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第78話 その目で見て、その手で触れたもの

 もはや呼吸をしているのもしんどかった。俺と須藤はラーメン屋を出てすぐのところで別れた。その後、パンパンに詰め込んで破裂しそうなお腹を抑えながら、人でごった返した商店街を歩いていた。

 もう麺の一本、水の一滴すら詰め込むことは出来ない。それ程に、今にも吐きそうだった。少し空腹だからといって調子に乗りすぎたと、俺は思った。往来の中だが間違っても、人にぶつからないようにしなければならなかった。


「ひーくん」

「うごぉぉぉぁ!?」

「ひゃっ!?」


 俺は思わず野太い声の野鳥みたいな悲鳴を上げていた。驚き過ぎて腹から何もかも全てが一瞬出そうになった。まさか後ろから声を掛けられるなど思いもしなかったのだ。

 たまたま俺を見つけて笑顔で声を掛けてきたうーさんは、当然俺がそんな反応をするとは思わなかったらしく小動物みたいな悲鳴を上げた。そして盛大にきょどりながら、おろおろとして俺を見つめていた。


「うーさん……声かけるタイミング考えてくんない?死にかけたわ」

「本当に、ごめんなさい……。大丈夫?」

「胃腸薬欲しい」

「分かった。待ってて」

「早く………苦しい。うっぷ」


 俺はうーさんにコンビニで胃腸薬を買わせている間、商店街から少し離れたベンチに腰掛けて休憩していた。駆け寄ってきたうーさんからコンビニ袋を受け取って胃腸薬を飲み、水で喉を潤した。

 十分くらいうーさんと一緒に座っているうちに、幾分腹の調子が良くなってきた。


「なぁ。うーさんってさ」

「うん?」

「毎日仕事つまんないと思ってやってるの?」


 須藤の言葉が胸に引っかかっていた。故に、これをうーさんに質問しなければ気が済まなかったのだ。しかしその質問をした直後、確かにこちらへ微笑みを向けていたうーさんの顔から、刹那ではあるが、無表情とまではいかずとも笑みが引っ込んだのを見逃さなかった。


「ひーくんと一緒だから。わたし、毎日すごく楽しいよ」


 キラキラと輝くうーさんの瞳が天を仰ぎ、四、五秒考えてからこちらに向き直って、嫣然とした笑みを見せてそう言った。


 本当にそう思ってるのか?と俺は思った。


 しかし、刹那に真顔を見てしまった俺にそれを尋ねる度胸は兼ね備えられていなかった。おどおどと頼りない仕草が多いうーさんだが、ここ最近は何故なのかは分からないが、ふとした瞬間に表情が感情の一切を凍らせる事があった。

 それを見る度に、空気感が明らかに変わるのを肌と心臓で感じさせられて、俺はたちまち恐怖でいっぱいになってしまうのだった。



……………………………………………………



 うーさんはよく、俺に微笑みかけた。彼女のそんな艶やかな微笑みは、決して他の人間に向けられる事は無い事を知っていた。俺はそれに対して当然嬉しさを感じるし、微笑み返しもした。しかしどうもその頃は、微笑み返すのも憚られる心情だった。


 彼女から向けられる輝いた眼差しは、愛おしいものを見るような目であり、心の奥底から自分に対する敬意と好意を感じさせる目だった。しかしそれと同時に、どこか蹲った小動物でも見るかのような目でもあった。

 確かに俺はうーさんよりも一つ年下だけど、どうも違和感を覚えずにはいられなかったのだ。


「それにしても……今日はいい夜だね。暗い感情も汚い事実も、わたしのことも、この闇が全部隠してくれそう」

「分からん。………って言おうと思ったけど、考えてみるとなんか分かる気がする。子どもの頃は朝から晩まで夜がいいって、本気で思ってたし」

「本当に?やっぱりわたし達、かなり気が合うよね。嬉しい。これって確率にしたら天文学的だよ。世界に奇跡が存在するとしたら、それはわたしとひーくんのことだね」

「そうかもな。だけどもう、火傷と怪我はごめんだよ。頼むからいつも危なっかしいのはやめて、俺を安心させてくれ」

「わたしだって、出来るならすぐにでもそうしたいよ」


 少し頬を膨らませたうーさんとそんな会話を交わしながら、俺たちはベンチを立ち上がった。商店街に出て、肩を並べて歩いて行きつけの本屋に向かった。人が多いのが煩わしい通りだが、十数分歩けば本屋に辿り着くことが出来るルートだった。

