第77話 きっとこの時の為だった
話は二年前に遡る。俺に何一つ覚悟が決まっていなかったあの頃の、小圷の手によって事件が発生する前の日の話だ。
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不穏な空気を感じていた。俺なりに色々と嗅ぎ回ってみたが、結局、この後会社に何が起こるのかは葛木からも柳からも教えて貰えなかった。俺は鬱屈とした気持ちを抱えたまま会社を出て、しばらく歩くと土と小砂利の道に出た。
物憂げな気持ちを身体の中から弾くように、小指大の石を蹴飛ばした。
放物線を描いて飛んでいく石が、ほんの少しずつ湿度が上がりつつある夜の空気を切り裂きながら飛んでいった。
自分の中で自分が、自分じゃなくなっていくような感覚だった。
困難を抜け出し、絶望を抜け出し、救われたと思っていたはずだった。
心の底から待ち望んでいた、望み続けてきた場所へ到達したとばかり思っていたはずの自分自身は、その内側が空洞になっていくばかりだった。
何かが漏れ出ていくかのように、失われていくようだった。自分の中で光り輝き続けてきた『誇り』にも近い何かが、かけがえが無かったはずのその何かが、望み続けたモノを手に入れた途端に、報われたと安堵したその瞬間に、時間というあまりにも卑怯で不可逆な理によって、徐々に、緩やかに、容赦なく、仮初の、得体の知れない、輝きなど微塵もない黒ずんだ何かにすり替えられていくのを感じていた。
かつて他でもなく自分の人生であったそれが、そうでは無い『何か』へ形を変えていくようだった。自分を象っていたはずの自分という器自体が、生まれて以来初めてその形を変えようとしている。故に、時間が、運命が、これまでとは違う形に姿を変えようとしていた。
これが焦燥なのか、不安なのか、恐怖なのか、悲哀なのか、苦悩なのか、嘆きなのか、退屈なのか、嫌悪なのか、拒絶なのか、憂鬱なのか、何なのか分からなかった。
究極的にはそれら全てなのかもしれないと思った。それら全てを包括したものを『老い』であるとするなら、不思議と納得できるものがあるような無いような、諦観できるような、やっぱり認め難いような、あまりにも複雑すぎる感情が過ぎった。
「考えてみれば頑張ったよ、俺。まさか本社で働く機会を得るなんて、前は考えられなかったし。………そういえば、渚から返信は」
俺は丁寧に舗装されたばかりの公園沿いの暗い道を歩いていた。コツ、コツと俺の革靴が地を踏む音が、ゆっくりと木の影の中に溶けていった。道の脇には間を開けて低木が並んでおり、それらは夜闇を満たす柔らかくて微かな月光を遮って、通る道の俺の影を濃くしていた。
歩きながら、スマホをチェックした。ライヌを開いてみたが、渚からの返信はまだ無かった。
『ねー。ヒロー。水族館行こうよ。シャチ見たい!シャチ!時代はシャチなんだけど?』
『よく分かんないけどいいよ。いつ行く?』
『すぐがいい。今週末ー』
『分かった。土曜の午後、迎えに行くわ。結構遠出だし、向こうに泊まるでしょ?』
何でもない、日常のやり取りであるはずだった。
そしてその数分後、向こうに泊まるかについての問いには返事がなく、その代わりに渚がウェディングドレスを着て自撮りしている写真だけが一枚送られてきた。
渚はこれ以上ないくらい嬉しそうな顔をしていて、今までに見たことがないくらい綺麗だった。そこは澄んだ水面に浮かんでいるかのように綺麗な場所で、屋外か屋内かよく分からなかった。渚の頬は赤らんでいた。お酒でも飲んでいるのかな?と思った。日光が差し込んでいるのを見て、昼の時間帯に撮ったものだろうと考えた。
一体それがどこで、どうしてそんな恰好をしているのか分からなかったけれど、そんなのどうでも良いのではないかと一瞬思わされる程に縹色のドレス姿の渚は美しかった。その渚の姿を見ていると、心臓が著しくけたたましい音を立てて鳴り響いた。自分の彼女であることが、到底信じられないと思った。こんなに可愛いのでは他の誰かに取られてしまうのではないかと、凄く怖くなった。
細かい事は後日聞こうと思って、俺は「すごく似合ってるね」とだけ返信を送った。
しかしその写真が送られてきて以降、今朝から、渚からの連絡が返ってこない。朝昼晩、どのタイミングに連絡しても数秒で返信を寄越し、こいつは一体いつ寝ているんだと度々俺を戦慄させる渚が、晩になった今も返信を寄越さないのだ。
