第79話 空と風が見守っている
鉛筆で下書きした放物線を、彫刻刀で掘り進めていくのを見ているようだった。
自分がこれまで如何に、何も考えずに生きてきたのか。それを浮き彫りにされていくのだ。浮き彫りになった、直視しがたいものを目の当たりにする度に、怒りなのか悲しみなのか何なのかも分からないごちゃごちゃと絡み合ったどす黒い感情を濃縮した涙と胃液が込み上げて、胸の中に沈殿した感情全てを今にも嘔吐しそうな程の圧迫感を受けて、全部どうでも良いと道化を演じて投げ出したくなった。
真実とは一体何かと問われれば、自分にとってそういうものでしか無かったときっと答えるだろうと、俺は本屋の中を歩きながら思った。本屋の空気を吸いながら、見失ったうーさんを探して店内を彷徨っていた。
この本屋にうーさんと共に足を運ぶのも、何度目になるだろうか。
充満している新品の紙の香りが俺の鼻腔をくすぐった。それによって『今日の仕事は終わったのだ』とようやくこの身体が気づいて、少しずつ俺の身体は緊張状態から解放されていった。
相変わらず、不思議なものだと思った。本屋には本屋にしかない、本屋でしか得る事の出来ない”活力”というものがあった。本の中身を見るまでもなく、店内に入った途端に自分の中に”何かが”充填されていき、胸に込み上げる差出人不明の熱が明日を生きる希望を漲らせた。
なので幼い頃からずっと、別に買いたい本が無いとしても足を運びたくなる場所だった。これ程までに脱力出来、自由を感じられる空間はそうないと感じさせるのは、本を創り出した者達の感性が自由であるが故かもしれないと、俺は思った。
しかし、そんな状況でも俺が考えているのは渚のことだった。
今ですら本当は、渚なんて人物は本当はこの世界に存在せず、渚と過ごしてきた日々は、自分にとって都合良く作られた夢だったのではないかと思ってしまっていた。これはもはや、そういう呪いなのかもしれないと逃げる思考をすればむしろ気は楽だった。弱気で胆小でどうしようもなく自信の無い俺は、そんな気持ちが過ぎったからこそ、かつて歩み寄ってくれた渚から逃げ出したのだ。
目に見えたもの以外、五感で感じたもの以外の全ては絵空事であると確定するのなら、自分にとって渚とは何なのだろうか。渚はどうしたら現実に、俺のものであると確定するのか。
どうしようもない程の不安に晒され続けている俺にとって、渚はそういう存在になりつつあった。
渚の影が、俺の中で霧散していくような気がした。その姿をどうしても求めている今に限って、霧散していっている気がした。それを抱き留めたいといくら思っても抱き留めることは叶わなかった。そんな思いが過ぎる度に、俺はポケットからスマホを取り出して通知を見た。やはり、渚からの連絡は返ってきていなかった。
会社の前で待っていてくれた渚に走り寄って、抱き寄せたあの日の感触が、渚の体温が、キスの感触が、今でも確かに残っているこの感覚もいつか消えていくのかと思ったら、自分の身体が端っこから、燃えカスのように消えていくような、そんな淡くて黒い影が胸中を支配した。
その度に俺は送られてきていたウェディングドレスの写真を、何度も何度も見返した。こんなにも綺麗な渚と、一緒に手を繋いで歩けるとしたら夢みたいだろうなと思った。
たった一言だけでも、短い一文でも良いからすぐに返事が欲しかった。一言だけでも返してくれたら楽になれるのに、と思った。もしも、万が一にも、俺が返信を長く待たせる度に渚に対してこんな思いをさせていたとしたらと、ふと考えた。
もしそうであるなら、今この瞬間から何もかも全てを改めていかなければならないだろうと思った。これまでの人生で培ってきたありとあらゆる土台を壊し、ひっくり返し、全てが塵芥となったその上で、新たな風と息吹を作り上げていかなければならないと、俺は思った。
俺はその場で立ち止まり、渚に電話を掛けてみた。しかし何コール鳴らしても、渚が応答することは無かった。
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うーさんはライトノベルのコーナーにいた。
既に六冊ばかりの本を腕に抱えたうーさんと一緒に、流行りのライトノベルを見て回った。彼女は面白そうなものを見つける度に表情を輝かせて俺に表紙を見せて、柄にも無くはしゃいで見せた。俺は笑ってその様子を見守っていた。
しばらく見て回った後、俺とうーさんはライトノベルのコーナーから移動し、彼女のお気に入りであるサイエンスのコーナーへやって来た。流行のAIの本の表紙を何冊か眺めた後、最近のお気に入りであるという素粒子物理学、量子力学に関する本の新作を手に取って、きらきらとした眼差しで表紙を眺めていた。そしてふと、俺の顔を見た。
「ずっと聞きたかったんだけど。………ひーくんは何を信じてる?」
「何をって?どうしたんだよ急に」
「質問を変えるね。何に騙されたい?」
「物騒な問いだな……俺は何にも騙されたくないよ」
「そうなの?じゃあ、どうしてひーくんはそんなに真っ直ぐで、清らかなのかな」
うーさんはほんの少し首を傾げてそんな問いを投げてきた。心底疑問のトーンだった。俺はその質問の意図も意味も理解出来なかった。清らかであるというが、そう言われるような事をしている自覚も特になく、俺は小さく「さあな」とだけ言った。
「人が退廃しないのも頑張ることが出来るのも、信じているか、騙されているからだと思うんだよね。これになら騙されてもいい、これならば嘘でも縋りたいって言えるものを見つけられた時、それが信じるってことなんじゃないかな」