 うーさんと一緒に歩いている間、俺は落ち着く事が出来た。うーさんは俺にとって数少ない、沈黙が怖くない相手だった。彼女が俺をどう思っているか分からないけれど、きっと同じ気持ちであって欲しいと思った。


 三度の飯より本を読むのが好きなうーさんは、よく俺に本の話をした。それがこうして毎日、本屋に一緒に通うことの意味でもあった。


 しかし、ここ最近奇妙だと感じることがあった。

 それは俺が暇つぶしに始めたゲームを、タイミング良くうーさんが始めて声を掛けてくることだった。俺がオセロのアプリをダウンロードすれば二日後くらいにオセロにハマったからやろうと声を掛けてきたし、その後俺が麻雀のアプリをダウンロードしたら三日後くらいに同じゲームを始めたと声を掛けてきた。

 彼女はあくまで『自発的に始めたのだ』と、聞いてもいないのに必ず、さりげなく口にした。


 そして更に奇妙なのは、『何をやってもお互いの実力が均衡しており、必ず良い勝負になる事』だった。


 正直に言って、うーさんとゲームをするのは楽しかった。何故ならお互いの知識も技量も同等程度で、お互いの勝率が五分五分なのだ。勝ち続ける勝負を勝負とは言わないし、負け続ける勝負なんてやってて面白い訳がない。オセロも麻雀も両手の数に収まる数しか勝負をしていないがいずれも、何試合してもお互いに成長を感じる、良い勝負が繰り広げられた。


 そこまでなら良い話で終わるのだが、俺の中には疑問が浮かび上がりつつあった。

 果たしてそれは、「本当に」実力が均衡しているが故なのか、と。


 何もかも全て、ペースを俺に合わせてるんじゃないのか?この天才であれば、それが出来得る可能性を否定することが出来ないのだ。


 …………流石に、そんな訳ないと思いたかった。そんな訳ないだろと思いたかった。いくらうーさんがいつも俺に良い顔をするからって、自分が思い上がっているのだと自分に言い聞かせた。いくらうーさんが辣腕の切れ者といっても、技術も知識も俺と同格に見せかけるなんて事は、圧勝するよりもはるかに難しいことだった。


 ちらりと、何も言わず俺の横を歩いているうーさんを見た。

 彼女は見とれる程に容姿端麗で、スタイルも抜群に良かった。老若男女のいずれにも文句を言わせない容貌の優れようであった。実際人目の多い場所に出れば、多くの通りすがりの人間が彼女を見て反応する程だった。息を呑む者、思わず見とれる者。猫背の男は彼女の姿を目にした途端に背筋を張った。


 以前渚と一緒にイベント会場に行った時に、渚はその美貌で、とてつもなく多くの視線を浴びていた。うーさんは渚と比較して容姿の優れようのベクトルこそ違えど、同じようなものだった。


 彼女と一緒に歩ける事自体、奇跡が生んだ産物であるように思えた。正直今こうして一緒に歩いているだけで、高々になった俺の鼻の下は伸びて伸びて伸びまくっていた。これだけ注目を受けておいて、まさかモテる自覚がないワケではあるまいと思った。


「ひーくん」

「うん?」

「最近ね、悩んでる事があって」

「悩み?」


 恐らくは体質による不幸の連続の事だろう、と俺は思った。

 彼女は日常的に災難に遭った。物が無くなったり、転んだり、使っていたものが突然壊れたりする頻度が明らかに一般人のそれではなかった。先日は鳥のフンが頭上目掛けて落ちた事に気づかないまま出社してきていた。それを見た俺を含め誰もが、悲惨なエースの姿にどうすればいいのかを考えさせられた。


「何でも言えよ?まぁだけど、俺にどうにか出来ない事は無しな」

「ありがと。実はね………ここ数日、ブラがキツくて」


 俺たちは表情のひとつも変えることなく、静かに本屋を目指して歩き続けていた。前だけを見て、お互いの視線を交錯させることはなかった。


 歩きながら、俺は商店街を見渡してみた。往来を歩き去る人々と、立ち並ぶ店と電灯の明かりと、喧騒が俺たち二人を包んでいた。その喧騒や街並みは俺の目には、どこか遠い別世界のように映った。視界の左側には繁華街の入り口があり、バーや居酒屋もずらりと揃っていた。人々は誰もがその明るいネオンの闇の中に、光を見つけたと勘違いして喜んで溶け込んでいった。一時的にでも構わないから、日々の憂いを搔き消す。その為に。


 俺は歩いたまま何ともなく、すぐ横のうーさんを見た。うーさんはそれにすぐに気づいて、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。


