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第80話 もうわたしたちは戻れない

 本屋の出入口付近にある、雑誌コーナー。

 そこで雑誌を立ち読みしていたら、お腹からゴロゴロと音が鳴った。腸のガスの音だ。さっき須藤と一緒に油に塗れたものを食い散らかした後に胃腸薬を流し込んだ事が影響して、十秒おきに一度程度、胃の中がくすぐったくなぞられるような感覚と共に音を鳴らした。


 うーさんを待っている時間はたかが数分だったが、この音が鳴っていたお陰で、一人の空白の時間を空白と思わず、気持ちを誤魔化すことが出来ていた。今日はどこか、何かセンチメンタルなこの感情を、落ち着けている事が出来ていた。この胃は食べ物を消化して生きる糧とした。この身体は生きているのだと、気持ちが不完全でも身体はその機能を全うするのだと、俺は思った。


 昔好きだった雑誌を捲りながら、面白い作品の連載が悉く無くなってしまった、と俺は思った。ほんの数年前まではあんなに面白かったのに。そう思いながら、退屈な漫画の数々をまあこんなもんだろうと読み進めた。


 やがてその中にひとつだけ、どうしようもなく目を引く作品を見つけた。俺は食い入るようにそれを読み進め、ページを捲り続けた。見渡す限りの地獄だった。状況は良くなるどころか悪くなる一途を辿り、次々と仲間が去っていった。しかしそんな中で、その場その場の最善を尽くす決断を下し、唯一真っ直ぐに希望を信じて爛々と輝く命がそこにはあった。


「ひーくん。お待たせ。………行けそう?」

「ごめん。読みたい漫画を見つけたんだ。多分五分くらいで行くから、適当に待っててくれない?」

「わたしもそれ読みたい。タイトル、教えて」


 俺がそう返答するのを最初から分かっていたかのように、うーさんはそう言って、同じ雑誌を手に取って開いた。俺はうーさんと一緒に漫画を読んだ。

 うーさんはページを捲るのが俺の倍くらい早かった。


「心に重く響いた言葉があるなら、それは積み上げた人生そのものだね」

「…………本当、そうだな」

「いつか、みかちゃんにそう言われたんだ」

「柳さんっぽいなって思ったよ」

「そのお陰で、わたしは過去を振り返るのが怖くなくなったの」

「………だけど、心を震わせた言葉と、その作品を一生の宝と認めようとすると、心に響いたはずなのに、素晴らしいと思うはずなのに、俺の心はこの感情を振り払おうとするんだ。辛くて、痛くて、怖かったあの日々に戻っていく気がして、怖くなるんだ」

「戻りたい過去にも、戻りたくない過去にも、もうわたしたちは戻れない」


 俺はすぐ横にいるうーさんを見た。雑誌を持ったまま俺を真っ直ぐ見つめていた彼女は俺と目を合わせると、薄く微笑んだ。そしてそれ以上、何も言わなかった。


 うーさんは小心だが分析的で、時に残酷なほど客観的だった。彼女の在り方は、渚とは完全に真逆のそれだった。そんな彼女から発されたその言葉は、真実とかっていうよりも、真理だった。

 彼女はそれ以上の言葉を意図的に紡がないのだと、俺は瞬時に悟った。真実であっても真理であっても、そうでなくても、言葉である以上、人を傷つける可能性を孕んでいる事を知っているのだろう、と俺は思った。



 ------------------------------



 うーさんに行きたいところはあるかを聞いたが、パッとした答えは得られなかった。

 ゆっくり次の店を探そうとしたが、こんな夜が深まり始めた時間に限って商店街は更に人で溢れ返った。そして俺たちは様々な人達に声を掛けられた。絡まれたという表現の方が近いかもしれない。


 胡散臭い黒づくめのマントを羽織った占い師のお婆さん。人生苦労しすぎているのか金切り声で叫んで歩き回る、リュックサックに緑のダウンジャケットの女性。既に三件飲み歩いて完全に出来上がったという、俺たちと歳の近そうな男子学生三人組。