瞬時に俺の頭を過ぎったのは、渚の笑顔と、そしてもうひとつは忌まわしくて、禍々しく、俺の人生を呪縛として制限し続けた、ひとつの言葉だった。
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『人のために生き、人の記憶に残る人生こそ、本当に意味のあることだ』
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恐らく生涯忘れる事はないであろう、父の言葉。俺を長年苦しめ続け、縋らせ続けた呪いとも言える言葉だった。そして昔その呪いを無惨に、自分勝手に、足で踏み潰して粉々にして、俺の心を救い出した渚という女が今の俺の彼女だった。
だが今にして考えれば、その言葉の中に素晴らしいと思う部分があったからこそ縋り続けていたのかもしれない、と思った。
「………分かんねえ。仕事で眠い時とかは、都合良いように自分自身を騙しながら働いてるけどな」
「うん。それがさ、頑張るってことだよね。それが出来るっていうことは、ひーくんの根底に何かがあるんだよ」
「父さんの、言葉だよ」
「言葉?」
「『人のためになるように、人の記憶に残るような人生を生きていけ』って。そんな感じの事を、耳にタコが出来るくらい聞かされて育った」
「…………」
「俺はそれを素直に受け入れて、そればかり実践してた。そりゃ他人には喜ばれたよ。だけど結局その結果、俺はいつまでも空っぽのままだったんだ。俺が助けて支えた皆が一人前の大人になっていくのに、助け続けた当の本人の俺は身体だけ大人になっていって、精神は子供のままだったんだ。何にも挑戦していない自分に気が付いたのは、学校を卒業したずっと後だったよ。何もかも上手くいかなく感じて、一時期病んでた。父さんは俺を不幸にしたいんだって、本気で思って、恨みもしたけど………きっと過解釈だったんだ。確かに害をなす言葉を吐くヤツも世の中いるけどさ、人を不幸にしたいと真剣に考えて発せられる言葉なんてせいぜい、藁人形に釘と一緒に吹き込む呪詛くらいのもんなのにな。笑えるだろ?」
そう言って天井を仰ぎながら俺は自嘲的に笑った。うーさんは話をじっとして聞きながら、俺を静かに見つめていた。俺を見つめてくるその瞳にはただ真剣さだけが帯びているように見えた。視線を交錯させたまま数秒が経って、彼女は一度頷いた。そしてお互いに絡んでいた視線を解いて、本の物色を再開した。
その間、二人は無言だった。
俺とうーさんはひとまず満足いくまで本を物色した。そろそろ行こうと声を掛けると、彼女は俺のすぐ側まで歩み寄った。そして小さな声で、「もう少し一緒に居たい」と言った。
俺は少し驚いたが、何も言わずにただ頷いた。
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うーさんが本の会計を済ましに、レジへ向かった。俺は彼女に「急がなくていい。その間は適当に見てるよ」と伝えて、宛もなく本を物色して歩き回っていた。本棚からまた次の本棚へ視線を移しながら、面白そうなものがあれば一冊買おうと考えていた。
「あれ?ひろっち。ひろっちじゃない!迷子なの?」
突然下方から幼げな声が聞こえて、俺は下を見た。見ると、柳がきょとんとした顔をして俺を見上げていた。柳は頭の上に、手のひらサイズの子猫のマリーを乗せていた。彼女は俺と目が合うと、見上げたまま愛らしく笑った。
白いスーツの肩に結われたおさげが流れており、やはり見た目は声と同等に幼かった。その手には袋を持っており、中には今購入したであろう、結構な厚さの本が何冊か入っていた。俺は驚いた。会社から出た後に同僚に出会うこと自体珍しいが、まさか一晩のうちに三人目に出会うとは思いもしなかったのだ。
「本屋で迷子って、そんな。幼稚園児じゃあるまいし」
「顔に思いっ切り書いてあるじゃない。一人で帰れそう?」
「当たり前じゃないですか。帰ろうと思えば帰れますよ」
「ううん。これは、こころの話しよ」
「…………」
柳の透き通った瞳に射抜かれて、俺は黙るしか無かった。
「うーちゃんに、意地悪でも言われた?」
「………そういう訳じゃないって否定したいんですが、否定し切れない部分もあるかもしれません」
「私はお茶の時間に読む本を買って、今帰るところよ。外まで見送ってちょうだい」
そんなやり取りをして、出口へ二人で歩いていく。
「大丈夫。ひろっちの頑張りを、空と風が見守っているわ」
「そうなんですか。有難いです」
「空も風も、その頑張りは無意味だと言っているわ」
「唐突の辛辣!??」
「意味を考えてはならないと言っているのよ。生きていく意味も、何かをする事の意味も、目標のために真剣に頑張る意味も、共に生きる者の意味も」
「葛木さんからは逆のことを教わってきたもので、なかなか難しそうです。実践した途端に怒られそう」
「意味を突き詰める程、あなたが望むものは遠のいていくものよ」
出入口の前まで歩いてきて、柳はふと足を止めて振り返った。
「うーちゃんを支えてあげて。あの子、内側がボロボロになっているわ」
柳の意味深な言葉に、俺はただひとまずという感じで頷く以外に出来ることは無かった。
柳が本屋から出ていくのを見送って、俺は振り返った。出入口付近の雑誌コーナーに、昔夢中になった少年誌の表紙があるのが見えた。俺はそれを手に取り、パラパラと捲った。少年漫画を読みながら、うーさんが会計を終えて戻ってくるのを待っていた。