 彼女の感情はその瞳を見れば、誰でも一目瞭然なほど分かりやすいものだった。普段以上に輝いているその瞳が示しているのは…………待っている。彼女は打ち明けた悩みに対して、俺が何と返答するのかを、今か今かと楽しみに待っていた。


「人の話聞いてた?」

「何?」

「俺にどうにも出来ないじゃん、それ」

「全然そんなことないよ」

「そんなことあるだろ、どう考えても。俺にどうして欲しいんだよ」

「どうしたらいいのか、教えて欲しい」

「……まぁ、分かるのはそうだな………今の言い方だと、どの下着も同じ事になってるってことでしょ?」

「うん」

「持ってる下着が全部同時に、勝手に縮むことは有り得ない。だから、その。うーさんが大きくなったんだよ」

「わたしの?何が?もう少し具体的に言ってくれないと。もしかして単に太っただけでしょって、そう思ってる?大きくなったって言い方で誤魔化したってことだよね。わたし傷つくなあ」

「いや。あの」


 あれ?なんか今日は随分攻めてくるなあ。と俺は思った。

 うーさんの突然のカミングアウトは、予想出来る訳もないものだった。それに加え今俺は、一歩間違えればセクシュアル・ハラーでうーさんを傷つけてしまう発言をさせられそうになっていた。うーさんは俺の先輩であり味方であり、心から尊敬する上司だった。だが、そんな彼女は業務の時ですら俺に対してここまで厳しくはなかった。今俺は、詰められていた。これではまるで、どうにか喰われずに済んだ先日の休憩室の一件の続きではないか、と思った。

 仕事終わりの油断と慢心が呼び寄せた大ピンチだった。俺はそんな状況に動揺した。口調こそ普段通りを装ったが、目線の先はあっちへ行ったりこっちへ行ったりと挙動不審になり、内心動揺しまくっているのが丸わかりの態度を取ってしまっていた。


 うーさんが俺を見てくすりと、小さく笑ったような気がした。


「…………」

「どうしてそっちを見てるの?」

「一応もう一回聞くけど、俺に何を求めてる?」

「どうしたらいいのか、教えて欲しい」

「どうしたらって………新しいの買えばいいんじゃ」

「そうかな」

「それしかなくね?」

「……うん。そうだよね」

「…………」

「…………」

「…………」

「………ごめんね。ブラがキツいのは本当なんだけど、意味とかはないよ。ひーくんがどんな反応するか見たかっただけだから」

「知ってる」


 俺たちはそんなオチも取り留めもないやり取りを終えた。肩を並べて歩き続けるうちに、再びお互いに無言になった。あたかも、何の変哲もない会話だけがお互いの間に繰り広げられていたかのように二人無言で歩き続けているが、当然俺は平常心ではいられなかった。

 俺は眼球だけを動かして悟られないようにうーさんを見つめた。こうしてしっかり見ると、俺の目線の高さにうーさんの頭頂部が来るようだった。渚の身長はもっと小さいので、俺の口元らへんに渚の頭頂部がくるイメージだろうか。


 うーさんの横顔を慎重に見つめていると、彼女は何故か分からないが困り顔を少し朱く染めながら、ゆっくりと背筋を伸ばして姿勢を麗しく正した。そして顎を引いて真下を見つめた。

 スーツの上からでもはっきりと形が分かる、あまりにも立派に実った自分自身のそれを少し見つめると………ゆっくりとした所作で脇を締めた。

 手提げ鞄を両手で持つために、前方に降ろしていた両腕。そのまま脇を締めて、たわわに実るそれを締め上げた。そんなことをしなくても、既にきつくなったという下着に抑え込まれて苦しさを感じているであろうそれが、腕に締められたことによって更に強調された。圧倒的な立体感とボリューミーさを見せつける果実は、触らずとも確かな弾力があると感じさせた。その凶暴な弾力は夜の闇すら弾き飛ばし、昼にでもなってしまうのではないかと俺は思った。


 先ほど渚を引き合いに出したが、これは渚が小さいという意味では無い。だぼっとしたパーカーを着ていることが多いから分かりづらいだけで、渚もそこそこ立派なものを持っていた。つまり、うーさんの胸が本当に大きいのだ。

