第70話 人を変える力
血の表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
小圷邸。
ゲームをひとしきりプレイした渚。どれだけ夢中になろうとも、ヒロのライヌチェックは欠かさない。アプリを一旦タスクキルし、ライヌを開く。しかし、ヒロからの連絡は返ってきていなかった。
うーん。忙しいのかな?
もうこんな時間なのに……。
外で何が起きているのか知る由もなく、退屈で仕方がない渚。再びハジメから送られてきたURLをクリックし、リアルタイム配信画面をチェックする。
そして………
「…………………え?」
画面に映っていたのは、男性5人に囲まれて仰向けに倒れ、気を失っているヒロの姿だった。
何!?これっ!?
ヒロは見るも無惨に鼻と口から流血し……それを、ハジメが見下ろしているのだ。
チャットやコメントを送る機能すらないそれに腹を立てて、思わずスマホを壁に投げそうになった渚。しかしそれを堪え、ハジメに電話を掛ける。
…………しかし、何コールしても、何回掛けても、ハジメは電話に応答する気が無いらしい。
渚はもう、何も考えることが出来なかった。悲しみの滲んだそれを目からぼたぼたと音を立てて零しながら、眉に明確な怒りを秘め、部屋の扉を勢いよく乱暴に音を立てて開け放ち、目の前に立っていたエージェントに、感情のままに言い募る。
「車出してっ!」
「は。お客人。どちらへ行かれるのでしょうか」
「ハジメのとこに決まってるでしょ!!」
ハジメの居る場所へ向かうために、エージェント数名を引き連れて車を出させ、急行する渚。顔は青ざめて目が白黒し、泡を食い散らかして、芯から凍えるような悪寒に苛まれる。
ヒロ。ヒロ。ヒロ。ヒロ。ヒロ。ヒロ。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
私が悪いの。
ハジメなんかと関わった、私のせいで。
その時…………スマホが震えているのを感じて手に取ると、ハジメからの着信だった。
「ハジメ!!何であんな事してるの?ヒロに乱暴しないで!」
「どうして?楽しんでおくれよ。それに……僕は君を逃がさないって言っただろ?」
「は……?」
「言っておくが。警察に通報しようものなら君もただじゃおかない。もう君は僕のものなんだから」
それだけ言い終えて、無慈悲に電話を切ったハジメ。愕然とした渚はスマホを手から滑り落とし、本能が精神的ダメージを軽減しようと、感情を無へと導こうとするが………
事象への怒りと同時に、どうしても不可解さが拭えなかった。
『渚さんと一緒なら何でも出来そうだよ、僕』
どうして………?
そんな事する人じゃないって、当たり前のように思ってたのに。
分かんない。分かんない。分かんない。分かんない。分かんない。分かんない。分かんない。分かんないよ。
ヒロが死んじゃったらどうしよう。
そしたらもう、私。
砂になって消えそうな自分の身体。今にも風に吹かれそうな命の灯火を感じながら………渚は力なくシートに寄り掛かり、思考を停止した。
そして渚の感情を察してくれたかのように、エージェントは車のスピードを上げ、勢いよくハジメ達の場所へ近づいていくのだった。
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本社、管理室。
基本的に既に全社員が退勤済みで会社は真っ暗のはずの時間だが、この日は全社にしっかりと明かりが灯っていた。
募る焦燥のままにヘッドホンをデスクに叩き付けて、ブレザーを羽織り、ただ事ではない表情で勢いよくデスクを立ち上がり出ていこうとするのはうーさんだ。
「おい。どこ行くんだよ」
「ひーくんの所以外無いですっ!絶対許せません……まさかこっちを狙ってこないなんて。ひーくんは電話出てくれないし」
「鳴上、須藤、柳とは連絡取れたのか?」
「取れてたらとっくにここに呼んで匿ってますよ……。3人とも、緊急連絡網で電話繋がらずなので警備員使って捜索中です。まさか予定が1日早まるなんて、思うわけ無いじゃないですか!」
当てが外れたというように叫び、力強く床を踏み歩くうーさん。しかし、
「ダメだ」
その隣に深くもたれかかるように座り、デスクの上に雑に足を乗せ、柳から貰ったペロペロキャンディを齧っている葛木が制止する。
「ダメだ」
「何でっ!ていうか何で2回言ったんですか?」
「2回言わねぇと今にも行きそうだっただろうが!ったくよぉ………」
「わたしに行かせて下さい。わたしの最優先はひーくんなので」
「ガキみてぇな事言うなよ。ここのセキュリティ全把握してるお前が残れ。時枝んとこは俺が行くわ。どうせあいつの狙いは俺なんだから」
うーさんの肩をポンと叩いて、管理室を出ていこうとする葛木。
「警備員は配置してんだろうな」
「それは抜かりない、ですけど」
「おん」