 魔物達は俺たちを呼び止め、ビジネスチャンスだの、金を貸して欲しいだの、一緒に遊びましょうだのと言ってきた。

 俺はそれら全て、何も言わずにすぐその場を去る事で躱した。そういった類に遭遇する度におろおろしてしまううーさんの手を引いて、魔物から逃げながら街を歩いた。

 店を探す時間も無さそうだな、と俺は思った。


 俺はうーさんを連れて、近くにあったコーヒー屋に入った。

 少し古風で落ち着いたカフェ風の店内にはジャズが静かに流れており、木製のテーブルと椅子が数台並んでいた。閉店まであと一時間くらいという事もあって、ほとんど他の客はいなかった。

 そこでようやく、俺たちは一息ついたのだった。うーさんは肩で息をしながら、俺を見つめて「ありがとう」と言った。俺も息を切らしながら汗を拭い、当たり前のことをしただけだと返した。


 俺はコーヒーとチーズケーキを頼んだ。うーさんはメニュー表を眺めながら、「海鮮が食べたい気分」と言った。こんなカフェに海鮮なんかある訳ねえだろと言うと、うーさんは少し俯いてしょんぼりした。店を変えるか訊くと、彼女は首を振った。


 彼女の分のコーヒーとチーズケーキも注文して、二人で食べた。


「うーさん。話したい事があるんじゃないの」

「え?………あ、うん」

「せっかくの機会なんだから、話しておいたら。今なら誰からも聞かれることもないし」

「うん。………うん。そうだよね。わたしから誘った訳だしね」


 チーズケーキを食べていたうーさんはそう言ってフォークを置いたが、白いコーヒーカップを持ち上げて見つめ、そのまま何も言わなかった。


 俺はコーヒーをちびちびと飲みながら正面に座る彼女を見つめ、五分くらい待った。時折彼女は唇を微かに動かすのだが、上手く言葉にならないようだった。やがて彼女は瞳にこびりつくようにして浮かんだ憂いを宿して、小さく「ごめんね」と言った。


 そこで俺は、別に聞かれてないけどとりあえず自分の過去について話してみることにした。学生時代は気づいたら生徒会長にされていたこと、気づいたら体育祭の実行委員長も文化祭の実行委員長も他の委員会活動の取りまとめもほぼ自分がやっていたこと、それを全部バスケ部の活動と並行してやっていたこと、バスケ部では気づいたらマネージャーになって顧問の仕事をひとつ残らず全て奪っていたことなどについてなるべく面白おかしく話した。


 うーさんはコーヒーを飲みながら目を丸くし、時折笑って俺の話を聞いていた。そして「だいぶ普通じゃないね」と感心したように言った。俺もそう思うと返した。


「もっと、ひーくんの話が聞きたい」

「俺の話?」

「いいでしょ?」

「まあ、別にいいけど」


 先日、プレゼン用の電子資料が鳴上の毒牙にかかった出来事を話した。プレゼン当日何も知らずにパソコンを起動して、鳴上に細工されているとも知らずに資料を開いた。

 次の瞬間、甘目まどかの最終形態変身ボイスがけたたましい大音量で会議室全体に響き渡り、大画面のスクリーンには甘目まどかの変身シーンのちょうど一瞬全裸になる部分だけがアップで映し出され、見に来ていた同僚五人と部下三十人あまりを呆然とさせたという出来事だった。

 それを聞いたうーさんはお腹を抱え、目に涙を浮かべて大笑いした。俺はこの場に居ない鳴上に感謝をした。


「鳴上さん、ちゃんと相手を選んで悪戯してるね」

「あれ以降俺、何人かの同僚から甘目まどかオタクとか全裸好きって呼ばれるようになったんだけど」

「強く生きてね」

「冷たくない?俺の上司じゃないの?」

「もっと他の話も聞かせてね。上司の命令だよ」


 うーさんに命令され、俺は強制的に話を続けさせられる事となった。話は学生時代に戻った。様々な生徒達と浅く広く交流したが、真の意味で友達と呼べる人は居なかったという話をした。