 俺は逃げ出すように、明後日の方向へ目を逸らした。


「さっきからどうしたの?ひーくん」

「いや。どうもしないけど」

「どうもしなくは無いでしょ?わたしには、今ひーくんが考えてる事ちゃんと分かってるし」

「エッ………!?」


 俺はうーさんの胸をジロジロ見ていたのを勘づかれたと思い、思わず変な声を出した。しかし、うーさんの発する言葉は俺が全く予期していないものだった。


「ブラの話、疑ってるんだよね?」

「あぁ、………え?」

「疑いたくもなるよね。うんうん。分かるよ」

「違う。疑ってなんか」

「いいよ。じゃあ、見せてあげる」

「いや!ま!待て待て待て!」


 うーさんは夜の商店街の往来の中で、スーツとシャツを脱ごうとし始めた。俺はそれを止めた。止める以外に出来ることは無かった。


 俺は必死をこいて、うーさんの蛮行、というよりも凶行にも近いそれを止め終えた。往来の人々の珍奇なものを見るような無数の目が俺たちを見つめていた。怪しい目で見られているのは当然、主に俺だった。

 やがて俺たちは再び、何事も無かったかのように本屋に向かって歩き出した。うーさんがこちらの顔を真っ直ぐ見つめている事だけは、はっきりと雰囲気で感じ取れた。俺はそんなうーさんへ目線を返す事が出来ないままだった。


「何でそうなるんだよ。ここでうーさんを疑って何になるってんだ」

「逆に、何で信じてくれるんだろって思うよ?わたしが今の相談を受けたひーくんの立場なら疑うし、見せて欲しいなーって、思っちゃうけどな」

「何を言ってるんだ?」

「上っ面の言葉も画面越しに見たものも、わたしは信じない。他でもなく自分自身の足で動いて、自分自身の目で見て、自分自身の五感で感じ取ったもの以外の情報は、全部夢物語か他人が作った創作物だと思って生きてるから」

「待て。何だよそれ。それって」

「ひーくんがその目で見て、その手で触れたもの以外に、真実なんて無いんだよ」


 そんな考え方してて、生きてて楽しいのか?


 率直に湧き出てきた感情を、俺は喉奥に引っ込めた。


「逆にその目で見て、その手で感じたのなら、どれだけ馬鹿げてて夢物語のように感じたとしても、それは真実なんだよ。マスメディアの報道でも、上司の言葉でもない。他でもない自分自身が認識した真実だけが、その人の生きる世界の全てなの。わたしとひーくんが同じものを同じタイミングで眺めたとして、それが素粒子的に見れば全く同じものであったとしても、解釈や感情次第で認識はズレる。だから勉強して仮説を立てた後は、必ず自分自身の目で見て、自分自身で『真実が何か』判断しなくちゃいけないの。そう考えるとわたしたちは同じ世界に生きているようで、全く違う世界で生きているとも言えるよね?他人一人とでも分かり合えたと感じたなら、その出会いは奇跡なんだよ。ひーくんは、今までいくつの奇跡と巡り会えたと思う?」

「…………」

「この手で真実を暴いて、目に焼き付けて理解する瞬間って、ゾクゾクしない?ドキドキしない?わたし、一生そんな感情で揺れていたい。ねえ、ひーくんもそう思わない?」

「…………」

「今画面越しでも何でもなく、ひーくんのすぐ目の前に、手の届く距離に、わたしの身体がある。確かめられるんだよ。確かめたいでしょ?真実がどうなってるのか。わたしが言ってることが本当か………その目で」


 二人で肩を並べて歩いていたが、うーさんはそこまで言い終えたと同時に足を止めた。俺もつられて立ち止まり、彼女を振り返った。立ち止まったうーさんは背筋を伸ばしたまま、麗しい佇まいを崩さずに、微かに吹いた風に結われた髪を揺らしながら俺を真っ直ぐに見つめていた。


 うーさんの胸は未だその両腕で強調されていた。俺は思わず、それを真正面から直視していた。うーさんはそんな俺を見つめたまま、普段と変わらない清楚な微笑みを作って言った。


「………着いたよ。ひーくん」

「え?」


 俺は咄嗟に横の建物を見た。俺たちは既に、目的地であった本屋の前に辿り着いていた。


「早く入ろ。楽しみにしてた、新しい本があるんだ」


 彼女が胸を直視する俺の眼差しに気づいてたのか、気づいていなかったのかは分からなかった。今にして考えれば百パーセント気づいていただろうなとは思う。

 うーさんはどこか楽しそうな笑みを浮かべながら俺を見つめてそう言って、これまでの会話の内容など忘れてしまったかのように、うーさんは本屋の自動ドアを潜って本屋の店内に入っていった。

 そんな彼女の後ろ姿を、俺はその場で呆然と立ち尽くしたまま見つめるしかなかった。




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