確認したいことだけ確認し終え、さっさと去っていこうとする葛木の背中を、うーさんは拳を握って見つめる。
どう考えても確かにそれが最善であると、うーさんも頭でははっきりと理解していた。その背中を見て……うーさんは絞り出すように、納得出来ない心を吐き出すように問いかける。
「何でそんなに落ち着いてられるんですか?………最悪、わたしたち今日、死ぬかもしれないのに」
「お前とは経験が違ぇんだよ。命の危機だの、会社が消し飛ばされそうだの。そんなもんは神松といくらでも対処してきてるワケ」
「警察に頼らない理由って、何かあるんですか?察したフリして、分かってないです」
「やましい事の一切無い会社はねぇ。会社である以上はな。特にうちは規模がでけぇから、グレーの書類も山のようにあるんだよ。散った火花がトリガーになって、痛ぇところ目掛けて調査なんざ入りゃ全部パーだからな」
答え、ホントにもう行くぞと言わんばかりに立ち去ろうとする葛木の後頭部を、鼻をすする音が貫いた。
葛木が振り向こうとするよりも先に………走り寄ったうーさんが、思わず葛木が足をもたつかせる勢いで、その背中を抱擁した。スーツにシワが出来そうな程の力加減と、背中に、その大きな胸が潰れる程押し付けられる感触に………葛木は顔を顰める。
「おい………ふざけんじゃねぇぞ。こんな時に」
「わたし知ってるんです。ほんとは奥さん、死別してるんですよね?」
振りほどこうとした葛木の手がピタリと静止して………うーさんは背中に頬を押し付けながら、笑みを浮かべる。
「激重ストーカー女が」
「はい、呼ばれました。毎日お酒とパチンコに明け暮れて、お休みは雀荘とキャバ通い。………ほんとは、死ねる理由を探してるんじゃないですか?」
「チッ。てめぇ何を知ったように……」
「知ってます。『吸わないとやってらんねぇくらいすり減らして生きてる』事も、ちゃんと知ってるんですよ?」
「…………」
「困りますよ。死ぬならわたしとひーくんを最後まで結びつけてからにしてください。1人にしないで」
背中に抱きついて頬を当てたまま、冷たく、静かに諭すような口調でそう零したうーさん。それを受けて、何かを考え込むように前を見たまま黙り込む葛木。
2人はしばらく無言になった。
そして葛木は深い深い溜息を吐いて振り返り、すっ転んで怪我して泣き喚く子どもを見るような瞳で、きらきら輝く目に涙を浮かべてこちらを見上げてくるうーさんを見下ろす。
「こういうのはな。いい子にしてりゃまた会えんのがお約束なんだよ。そんな事も知らねぇの?」
「いつまでいい子でいれるか分かりませんよ。あと、悪い子にそんなの言われたくないです」
決してお互いに、目を逸らすことはしなかった。
やがて葛木はじれったそうに再び顔を顰めて、うーさんの腕をぐいっと引っ張り寄せた。
管理室は無音に包まれて、………やがて聞こえてきたのはリップ音とくぐもった吐息、何かをまさぐるような音だった。
しばらくするとお互いに1歩引いて、滴る唇を拭うと、うーさんは心底呆れたような表情で、
「………煙草臭っ。流石に吸いすぎですよ」
「煙草吸う為に生きてんだよ。ワハハ。………つーかお前、いいわけ?」
「いいんですよ。言ったじゃないですか。わたしの初めてはもう、名前も覚えてないような子に無理やり全部取られちゃったって。勘違いしないでくださいね?わたしは葛木さんを利用してるだけですからっ」
仁王立ちして顎を上げて瞑目し、自慢げに、得意げに言い放つうーさん。
葛木はそれに対しては何も言わずに考える素振りを数秒見せた後、管理室の扉に手を掛けた。そして1度振り向いて………
「お前がめちゃくちゃ良い女に育ってくれて、お父ちゃん嬉しいわァ」
「うるせーっ!この腐れパチンカス!絶対生きて帰ってこいっ!」
性格の悪そうなニヤニヤとした笑みを浮かべて冗談を言い、普段通りの笑い声を上げる葛木に、うーさんは目をきゅっと瞑って、ちろりと舌を出して見送った。
そして1人残され、引き寄せられた時にぎゅっと握られたまだ温かい左手を見つめ、
良い女。
言われた言葉が頭の中で反響して、うーさんは頬を赤らめ、その左手を口に当てて、潤んだ恍惚の瞳を下げた。
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ヒロの元へ向かうため暗い本社を出た葛木は、本社前を彷徨いていた柳、能間とすれ違った。葛木は荘厳の雰囲気を漂わせる能間に深々と、膝を舐めそうな程にその頭部を下げる。
「お、柳じゃねぇか。…………!? これはこれは!能間さん!お久しぶりです。まさかこんな所でお会い出来るとは」
「くずっち。よかった、あえて」
「久しぶりだね、室君。小鳥のようだった貴方が今や偉くなられたものだ」
「まだまだヒナみてぇなもんです。それに、能間さんから教わった事を実践してきただけですよ!」
腹から笑い声を上げて、本当に嬉しそうに笑みを浮かべて、能間と仲良さげに肩を組む葛木。