しかし、そんな状況にも関わらず、俺は渚の返信を気長に待っていた。決して待っていない訳ではないが、そこに疑念や懐疑といった感情は持ち合わせていなかった。
……………それは嘘だ。本当は持ち合わせているその感情を、表情の奥に隠して見えないようにしているだけだった。
「渚だって忙しいことくらいあるだろ。″ぱる″でまたバイトも復帰した訳だし。俺ばっかり渚を意識してたらなんかダサいもんな」
これまでは俺が仕事であまりの多忙に返信をなかなか出来ず、渚を待たせるのが常だったが、それが今偶々、逆になっているというだけなのだ。ここで返信欲しさに浅ましく、追加で文章を送り付けるという選択は絶対に出来ない、と考えた。
渚のあまりにも美しいウェディングドレス姿と返事が来ない事実に、俺は吐き気を催して目に涙が滲む程強烈な不安に煽られた。美しいドレスを着た渚を、誰にも取られる事の無いように今すぐに抱きしめたい。離したくない。傍に居て欲しい。嫌だ、どこにも行かないでくれ。またいつもみたいにしつこいくらい、俺を求めてくれ。と思った。もし万が一このまま連絡が途絶えてしまったらどうしようと思った。渚は今どこで、誰と何をしているのだろうと思った。
そんなどうしようも無い程の不安に胸の中を掻き乱されながら、その不安を必死に押し殺すようにして舗装された道を踏み鳴らしていた。
思い返してみれば、ここ最近の俺による渚の扱いはそれなりに酷く、到底人には話すことの出来ないものだった。特に直近のデートがそうだった。
デートを楽しみにしていた渚の気持ちも知らずに盛大に寝坊し、それをリカバリーする為に二人で外出したのに終電で乗り過ごし、スマホの電波も繋がらない暗闇のド田舎の中で大喧嘩をし、紆余曲折を経て仲直りを果たし、やっと繋がった電波に縋ってタクシーを呼んだのに来てくれたそのタクシーに気づくことも無く、横殴りの激しい大雨に二人とも服と身体をびしょびしょに濡らしながら、大喧嘩からの仲直りの反動あってか、朝日が二人を照らす時まで、お互い夢中で抱き合っていた。
熱くなった渚の身体。雨で頬にへばりつく茶色の髪の毛。普段の強気と打って変わって垂れ下がった眉。潤み切ってこちらを見つめる瞳。切なげに濡れた唇。くすぐったくて愛おしい吐息。抱き合いながら、その熱で二人とも溶けて消えていくような感覚。
全てが忘れられるはずもない感触となって、今でも鮮明に思い出せる程に俺の中に残っていた。
「ていうか、愛想尽かされてんじゃね、俺……。どうしよう。少なくとも今度は全部俺が奢らないと。どうせ今回も俺が奢るの嫌がって割り勘にしたがるから、どうにか力づくで抑え込んで……」
正直に言えば、渚に口喧嘩で勝てる気はしなかった。お互いに熱くなって言い合いをした時、渚から折れることはまず有り得ず、話の内容やどちらの言い分が正しいか云々は一切関係なく、最後は必ず俺の方から謝って喧嘩が終結する事を知っていたからだ。
だが流石に腕づくならどうにかなるはずだ、と俺は思った。今回ばかりは寝坊出来ないし、渚の財布から小銭どころか、塵埃の一欠片すら出させる訳にはいかなかった。
「んもう、やだな〜時枝氏。僕は時枝氏に愛想を尽かしたりしませんよ〜」
「わ、うっわぁぁぁ!びっくりしたぁ!ていうか当然お前のことじゃねえよ!?」
「え……?僕のことじゃ無いんですか?本当に?はぁ、がっくり」
「怖!」
ぼんやりと歩いていた俺の脊髄を不意に這ったのは、冗談めいた声色だった。青ざめて勢いよく突っ込みながら横を見れば、予想通り、いつの間にか隣にいた須藤が笑ってこちらを見ていた。金髪にイカつい遊び人の風貌で、スーツを着ているのがまたアンバランスだった。
「じゃあまたあの、すこぶる綺麗な彼女さんの事でしたか?本当に隅に置けないなぁ」
「最近ずっとろくにちゃんとしたデートも出来なかったから、ここら辺で挽回しないといけないんだ」
「へえ?彼女の為なら権威的な上長をセレモニーの場で物理的にぶっ飛ばす時枝氏とあろうものが、これまたどうして?」
「それは……黒歴史だよ。不思議だなあ。俺の人生は、黒歴史ばっかり増えていく」
「…………」
「…………」
「………またご謙遜を」
「謙遜なんかじゃ」