「ひーくんが好きな異性のタイプ。教えてよ」

「そうだなあ」

「活発で明るい子。でしょ?」


 俺は驚いてうーさんを見つめた。


「…………やっぱりそうなんだね。でも、分かり切ってた事だから」

「まあ、多分そうだね」

「じゃあ、一番好きな髪型は?」


 うーさんは改めて俺に質問を投げかけた。何故かは分からないけどその瞳は間違いなく今日一番真剣で、その瞳に射抜かれた俺は一瞬息が詰まった。そして、柳さんみたいな感じのおさげが一番可愛いから好きだと答えた。

 彼女は驚いたように目を見開いた。


「意外………!みかちゃんみたいな雰囲気が好きなんだ」

「うん」

「どうして?」

「ラフな雰囲気が親近感覚えて、落ち着くんだよ」


 そしてうーさんは俺を見て、何か企んだかのように笑った。目は全然笑っていなくて俺は恐怖を感じた。さっき言葉を詰まらせていた時の、物憂げな雰囲気はどこかに消え失せていた。

 そして彼女は小さな声で、「聞いて良かった」と言った。



 ------------------------------



 俺とうーさんはホテルに入った。


 それが何でなのか、俺は正直分かっていなかった。コーヒー屋を出てからここに来る道中、色々な場所を歩きながら、うーさんと話をしていたことは覚えているのだ。

 仕事で苛々した客の話とか、今週より先週の週替わりランチの方が美味かったとか、先日俺がうーさんに勧めた小説『皆で食べる唐揚げに勝手にレモン汁ぶっかけて地球大爆発』を一日で読破したというので感想を好き勝手に言い合ったりとか、そういう瑣末で下らない事を延々と話していただけのはずだった。


 互いに時間を忘れて楽しんでいた。その結果がこの場所を呼び寄せ、繋がってしまったのかもしれないと、俺は思った。


 十一階の部屋だった。広いとは言えないが二人なら充分な広さの部屋だった。照明をつけてみれば、真っ白の壁だった。絨毯は紫、青、黄色の入り乱れたステンドグラスのような色合いで、ふかふかとしていた。申し訳程度に茶色のデスクと椅子があり、その上にはエアコンやテレビのリモコンが置いてあった。何かはよく分からないが、格調高い絵画が飾られていた。


 窓からは外の夜景を見渡すことが出来た。人も街も家も車も、全部蟻のように見えた。薄型の目立たないテレビがあり、丁寧にメイキングされた清潔感有るベッドは二人で寝ても余裕が有る大きさのものがひとつだった。

 予算の問題か、それらが無駄なく敷き詰められた部屋の中に足場は少なく、ベッドに入るか、椅子に座るか以外は出来そうにない空間だった。


「どうして入ってくるどころか、覗いてもこなかったの?わたしすごく楽しみにしてたのに」

「俺を何だと思ってるんだ?」


 先にシャワーを浴びさせていたうーさんが、浴室から出てきて俺に声を掛けた。俺は椅子に座り、彼女に背を向けたまま返事をした。


「見て。このバスローブ着心地凄くいいよ」

「それも統括命令?」

「うん」

「ホテルまで来て残業すると思わなかったわ」


 俺はそう言って仕方なく振り返り、うーさんを見た。バスローブを羽織った彼女はバスタオルを丁寧に折りたたんでベッドの上に放り投げ、再び俺の方に目線を戻した。ドライヤーで乾かされた黒髪が艶を放って光っていて、火照った頬が酷く色めきを感じさせた。


 そして、俺は次の瞬間に度肝をぶち抜かれ、危うく座っていた椅子から転げ落ちそうになった。張り詰めるかのように瞠目した。これまでの人生で、これ程までに心臓がバクバクと五月蝿く高鳴った経験があっただろうか?

