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第82話 『生きる意味』

 俺はコンビニで買い物を済ませた。二人分の缶チューハイとおつまみの入った袋を手にぶら下げてホテルに戻り、エレベーターに乗り込んで十一階のボタンを押した。

 うーさんはもう寝てしまっただろうか、と俺は思った。寝ているとしたらそれでいいし、起きてたら一緒に晩酌をするだけだった。


 ルームキーを当てて部屋に入ると、うーさんは掛け布団から出てベッドの枕側の端に腰掛けていた。窓に反射して映る自分自身を、力が完全に抜けてしまったかのようにぼーっと見つめていた。

 後ろ髪は二つに結われ、身体の前に流されたままだった。


 俺は呆けているうーさんに声を掛け、桃とレモンどっちが良いかを訊いた。桃がいいというのでピンク色の缶を渡すと、うーさんは小さくありがとう、と言った。

 二人で度数五%の強くも弱くもないチューハイを飲んだ。お互いに先程のやり取りを引きずっており、ズシンと胸が重たくなる雰囲気に包まれていた。


「うーさん。ごめん。俺、傷つけるつもりは無かったんだ」


 俺が誠意を込めて謝ると、うーさんは気まずそうな苦笑いをして俺の方を見た。


「いいんだよ。わたしこそごめんね。ひーくんが怒る時は思いやってくれてるんだって、本当はちゃんと分かってるの。昔助けてくれた時も、そうだったからね」

「うん?………ああ」

「だからわたしが大人になれてないだけ。………だけど」


 うーさんは再度缶チューハイを口につけて、切り替えるようにどこか悪巧みしてそうな笑みを浮かべて俺を見つめた。


「わたしは素面だろうが酔ってようが、言う事もする事も、ひーくんに望む事も変わらないよ?」

「気持ちをリラックスさせて欲しいんだよ。うーさんは色々考えすぎだから」

「何も考えてなんかない」

「大嘘やめろ。考えてしかないようーさんは」

「うん。今のは大嘘。よく分かったね」

「もう酔った?早くない?」


 お酒が入り、うーさんの様子は少し陽気になりつつあった。血色が良くなって、頬はほんのりと染まっていた。普段以上に砕けて色気の深まった瞳で見つめてくるうーさんに、そして胸に覆いかぶさったおさげの黒髪に、俺は心臓を跳ねさせた。


 おつまみを買ってきたと伝えると、うーさんは少し食べたいと言った。やめられない止まらない小さなスティックのお菓子の袋を開け、ちびちびと二人で食べ始めた。


 お酒を飲み、菓子を咀嚼し、うーさんと会話をして過ごす時間はあっという間に過ぎていった。時に笑い、時に真剣に話をしていた。


「消えたい」


 ふとお互い無言の時間が数秒流れた時の事だった。うーさんは手元の缶を儚げな瞳で見つめて、静かにそう言った。俺が呆然と見つめてくるのを感じたのか、彼女ははっと顔を上げて、俺に向けて両手を勢いよく振った。


「違うの。そういう意味じゃなくて。わたし、何言ってるんだろう」

「それがさっき、言えなかった事だろ」


 彼女は何も言わなかった。その無言が肯定を意味することを俺は理解していた。理解していたが故に、俺は眉間に皺を寄せた。


『うーちゃんを支えてあげて。あの子、内側がボロボロになっているわ』


 柳に言われた言葉の意味は、これなのだろうと思った。しかし彼女を何が蝕んでいるのか、俺には分からなかった。

 俺が先程軽率に(俺自身は真剣かつ気持ちに偽りは無かった)発した言葉で、確かにうーさんを傷つけた。

 しかしそれは、柳の言葉を聞いた後の出来事である。つまり理由は俺の言葉とは別にあるはずだった。それを聞き出さなければどうしようもないと、俺は思った。


「何でそんな事。………いや、言ってくれてありがとう。言いたくても、言えなかったんでしょ」

「優しくしなくていいよ。わたしはひーくんの上司だから」

「俺はうーさんに再会出来て、嬉しかったんだ」


 うーさんは表情を変えないまま、静かに俯いた。


「うーさんを助け出した時だけは、がむしゃらに人助けばっかりしてて良かったと思えたんだ。つまりうーさんは、俺が『頑張った意味』そのものなんだよ」

「………ずるいなあ」


 そう言った彼女は顔を上げて、俺を真っ直ぐに見つめた。少しだけ微笑んだその瞳は淡い輝きを放って揺れていて、俺は思わず息を呑む。まるで、心もそれにつられて揺らされるかのようだった。

