第81話 知らないフリをしたい自分
俺はシャワーを浴び終えた。身体を拭きあげてドライヤーで髪を乾かし、バスローブを着用して扉を開けた。
頼んでおいた通り、部屋は暗くなっていた。机の白いライトは消灯されてベッド上の小さな暖色の明かりが切ない光を放っていた。机の上にうーさんが買った本が入った黒い袋があって、一冊だけ表紙が見えるようにして置かれていた。
うーさんは既にベッドに入っていた。彼女は目から上だけを掛け布団から出すという臆病な仕草をしながら、弱気に垂れ下がった瞳でこちらを見つめていた。
そして俺と目が合うとうーさんは片手を出してみせて、こちらへ手招きをした。
俺は冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出し、水を飲んだ。そして掛け布団をまくってベッドに入ろうとした。だがすぐにそれをやめて、俺は椅子に座り直した。
「寝ないの?」
「もうちょっとだけ起きてる」
まだ、ベッドに入って目を瞑るわけにはいかなかった。寝る前に、うーさんと話をしたいと思っていたからだ。
「うーさん。少し話をしようか」
「えっちな話?」
「違うよ!?」
「わたしはひーくんとえっちな話がしたいの」
「あ、うん?分かったから、とりあえずその話は後でしようか?」
話が変な方向へ飛んでいきそうなのを、俺はさりげなさを装ってどうにか軌道修正しようと努めた。
「そういえば思い出した。わたしもひーくんと、ものすごく大事で重要な話をしなくちゃいけないなって思ってたんだよね」
「そうなの?じゃあ聞くよ」
「今日わたしにひーくんの子どもが出来たら、わたしとひーくんどっちが会社に残って、どっちが子育てするの?これは今のうちに決めておきたいよね。一応案としては、現状収入的にわたしの方が多少いいと思うから……ひーくんに家事と子育て、お願いしたいなって」
「話の飛び方エグくない?人生ゲームなら二十マスくらい飛ばしたよ今」
「ゲームじゃないよ、ひーくん。わたしたちは現実を生きて会話しているの」
「分かってるよ!?至極真っ当っぽいことを言うな!??」
本題に入れそうもない空気に、俺は頭を悩ませた。もはや彼女はちょっとキャラが変わりつつあるのではないか?それがホテルで二人きりになった事で、メーターが吹っ切れてたのだと、俺は思った。
「ひーくん。窓を見て」
「ん?」
うーさんは窓を指さした。俺は言われるがままに窓を見てみた。
大きな窓はカーテンが開いていて、暖色の明かりと、座ってる俺と、机と椅子とベッドと、白い壁と、ベッドで横になっているうーさんが反射して微かに映っていた。
「盛り上がってきたら、わたしはひーくんにバスローブを脱がされて無理やり立ち上がらせられて………この窓に上半身を押し付けられながら、後ろから長く激しくされるの。押し付けられて外から丸見えになったわたしの胸と赤らんだ顔を隣のビルの人にじっと見られても、音がうるさくてホテルのスタッフが注意しに部屋まで来ても、わたしがやめてって言っても、ひーくんは黙ってろって言って止めてくれないの」
「何で俺鬼畜の設定になってんの?」
「?………ああ、ごめんね。ひーくんは本当は、されちゃう方が好きだよね。大丈夫。それはね、全然恥ずかしいことでも何でもないの。わたしはひーくんに完璧に合わせられるし、どんなに特殊でキツい性癖を隠し持っててもちゃんと全部受け入れられるから」
「ナチュラルに俺を特殊性癖持ちにするな!?勝手に受け入れようとするな!?」
「おかげさまで罵倒も、得意になったんだよ。最初はソフトにしてあげるね?そして徐々に拘束を強くして……その後はひーくんの好みの問題かな。道端の汚物を見る目で『このゴミ』って言われるのと、拘束されたまま身体に乗られてひたすら放置されるのどっちがいい?」
「好みも何も無いよ!??」
俺はツッコんだが、うーさんは赤らんだ頬に両手をあてて困り眉を作って目を瞑り、やんやん、と言いながら掛け布団の中でクネクネしていた。特殊性癖持ちもクネクネするのも鳴上と須藤だけで充分だよと俺は思った。
「うーさん。真面目に話そう」
「何?」
「最近、何かあったんだろ?」