 あまりにも素晴らしい、完璧過ぎる。これは、国宝だ─────俺はうーさんを見て、そう思っていた。

 驚くまいことかうーさんの髪型は普段の柳と同じ、二つのゴムの髪留めによっておさげになっていたのだ。両肩から前に下ろされた髪はふっくらと盛り上がった胸に覆い被さるようにして流れていた。


 俺は唖然としてうーさんを見つめていた。やがてうーさんは何かに耐えかねるように、頬を赤らめて少し大きめのバスローブの袖を口に当てた。見られているのが落ち着かず、どこかもじもじしてるように見えた。

 彼女の弱気な垂れ目は、恥じらうようにして床と俺の足元を行ったり来たりしていた。

 普段よりも一層、幼くて内気な風貌に見えた。そしてそれは、俺の中であまりにもストライクなビジュアルだった。


「あ、ごめん。今片付ける」


 うーさんが鞄から化粧水と乳液を取り出したのを見て、俺は慌てて立ち上がり、鞄やら袋やらが散らかっている机の上を整理して、鏡を丁寧に拭いた。


「ありがと………。好きだよっ。ひーくん」


 うーさんは袖を口に当てたまま、俺を見てぎこちなく、嬉しそうに微笑んだ。室内は薄暗いはずなのに、うーさんの背後に後光が差しているように見えた。俺は彼女から目を離すことが出来ないまま、床に勢いよく尻もちをついた。

 あまりにも口の中が乾き切っているのを感じたので、俺は四つん這いになって備え付けのミニ冷蔵庫の前に移動し、ミニペットボトルの水を取り出して一口飲んだ。


「………明かり、暖色に切り替えといて」

「うん。分かった」


 うーさんの返事を背中に受けて、俺は逃げるようにして浴室に入って扉を閉め、半ば呆然としながら扉にもたれかかるようにして腰を下ろした。お湯を一滴も浴びていないのに、暴れるように脈打つ心臓が鼓膜を爆音で震わせ、あまりにも五月蝿かった。開いた口は塞がらないにも関わらず、まともに呼吸をする事が出来なくて苦しかった。自分の視界なのに、視界が鮮明に晴れたのか明滅したのかよく分からなかった。

 好きだよひーくんって?バカか?何言ってんだお前は?お前よりも俺の方が圧倒的にお前を大好きに決まってんだろ?シャワー終わったら即お前を抱きしめてやる。即。すぐにだ。一晩中抱き潰してやる。ビジュアルが何もかも全て俺好みなのが悪いし、挑発してきたのが悪いんだ。薄々気づいてたけどうーさんって、本当に俺の好みを全部具現化したような見た目してるんだよな。あれ、俺はあのうーさんと一晩同じ部屋で過ごすのか?これ心臓は大丈夫か?心臓は持つのか?もしやこれが、心臓を捧げるということなのだろうか?兵士達は皆こんな気持ちだったと言われれば納得がいく気がするぞ?

 俺はもう、自分が何を考えているのかよく分からなくなってきていた。それだけ俺は気が動転し、心臓は苦しい程バカデカく鳴り響いていて、呼吸も小刻みになっていた。うーさんの、俺好みどストレートで猟奇的に可愛い姿によって。



 ------------------------------



 熱いシャワーを浴び、ようやく気持ちが落ち着いてきたのを感じていた。アメニティとお湯の香りが充満する狭い空間の中で、髪と身体をゆっくり洗い、ほっと一息ついて静かに瞑目した。


 ふと俺は、渚は今何をしてるのだろうと思った。渚は変なところで退かないタイプなので、心配してしまう。渚が無事にしていて、いつも通りの日々を送っていたのならいい。少し退屈な気持ちを抱いていたのなら、尚良い。またクソつまらない事でキレて家具を壊したりしてたのなら、更に良い。

 週末は渚を完璧にエスコートして、全部忘れるくらい水族館を楽しませてみせる。渚は俺に笑顔にくれた。なら絶対に渚を死ぬまで笑顔にしようと、俺は思った。


 早く、渚に会いたい。


 早く、渚と話したい。


 早くまた、渚に『好き』と言いたい。


 早くまた、渚を抱きしめたい。


 早くまた、渚の笑顔が見たい。


 二人珍しく居酒屋でデートした、あの日の事を思い出した。渚の表情は不安そうで、消え入りそうだったのを今もはっきりと鮮明に思い出せた。

 だけどもう、絶対に渚を不安にさせないと俺は誓ったんだ。


 俺はシャワーを浴びながら、大好きな自慢の彼女に、惚れ直してもらう為に出来ることを模索し始めていた。




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