「そのうち気づけるんじゃないですか?黒歴史だとばかり思っていたものが、色彩を纏ってあなたを象る一部であった事に。それが黒でなく、なにかの色を放っていた事に」
須藤と共に、どこか釈然としない気持ちを垂れ下げた眉に表したまま歩いた。やがて舗装された道の終わりに辿り着き、その先には明るい商店街と繁華街があり、人の往来が激しい場所に繋がっていた。まるで別世界への入口がすぐそこにあるような気がした。
公園沿いの暗い道を抜け出ると、眩いネオンと明かりが俺と須藤を照らしつけて、極端に高まる人口密度と、気を張ってないと今にもぶつかりそうになる往来に、吐き気すら込み上げそうになって顔を顰めた。横を見ると、須藤は楽しげに頬を吊り上げてネオンと月の空を見上げていた。
分かっていた事ではあった。なるほどやはりこの男は自分と決定的に違うと、その横顔を見ながら俺は思った。
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俺は何ともなくそのまま須藤に連れられ、流行りのラーメン屋に入った。
狭く少し汚い店内だった。愛想の悪い態度で目の前に叩きつけるように差し出されたのは、まるで『生き物』でも見ているかのような、モヤシとチャーシューが山盛りの、恐らくはラーメンだった。
これをラーメンと呼んでいいのかと、俺は啜れば啜るほど思った。ラーメンではなくラーメンらしき何かと呼ぶべきだし、食事じゃなくて戦いだろこれはと、俺は思った。モヤシを必死にかっ食らっていると、隣から須藤がそんな必死さもスルーして話しかけてきた。
「時枝氏が羨ましいですよ。毎日が本当に楽しそうで」
「楽しそうに見えるか?俺が?」
「僕には楽しそうに見えますよ~」
「何で?」
「活き活きしてるじゃないですか。本社は競争意識こそあれど、根元は身を固めようとする考えの人が多いんですが、時枝氏は決してそれに染まらない」
「…………分からない」
「分からない?」
「俺は納得出来るところに来たはずなんだ。これまで頑張ってきたのも、きっとこの時の為だった。なのに。…………」
渚の笑顔を思い浮かべて、思わず胸と目頭の奥が熱くなる感覚を覚えて俺の箸の手と口は止まった。
懸命に自分を励まそうとありとあらゆる工夫を尽くしてこちらへアプローチしてくる渚と、それに対して何一つ返してあげられなかった情けない自分と、今となってはライヌが返ってこない事実が脳裏を過ぎった。
俺は表情が固まったまま、何も出来なくなって制止してしまった。
そんな俺を見て、須藤は取り繕うように早口になった。
「あぁいや。良いんですよ。別につまんなくたって良いじゃないですか。僕なんて毎日つまんないですし」
「そうなの?須藤が?まさか。全然そうは見えないけど」
「楽しいように見せてるだけです~。シゴデキの人って大体、一見すると仕事をつまんなそうにやってるじゃないですか。でも、実際は考え方逆なんですよ」
「逆?」
「はい。自分で言うのも少し妙ですが、仕事がちゃんと出来てるからこそつまんないんですよ」
「…………」
「ただそれって、自分が『出来る』領域から出ないようにすれば誰であろうと、僕ですら出来る芸当なんですよねェ。何かに挑戦してる人はつまんないなんて、絶対考えないもんですよ。鹿沼氏みたいなガチのシゴデキは例外かもしれませんが」
俺は須藤へ目を向けた。須藤はビッグドーナツみたいなデカすぎるチャーシューを幸せそうに頬張っていた。そしてそれを咀嚼して飲み込んだ。
「だから僕は毎日、時枝氏が羨ましく思っていますよ」
魔境である本社の管理部門。その中でも須藤はピカイチのレベルであり、成長を遂げたであろう今の俺ですらその実績には程遠かった。
何をやらせても、何を話させても、須藤は一切隙も振れ幅も無い安定感がある働きをする男だった。うーさんが居ない時は必ず須藤の動きで学びを得てきた俺からすれば、それは意外過ぎる言葉だった。
「俺は、須藤がいつも羨ましいよ」
「無いものねだりってやつかもしれませんね~ハハ」
俺は既に八分目の満腹感を覚えていた。丼をゆっくりと見下ろすと、まだ半分以上残っている光景があった。この丼の中身は減らない魔法でも掛かっているのではないか、と俺は思った。
次回EP以降の投稿は、毎日二時二十分となります!
どうぞお楽しみに( ・ω・)ノ
今気づいたんですがこのEP、ラッキーセブンですね。(?)