俺は窓から目を逸らして頬杖をつき、机に置いてあったうーさんが買った新品の本を指で撫でながらそう訊いた。しかし、なかなか返答は返ってこなかった。三十秒くらいして、俺は振り返ってベッドのうーさんの方を見た。
うーさんは目から上だけを掛け布団から出す臆病な姿勢のまま、じっと俺を見つめていた。その瞳には、見紛うことなく熱があった。しかし、振り返った俺と目が合うと彼女は驚いたように目を見開いて、頭から布団に潜ってしまった。その様はまるで小動物のようだった。
その様子を見て、俺は俺が想像してたよりもずっとせっかちな人間だったのかもしれないと思った。
「答えたくないならいいけど」
「………ううん。答える。答えるから」
しかし、うーさんは何分経っても何も言わなかった。答えられないのか、どう答えるか考えているのか、やはり答えるかを迷っているのかは分からなかった。
俺はうーさんが買った本を読むことにした。
これ読んでみていい?と訊くと、どうぞ、と布団の中からくぐもった小声で返事が返ってきた。
新品の本の透明な包装を破いて、パラパラと中を見た。地球から何億光年と離れた恒星の、RASAの最新の見解が記された本だった。地球の文明の進展に深く寄与する内容らしい。軽く読んでみたが、やはり何が何だか分からなかった。これを何故うーさんは楽しく読めるのか、共感出来なかった。
だが素人目からでもはっきりと、重厚で途方もないロマンがそこにある事だけは分かると、俺は思った。
俺はうーさんが話し出すまで、決して何も言わないと心に決めていた。本を数ページ捲って閉じた後、再び振り返ってうーさんの方を見た。
うーさんはやはり、布団から目から上だけを出して俺の事を見つめていた。切なげなその瞳は、何かを欲しがっているのだと一目で分かった。答えを欲しがって待っているのはこちらなのに、おかしな話だった。
「………眠いの?」
「寝そうだよ。もう俺」
「ベッドに入ってよ」
「今日は椅子に座って寝て、血流が下がってケツに熱が帯びる感じを心ゆくまで味わいたい気分なんだよ」
「変だよ。わたしたちはそれ、いつも心ゆくまで味わってるのに」
うーさんがクスクス笑うのを見て、俺は正面に向き直った。眠たいというのは当然嘘だった。
「俺が何を信じていたか、はさっき話したよな。うーさんは何を信じてるの?」
「うん。えっと、わたしはね……」
「真実、だろ」
「違うよ。わたしが信じてるのはひーくん」
「え?」
分かり切ったことを質問したつもりで欠伸を堪えていた俺は、堪えていた眠気も欠伸も吹き飛んで、驚いて振り向いた。うーさんの瞳は真っ直ぐに俺を見つめていて、晴れやかな光が満ちていた。
「ひーくんの事だけを、わたしは信じてる」
そう言ったうーさんのちらりと見える耳は赤くなっていた。そんな彼女を見つめていた俺は、自分の胸がどうしようもない程熱くなっていくのを感じた。
用心深くて疑り深い彼女の発した『信じる』という言葉は、あまりにも重たいものだった。名誉であり、栄誉であり、光栄であり、そしてあまりにも、重たかった。
思考も感情も何もかも、うーさんの色に塗り潰されるような気がした。俺は今すぐに、うーさんを抱きしめたくて仕方が無いと思った。やっぱり俺にとってうーさんは大切な存在だと、改めて強く思い知らされた。
故に俺は、うーさんに訊ねる事にした。
「それなら………俺を信じてるっていうなら、話せるよな?」
「話す?」
「これから会社に、何が起こるのかだよ」
その質問を投げかけてから、確実にこの部屋の空気が変化したのを俺ははっきりと感じ取っていた。うーさんは表情も瞳の色も体勢も変えないまま俺を見つめているが、明らかに、さっきまで俺に見せていたような、何かを言い淀んだり躊躇ったりするような感じの雰囲気ではなかった。
数秒の沈黙のはずだったが、俺には二十分くらい沈黙だったかのように感じられた。
「………どうして。誰から、何を聞いたの?」
うーさんは内臓がヒヤリとさせられるような乾いた声で俺に訊ねた。
「街に居た占い師だよ。不吉な事が起こるって言われたんだ。俺は意外とね、占いを信じるんだよ」
「まさか無いとは思うけど、嘘をつかないでね。答え次第で、わたしは」
「正直に答えてるって」
俺をじっと見つめて見開かれたうーさんの目は、化学実験で使用するフラスコの中でも観察するかのような目だった。