葛木は管理職時代から仕事帰りに能間のバーに立ち寄ることがあり、その度に相談して仕事のイロハを身につけてきたのだ。
「鹿沼に情報を仕入れてくださった件。感謝します。奴らがまさか予定より1日早く動いてくるとは、予測もつきませんでしたよ」
「力になれて良かった。だが……たまたまに過ぎない。私のネットワークも完璧じゃないからね。くれぐれも警戒を怠るなよ」
「もちろんです。護衛もおりますので、2人とも社内に居られては如何でしょうか。今日の状況をご存知ならば、屋外が安全でないのはご存知でしょう」
「ありがとう。だが、気持ちだけ受け取っておくよ。私も仕込みがあるものでね。明日辺り、私の体液を飲みに来てくれ」
「おお、そうしようかなァ〜。一滴残らずイッちゃいますよハハハ!」
「ふたりとも、とてもきもいわよ」
冗談で笑い合う3人。
ハジメ達の動きを葛木達が辛うじて予知したのは、能間のネットワークにより入手した情報をうーさんへ緊急で伝達された事によるものであった。
しかしそれは定時を過ぎてからの話であり、ヒロをはじめとした関係者達を会社に呼び止め、保護する事は出来なかったのである。
「柳………。お前なんで電話出ねぇんだよ」
「そんなひまなかったわ。それに………ひろしとあきっちが」
「………ウチがキャッチしてたのは時枝の情報だけだ。須藤もか?」
柳は須藤の状況を説明した。倒れたままの状況だった須藤をマリーが発見し、人を呼んで救急に掛け合っている最中だが、何故息絶えていないのが不思議な程の出血量であり、この後の治療で1秒でも遅れを取れば息絶えてしまう極限の状況だという。
なお、鳴上はまだマリーの目をもってしても未だに見つけられていないらしい。
「わかった………。奴らはかなり動きが早えし、ウチに来るのも時間の問題ってとこか。そしたら、須藤の状況後追いはお前に任せた。鳴上は………ほっといても大丈夫だろ。あいつは。時枝の所には俺が行ってくる」
「…………くずっちが、じきじきにいくの?だめよ!わたしがいくわ」
「ダメだ。お前は身を隠せ。……ったく、いつまで経っても手間かけさせる部下共だよな。あいつら。鹿沼も居るし、柳は早く会社に入っとけよ」
「じゃあ……ようがすんだらすぐにいくわ。くずっち。ぜったい、むちゃはしないでね」
「する無茶なんかねぇよ。最近なんか、腰痛ぇからよ。つか………お前こそ、くれぐれも今晩は気をつけろ。そんじゃ、明日な」
前を真っ直ぐ見て歩いていく葛木、遠ざかっていくその背中を見送った柳と能間。
吹く風を感じながら………柳は神妙な、茶化すような顔つきで、すぐ隣にいる能間を見上げる。
「もういったよ。あえてよかったね、りりっち。………ほんとに、すなおじゃないのね」
能間はその頭髪をおもむろに掴むと、『それ』を勢いよく引っ張った。顔面が、目が、口が、鼻が潰れ瞬く間にひしゃげて、肌が皺になり引っ張られ…………下から、『本当の顔』が姿を現した。
「わたしのめをあざむいたひとはあなただけよ。………それ、むだにすごいぎじゅつだとおもうわ」
長い1本結の髪に、冷酷そのものの瞳。
ポケットから取り出した眼鏡を掛けると………そこに居るのは、紛れもなく神松そのものだった。風に髪を揺らし、葛木が去って行った先を何も言わずにただ、無機質に、何の感情も伴わぬ瞳で見つめていた。
「もうひとつじんせいがあるのはつかれない?」
「当然疲労するが、案外趣の深いものだ。そもそも人生が一つだなどという道理は存在しない」
「だいすきなぶかがふたりとも、りっぱにそだってくれてうれしい?」
「下賎な者が立派になることはまず有り得ないが、立派な者が下賎に成り下がる事象は世界の至る所で頻繁に起こるものだ。葛木と鹿沼にはまだそれを確実に除ける力は備わっていない」
「あらごねっしん」
「だが私も、彼らの面倒を見続けるには限界がある」
「どうするの?」
数秒、手を顎に当てて考える素振りを見せる神松を、柳は楽しげににこにこと笑って見上げる。
そして………神松はやがて顎に当てていた手を下ろし、葛木の去っていった闇の先を見つめたまま、
「時枝 広志。彼次第だ。私に代わり、彼に2人の面倒を見てもらわねば困る。世には彼の価値を理解出来ない者が多すぎるが、彼には間違いなく………人を変える力がある。彼の存在によって人生が変わった人間が、多く存在している」
神松はそこで言葉を切り、どこか懐かしそうに、名残惜しそうに本社ビルを見上げてしばらく見つめ………その瞳と口は、不気味に吊りあがった。
「もっとも、今日無様にここを吹き飛ばされようものなら全て終わりだがな。ククク………」
「りりっち……。せんじつのけんにかかわってるいじょう、わたしもあなたもかんけいしゃ。これいじょうそとにいるのはあぶないわ。もくてきをはたしたし、もうかくれましょ」
柳と神松はバーの仕込みをする為に、夜に溶けて消えていった。




