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第75話 渚

あの出来事から1年後くらいの、春のある日。


ヒロと渚は、車で海に来ていた。夕方の空は向こう側から少しずつ焼かれていき、徐々に影が大きくなっていく。

いつも渚からヒロを誘うことで行われるデートだが、今回はヒロの方から誘っていた。


今日、渚にプロポーズする。ここで。


その為に来た。


2人とも裸足で波打ち際にやってきて夕日を眺め………渚が子どものようにバチャバチャとはしゃいで笑いかけてくるのを、ヒロは息を呑んで見つめていた。


そんなヒロの緊張も知らず、渚は眉の上に手をかざして海を見ながら、後ろにいるヒロに聞こえるように叫ぶ。


「見ろ。エビがいっぱいいやがるぜ。おれには見える」

「見える訳ねえだろ。何を言ってんだお前は」

「おれはおめーの胃袋をエビで満たすために生まれてきた。今日のメシはエビのてんこ盛りだ」

「海老は好きだけどさぁ」


心底楽しそうに笑って振り向いた渚。

長く伸ばした黒髪と、黄色のワンピースの裾がふわふわと靡いていた。………そしてその目には、高校時代使用していた眼鏡が掛けられている。


ハジメとの1件が終わった後、渚は髪を黒く戻し、コンタクトではなく眼鏡になった。

そして、何ももう怖くないというように笑ったのだ。


勿論、茶髪だったあの頃の渚はあまりの可愛さに毎日心臓がもたなくなりそうになってはいたが………。今の渚を見ていると静かに気が高揚し、胸が暖かくなる。

いつまでも傍にいて欲しいという思いが強く、強くなっていって、どうしようもなく惹かれていく。


ただ相変わらず、変なことを言う癖は残り続けているようだ。


「というか、海の水冷たすぎだよー!」

「海水は春が1番冷たいらしいよ」

「まあ、私の心はホッツ………だから関係ないですけど」

「そっか」


ヒロは渚とじゃれ合いたくなり………波を蹴った。めくれ上がった波は力の流れのままに、飛沫となって渚のワンピースに降りかかる。

一瞬驚いた顔をした渚は、即座に眉を釣りあげてヒロの顔を睨み、


「やりやがったなーーーー!」

「うぉぉぉぉあやべぇぇ!ごめんごめんごめん!ごめ!あーーーーっ!」


渚によって全身をびちゃびちゃにされたヒロは、白目を剥き疲れ果てた様子で、虚しい砂の音を立てながら砂浜に座り込んだ。


足を崩して座り、参ったというように顎を上げるヒロのすぐ隣に、渚もちょこんと体育座りで座った。渚は何ともない表情をしており、やり返せてせいせいしたのかどうなのかはよく読み取れない。


