはずだったが、彼女は俺を五メートルくらい離れたところから呼び止めた。


 俺は振り返って彼女の言葉を待ち、耳を傾けた。


「……………なんでもない!明日もよろしくね!」


 俺は「おう!」とだけ返事をした。彼女はそれを聞くと嬉しそうな笑みを浮かべて、小さく控えめに顔の横で手を振ってみせた。そして再び振り返って歩いていった。


 うーさんは別れ際の最後まで、ずっと笑顔だった。



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 俺は二分くらい歩き続けて、うーさんが元々営業回りで使っていた、言い回しのリストと交渉方法の切り分けを書いたノートを貰ったお礼を何もしていない事に気づいた。


 どうしても、それだけは彼女に今日お礼をしたかった。


 俺はコンビニで、うーさんが好きだというコーラと柿の種を急いで購入して夜の道を走り、ホテルに辿り着いてそのまま彼女が帰っていった方向へ走った。


 受けた施しは決して、そんなものでお礼できる程度のものじゃない事は分かっていた。だけど、まずは気持ちを形にしたものを何かあげたかったのだ。


 俺はかなり急いで走ったが、うーさんはホテルから百メートルくらい離れた暗い道で呆気なさすぎるほど簡単に見つかった。


 うーさんは道路すぐ横の狭くて暗い歩道で崩れ落ちて、泣いていた。


 肩を震わせて、何度もえずき、崩れ落ちた拍子に放り投げられたであろう鞄に目をくれる事も無く、スーツの裾をびっしょりと濡らして激しく泣いていた。


 俺はうーさんに駆け寄って、肩を抱き寄せた。


 しかしぽろぽろと涙が零れ落ちる彼女の目はもう、焦点が合わないかのようだった。


 とりあえず彼女を抱き寄せて道の端に移動させ、民家の塀の傍にあった小さなコンクリートのブロックに腰を下ろさせた。


 彼女は十五分くらいの間、ずっと俺の腕に縋りついて泣いていた。もはや隣に居るのが俺だと気づいているのか、気づいていないのかも分からないくらい激しく泣いていた。


「わたしが生まれてきたのは間違いだったの?どうすれば良かったの?何をしたら良かったの?あの時おばあちゃんと一緒に神様に祈ったのは、間違いだったの?健全でいなければまともに生きていくための土俵にすら立てないなら、わたしはいつになったら健全になれるの?」


 縋るようで、絞り出すようで、どこか問いただすような苦しさの染みた泣き声だった。


 うーさんは俺に質問をしたくてそれを言っている訳ではない事は理解していた。


 俺は無力だった。この地球という惑星の中で、最も無力な生き物が自分であると俺は思った。自分の不甲斐なさに打ちひしがれながら、彼女の身体を支えるしかなかった。


「うーさんに酷いことをした全ての人は、今もうここにはいない。だから大丈夫だよ。うーさんが教えてくれたんだぞ?戻りたい過去にも、戻りたくない過去にも俺たちはもう戻れない」


 俺がそう言うと、うーさんはようやく顔を上げて俺の顔を見つめた。未だに涙がとめどなく零れ落ちていて止まりそうもなかった。


 顔と顔の距離は、十センチくらいしか無かった。


「どれだけ幸せを掴もうとしたって、いつもあと一歩のところで届かない。幸せは更なる幸せを呼ぶし、不幸は更なる不幸以外何も運んでこないの。だから必死になって手を伸ばし続けてきたのに、どうして?何度も何度も首を括りたいって考えた。でも出来ないんだよ。だって、ひーくんがわたしに声をかけてくれるんだもの。ひーくんがわたしに笑いかけてくれるんだもの。どうしようもない時になったら、こうやっていつもいつもひーくんが助けに来ちゃうんだもの」


 うーさんは途切れ途切れの言葉で苦しそうに息を吐きながら、訴えるようにそう言った。そして彼女は両手を上げて、俺の両頬を優しく包み込んだ。


 唇と唇の距離が五センチくらいまで近づいたところで、俺はそれを止めた。


「ごめん。出来ない。俺には渚がいるから」

「………………………そう、だよね」


 彼女の声は諦観の入り混じった、消え入りそうな語尾だった。再び零れ落ちてしまいそうな涙をこらえているのが、はっきり分かる瞳だった。


 彼女は「でも、抱きしめてくれるのはいいよね?」と訊いてきた。俺はうんと返事した。


 俺はうーさんの身体をずっと抱きしめていた。どれだけ時間が経ったのかはよく分からなかった。


 目の前を通り過ぎていく人は皆忙しげに、どこか苛立たしげに歩いていき、誰一人としてこちらに関心を示さなかった。それが今は有難かった。




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