 うーさんはやがて前に向き直り、再び俯いた。


「あの時わたしはひーくんに助けられて、嬉しかったよ。だけど………命が助かったから嬉しかったんじゃないんだ」

「それって……どういう」

「人のことを、信じてもいいのかもしれないって思えたから、嬉しかった」


 俺は缶を勢いよく傾けて、一本目のチューハイを飲み干した。


「色々な事があって、なかなか人を信じられなくて。………信じられたのはもう亡くなった、おばあちゃんだけだった」

「そっか。色々な事って言うけど………内容、聞いてもいいか?」

「もちろんいいよ。何から話そうかな?挙げていくとキリが無さそうだけど……そうだね」


 うーさんは指を顎に当てて、思い出しながら話し始める。


「わたし、小学生の頃からコンクールや論文の最優秀賞をぼちぼち取って賞金を貰って、微力ながら家計を支えたのは間違いないんだけど………お母さんが『賞のことはお父さんには言わなくていい。お母さんが言っておくから』って言うの。それで黙ってたら、賞を取ったのは伝えてたんだけど、賞金がある事は伝えなかったの。そしてその賞金はわたしにお礼の一つもなく、全部お母さんのお小遣いになっていて、賞金が入る度にお母さんのブランド物の服やバッグが増えていったのがきっかけかな。あ、でも、それは序章に過ぎないかも」

「…………」

「中学生なりたての時、お父さんが浮気してたの知ってたんだけど、お母さんにわたしにもバレてないって思ってたみたいなの。お母さんは実際気づいて無かったけど。それで夕食の時にお父さんが居間でお母さんにペラペラと嘘を吐いてたのを、横入りして全部正してあげたんだ。そしたらお父さんに思い切り頬を叩かれて、大雨の中で家から締め出されて、お父さんからもお母さんからも嫌われて憎まれて、口もろくに聞いて貰えなくなって」

「…………」

「これも中学生になりたての一年生の頃ね。わたしサイエンス部に入ったんだけど、三年生の先輩達が実験工程で分からない部分があるって言って困ってて。顧問の先生がやる気がない人で教えてくれなくて、先輩達と顧問が毎日喧嘩してたの。喧嘩で空気が悪いのが一週間くらい続いて進まなかったから、わたしが代わりに先輩達に工程を解説してあげて、顧問には疲れてるなら帰っていいですよって言ってあげたら、なんだか微妙な雰囲気でその日は終わったの。そしたら後日、話が広まって『精神を病んだ』って理由で顧問が変わって。あろうことか先輩達がそれをわたしの手酷い行動と言動のせいって声高々に主張してきて、結果強制的に退部させられて、卒業までずっと問題児扱いされたりとか」

「…………」

「それを機に何かにつけて内申点下げられて評価も落とされて、高校を選べなくなっちゃって」

「…………」

「高校生の時はね、モテ期が来たのかクラスの女の子達に沢山遊びに誘われたり、男の子達には立て続けに告白されたりしたんだ。でも、大学くらいは目標の所に入りたくて、勉強したかったから遊びも告白も全部断ってたの。そしたらある日から放課後一人で勉強してただけなのに、意味もなく同級生の女の子達に虐められるようになって………あと、告白を断った男の子達から突然呼び出されて、何だろうと思ってついて行ったら断られた腹いせって理由でトイレに押し込まれて集団レイプされたし、………あ。思い出した。あとね、これは中学生の時に戻るんだけど」