2人並んで、目の前に広がる無限大の海と夕焼けの空を眺める。


「なんかもっとさ。キャッキャウフフな感じで掛け合うんじゃないのこういうのって。何でそんなにガチなんだよ」

「…………」

「あの、なんか言って?」


静かな波の音が、遠くで聞こえる。ヒロ達以外に周囲に人はいないのもあり、波の音は静けさを強調していた。


びちゃびちゃになったシャツを雑巾のように絞るヒロに、渚は感嘆のため息を漏らしながら、


「ヒロに誘ってもらえるなんて嬉しかったー!どういう風の吹き回しなのかな」

「んー?さぁなー」


人生2度目のプロポーズ。


今度こそ成功させたい。


「私ね?ヒロの事、ゲームを教えてもらったあの日から好きだったんだー」

「あの頃は分からなかったけど、今にして考えるとそうだったんだろうね」

「ドンカンやろーだな?」

「はい。すいません」


渚はスマホを取り出し、海の写真をカシャカシャと撮り始めた。


「んー。おれが育てたエビ、美味そうだなぁ」

「どこに映ってんの。なあ。どこに映ってんだエビがそん中に」


スマホについている、大きな犬のストラップが海風でカチャカチャと揺れた。


「いつか私達は死ぬじゃん」

「どうしたの突然」

「どうしても先のこと考えちゃって。ヒロは私の事看取ってから死んで欲しい」

「はは。出来たらそうするよ」

「うん……」


渚はヒロに身を寄せて………体操座りのまま、軽く身をあずける。


「ヒロのこと忘れたくない。ヒロとの思い出、全部全部忘れたくない。おじいちゃんおばあちゃんになっても、死ぬまでも、死んだ後も、ずっと」

「いっぱい思い出作ればいいだろ」

「そうだけどさ……」


渚はぐすっと涙ぐんで、笑った。


「何考えてるんだろう?馬鹿だよね、私」

「馬鹿なんて事ない。だけどどうしたの?ほんと」

「今が幸せすぎて、怖いの」


渚は寂しそうな声色で思いを話し出した。


「社会で色んな大人見てるとさ。皆、自分の人生を知らんぷりしてる気がして。何か大事なものを失ったから、機械のように働いてるのかなって。いつか、私もああなるのかなって。例外なく人は皆死ぬし。死んだら、もう全部終わりなのかな?ヒロに、天国でまた会えるかな?」


渚は海を見つめながら、涙ぐんで想いを紡いだ。


良くも悪くも生に執着が無かったけど、確かに渚と別れる事になるのは辛いな……。そんな事、深くは考えたこと無かったな。


2人の間に、静寂が訪れる。

響き渡るのは波の音だけだった。


やがて渚は暗い表情で、


「ヒロにはめんどくさい思いさせて来たよね。きっと。私って、めんどくさいからさ……」

「そんなことないよ。ほんとに」

「死んだ後に行く先が天国でも地獄でも、ヒロから離れたくない。私達、ずっと一緒にいられるよね…?ずっとずっと。永遠に」

「永遠?一生じゃなくて?」

「永遠に」


永遠という言葉はあまりにも漠然としていて、だけど………身近なものではない事は確かだろう。20年そこらしか生きていない俺達は、まだその一生の長さすら知らないのだから。


何て言えば、渚は安心してくれるんだろ。

難問だ。



俺はずっと渚のそばにいるよ。



どんなに歳おいても、俺達は変わらず一緒だよ。



俺も渚がいなくなったら寂しいよ。



やべぇ。

いくつか考えたけど、全部渚が求めてることと違う気がするんだよなぁ。


どうしよう。


俺は人の感情に敏感に気づけることだけが。

人の役に立つことを考えて出来ること。

それだけが取り柄だった。


でも………俺は渚と一緒に、変わったんだ。


頑張るのをやめたとしても。………世界は、ありのままの自分を受け入れてくれるんだって。


「ヒロの為だったら、私、何でも出来るよ」

「何でも……」

「ねぇ……。私、どうしたらいいの?」


渚は体育座りをして、首を横にして俺を見つめた。


渚…………。


「何もしなくていいし、何も考えなくていいよ」

「へ」

「″ただただ″、俺の隣で最後まで生き抜けばいい。いや………。俺の隣で″ただ生きろ″。渚」


ヒロは膝を抱えている渚の手を取ると、ポケットに入れていた箱を取り出し、指輪を嵌めた。


渚はそれを、心底驚愕の瞳を見開いて、目を輝かせて見つめた。


「ふえ」

「結婚しよう。渚」

「え………あ………はい。します」


渚は返答し………目を見開いて指に嵌められた指輪を見て、固まってしまった。


渚が俺との会話で言葉を失って固まるのは珍しいから、ちょっと面白いな。


俺は渚のおでこを、麦わら帽子越しに指先でつっついた。突かれた渚は慌てた表情で、崩れた体制を2つの腕で支える。


「きゃあ」

「愛してるよ。渚」


渚は俺の目を見ると、ぶわっと泣いて、両手で顔を覆って大泣きしてしまった。


「私もヒロを愛してる!!愛してるよ………。私、あの日ヒロに出会えなかったらきっと、灰色の人生だった。ありがとう。ヒロ、ありがとう。出会えてよかった。心からそう思ってるの………!!」


肩を震わせて大泣きする渚を、ヒロは優しく抱きしめた。


2人を見届けた太陽はやがて、その姿を隠そうと沈んでいく。夜の闇が、ほんの少しこちらを覗いていた。


俺はちゃんとあの日誓ったんだ。

渚を幸せにするって。


支えてくれた渚を、今度は俺が支えるんだって。


上手く出来るのかは分からないけど。


行き先が天国でも地獄でも。

生まれ変わったとしても。


俺はずっと、渚と一緒だ。






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