俺はさも正直にものを話すかのような強気な態度をとってみせた。しかし、一瞬でも気を抜いたら全身が震えだしてしまいそうだった。額から僅かに汗が吹き出し、心臓は先程とは全く違う意味でバクバクと音高く鳴り響いていた。
「………心配しないで。大丈夫」
「何かあるなら、俺も力になりたいんだ」
「大丈夫だよ。ひーくんに、これ以上迷惑掛けたくないの。普段通りに過ごして。絶対、迷惑かけないから」
「迷惑も何もない。俺はうーさんと同じ会社の一員なんだぞ?」
「わたしはひーくんを守るために居るもの。その為にわたしはわざわざ統括官になったんだから。何があっても、絶対ひーくんを守ってみせるから」
俺はその返答を聞いて少し考えた。そして、わざと露骨に溜息をついてみせた。
「全然答えになってない。教えてくれないんだな……。なぁ、うーさん。お前は本当に俺を信じてるのか?」
「え………?ちが、う。わたしは」
「分かんないのか?嘘をついてるのはどっちなんだ、って聞いてるんだよ」
俺が溜息混じりでそれを言い終えた直後に、うーさんにだけは決して言ってはいけなかった事を言ってしまった事に気づいた。だが、手遅れだった。
うーさんは酷く驚いた声を上げた。その声と瞳には、確かにはっきりとした感情があった。そして徐々に、その目に涙が浮かんでいくのを俺は見逃さなかった。
彼女は布団を頭から被った。数秒経つと、すすり泣く声がくぐもって俺の鼓膜を揺さぶった。
俺は居ても立ってもいられなくて、俺は寝巻きからクリーム色の簡易的な部屋着のようなものに着替えて、財布を持って部屋を出た。エレベーターに乗って、ホテルを出た。そして好きでもない酒とつまみを買って晩酌しようと、近くのコンビニに向かった。
うーさんを傷つけてしまったと、俺は思った。
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俺はコンビニに入った。ホストらしい背の高い男二人組と肩がぶつかって睨まれた。しかし自己嫌悪に苛まれる俺にはどうでも良い事だった。
戦う勇気も、傷つく勇気も、罪を被る勇気も、鬼になる勇気も、悪魔になる勇気も、かけがえのない二つを目の前にして片方を選び切り片方を捨てる勇気も無い。臆病で小心。その心を隠し、バレないように、悟られないように、弱者がさも健全な一般人であるように見せかけ、橋を渡ることも叩くこともせずに生きる。
自分は低い存在だからと、誰一人得をしない卑屈を盾にして、それを謙遜であるなどとすこぶる愚かしく間抜けな勘違いをして、言い訳をして、戦うことから、自分の人生から逃げてきた。それが自分、時枝 広志なのだと俺は思った。
そんな自分だから、俺はうーさんを信じてやれなかったのだと思った。黙って見守れば良いものを、お節介な気持ちを押し付けて傷つけたのだと思った。
自分自身を信用出来ていない人間は、他人も同様に信用出来ないのだ。
俺は全てを失って、渚もうーさんも、自分を見捨てて去っていくのだと思った。
そしておつまみのコーナーまで歩いたあたりで、猛烈でねっとりとした吐き気を催し、食道を逆流して侵食してくるものを感じて、嗚咽して口を抑えた。口を抑えていないと、今にも全て出てきそうだった。涙が一筋、零れ落ちるのを感じた。
学生だった頃は、自分の都合の良いように生きていれば円滑に物事が進行していった。
しかし今はもう自分は、誤魔化しはもう効かない、そういう人生のステージに立っているのだと思った。そういう人生のステージに今、否が応にも立たされているのだと思った。そしてステージに立たされていたという事実なんて、ご丁寧に知らされるものなんかじゃないのだと思い知らされた。
人生が不可逆的なものであるなどという事は小学生の頃から知っていた。教わらなくとも分かっていたはずの事だった。知っていたはずなのに、何故これ程までに受け入れ難いのか、今更それを知らないフリをしたい自分が居るのか、俺には分からなかった。
胸がキリキリと痛めつけられて、その苦しさに悶えるばかりの自分は、このままここで消えることが出来たら楽だと思った。
しかしいくら念じたとて、自分の身体が消えることは無かった。
うーさんにきちんと謝らなければと、俺は思った。