「うん!分かった!ごめん!俺が悪かった!許して!軽率に聞いた俺を許して!!?」


 話を続けようとしたうーさんを、俺は慌てて止めた。うーさんはきょとんとし、キラキラと輝く瞳で俺を見つめた。その瞳には、憎悪も悲嘆も無かった。

 俺は色々と聞いてはいけない事を聞いたような気がした。話を聞いていて、自分まで心に切り傷を負った気がした。


「わたしは、人を信じないよ。信じられないの。そしてそれは今までもこれからも、ずっと変わらないと思う」

「…………」

「だからこそわたしはね、ひーくんを初めて見たあの時、炎の中を命懸けで助けに来てくれたあの時、衝撃だった。本当に、衝撃だった。夢でも見てるのかなって思ったの。有り得ないって、世の中にこんな人が存在する訳無いって思った」


 挙句の果てに、火災で負った怪我の治療が長引いた事で彼女は目標にしていた大学の受験すら出来なかったのだと、俺は瞬時に理解した。


「でも、色々あった中でも一番の不運は………ひーくんに、在学中にお礼を言えなかったことかな。不幸中の幸いだったのはおばあちゃんが居てくれたこと。そして、ひーくんと同じ高校に入れてたこと」

「…………」

「どれだけ人を信じられなくても、どれだけツキが回ってこなくても、死ぬのはあまりにも痛くて苦しいって、あの炎の中で泣きながら思い知らされた」

「…………」

「ひーくんはわたしにとって、『生きる意味』だよ」


 俺は拳を握った。何も答える事が出来ないまま、俺たちの間には沈黙が走った。うーさんは隣で何のことも無いかのような顔でチューハイを飲んでいた。

 そんな彼女を見詰めていて、俺は握っている自分の手が小刻みに震えているのを感じた。


「じゃあ仲直りも出来た事だし、さっきの話の続きだね。生まれてくる子供の名前、どうしよっか?」

「話を続けるな!?」

「ひーくんの赤ちゃんを産みたいの。いっぱい産んであげるね。どうしても、どうしても産みたいの。孕ませて欲しいの。産ませて。産みたくて、孕みたくて、もう今この瞬間にもわたしはお腹を疼かせてるの!五人でも、十人でも♡ やん……♡」

「うーさんが壊れてしまった」

「ねえ、ひーくん。子供を産み落とすという行為は一見複雑で難しいことに見えるかもしれないけど、どうということはないんだよ。なんということないことなの。親のエゴ以外の何でもないんだから。それで良いんだよ!エゴ以外、わたしたちには必要ない。この場のノリと勢いでまずは産むの。そして産んだ後で、本当は産む前に真面目に考えなければならなかった積もり積もった様々なことを、わたしとひーくんは後回しにしてきたことを心底悔いて辛苦の血反吐を吐きながら一緒に考えるの。ねえやだ、すごく素敵………!わたしさっきからずっと濡れてたのに、もっと濡れちゃった。そんな人生も悪くないよ。ね?陽気にいこっ」

「暴走しすぎじゃね!?上司の面影消し飛んでるよ!??」


 うーさんは赤らんだ両頬を抑え、夢見心地でうっとりしていた。一体どうやったらこの暴走を止められるのだろうと俺は思った。


「さっき、知りたがってたよね。会社で何が起こるのかって」

「うん」

「教えてあげてもいいよ。ひーくんが、わたしがもう消えたいって思わなくて済むようにしてくれるなら。誰も信じられる人がいない独りぼっちの世界の中でも、寿命が来るその時まで生きていたいって、ひーくんがわたしにそう思わせてくれるのなら」

「そりゃ出来るならそうしたいよ。じゃあ、どうしたら良いんだ」

「ふふ。簡単だよ?」


 俺は微かに嫌な予感がした。だが、訊かない訳にはいかなかったのだ。そして案の定、訊いた事を後悔した。


「今すぐにわたしを、孕ませて」


 そう言って俺をじっと見つめるうーさんの頬はお酒で赤らんでいたが、表情と声は本気そのものだった。



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