第67話 もはや罪かもしれないね
″ぱる″、事務室。店長の土井は渚が独りで仕上げた新メニューの考案書に目を通しながら、難しげな表情で何度も頷き、舌を巻いていた。
そして、渚はそんな店長を呆れと不可解の混じった表情で見つめている。レシピに重大な価値がある業界であることを理解していながら、店長はその仕事を渚に丸投げしていたのだ。
「何でいつも手伝ってくんないの?」
「渚くんに任せておけばイチコロみたいなとこあるからね。いつもありがとう!助かるよ。……あ!そろそろ行かないと」
渚のジト目を置き去りにし、いそいそと、わざとらしく忙しそうな素振りで出ていこうとする店長と、事務室に賄いを持って入ってきた芽瑠が無言ですれ違う。
すれ違いざまの店長の表情は分からないが、芽瑠の店長を見る目は刺すように冷え切っており、決してそこに良好な関係性を想像する余地は生まれない。
渚のもとへ歩み寄った芽瑠ははにかんだ笑顔で、賄いのペペロンチーノを接客マニュアル通りの要領で丁寧に机に置いた。
「渚先輩。リクエスト通り、ナスを多めに入れておきました」
「ありがとー。あ。やっぱりこの香り好きかも」
ふふ、と渚に向けて微笑んだ芽瑠の眼差しには、尊敬の色が濃く内包されていた。渚はそんな眼差しを受け取りながらも一旦脇に置いておき、目の前のペペロンチーノを1口2口と啜っていく。
「あの……」
「んむ?」
「私も昼食なのですが……ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「いいよー」
考えあってかそうでないのか想像させないが、何の迷いも無く頷いた渚に、芽瑠は瞳を輝かせた。同じナスのペペロンチーノのお皿を持ってきた芽瑠が渚の隣に座り、嬉しそうに食事を始める。
「ねー。芽瑠」
「っ。はい」
「『君が居なくなったらもう僕は生きていけない』ってさ、どういう意味だと思う?」
「!?」
聞いただけで鼓動が早まりそうな、甘さと切なさを帯びた言葉を突然聞かされた芽瑠は、戸惑いあわてふためきながら渚を見つめて、ペペロンチーノで膨らんだ頬を赤らめる。
「そ……そんなのもう。告白ですわよっ!告白に違いありません!」
「うーん。やっぱりそうなのかなー……」
「ヒロさん、聡明で慎重そうな印象でしたけど言う時はちゃんと言われるのですね……!やっぱり男の人ですね」
「ううん。言ってきたのは友達」
友達って言うのかな?あれ。何ていう関係なの?
渚は芽瑠の驚きの目線を向けられながら、自分自身の言葉に首を傾げた。
「えっ!?どんな方なんです?」
「んー……。雰囲気はちょっとだけ遊び人ぽいけどかっこいい。頭凄く良くて、強くて、口も上手い」
「……………それ、どうされるおつもりなのですか?」
渚を真っ直ぐに見つめてそう問う芽瑠の表情と声は、字面でどうも良い印象を抱くことが出来なかったらしく、どこか不安を滲ませているようだった。
対して渚は『考えるまでもない』というように、
「どうもしないよ。私が好きなのはヒロだけだもの」
表情のひとつも変えずに言い切り、ペペロンチーノを丁寧に巻いて口に運んだ渚。芽瑠はいつもと何も変わらない、渚のあっけらかんとした態度と言葉に安心したように瞑目し、息を吐き出した。
「良かったです。渚先輩とヒロさん、すごく似合うなって思いますし」
「ほんと!?いい事言うじゃん!」
「ほんとです。ヒロさんは散々なくらい無礼な態度を取った私を、寛大なお心で許してくださいました。そのおかげで、渚先輩に謝罪する機会を得られたんです。そんな方、そう出会えないと思いますし………それに」
言葉を切った芽瑠の顔を、渚は瞳をきらきらさせて無我夢中というように頷き、覗き込む。
芽瑠はそんな渚を、ばつの悪そうな笑みで見つめ返す。
「渚先輩はいつも自由すぎて、たまに少し、見てて危うい所がありますから。ヒロさんみたいな落ち着いた人が絶対いいです。絶対」
「えー?なんか私がお子様みたいな……。いいけど。85点にしてあげるー」
「かなりの高得点ですね」
「困ったらヒロに助けてもらうもん」
「それがいいと思いますよ」
安心したように笑ってお皿に目を戻す芽瑠を横目に、渚は思いだすように遠い目をして顔を上げ、天井を突き刺すように見つめていた。
小圷の手を握り返した、昨晩のことを思い出して。
『君が居なくなったらもう僕は生きていけない』
聞こうか迷ったけど、聞けなかった。
あれはどんな気持ちで発した言葉なんだろう。
想いを赤裸々に伝えた相手だからだろうか。
少なからず、ここ数日自分の中を渦巻いていた寂しさを取り除いてくれた人だからだろうか。
まさかあいつに情が湧くなんて思いもしなかった。
私と似てるって思った。
ヒロが居なくなったら生きていけないから。
その気持ちが、心が引き裂かれたように痛くて、涙が出そうなくらいによく分かってしまうから。
私が隣に居るだけで気持ちが楽になってくれるなら良いって、そう思った。
でも、なんだかなぁ……。
やっぱりどうしても取り繕ってる感と、どこか上辺だけな感じは拭えない。
2人が食事を始めて5分ぐらい経っただろうか。ふと渚と芽瑠は食事を中断した。事務室の扉を叩き入室し、2人の元へ足早に駆け寄った1人の青年コックが見えて。
「あの………草津さん。今よろしいですか」
「よろしいですかじゃないわよ。草津さんは今お食事をされているの。見て分からないのかしら?それに相談先ならチーフが厨房に居るでしょう」
渚は返答しようとしたが、それよりも先に芽瑠が青筋を立てながら青年を睨みつけた。
間髪入れずの強い語気に青年は気後れした表情を見せるが、自分ではどうにもならないのか退こうとはしない。
なおここで芽瑠の言ったチーフとは、銀バッチのおばちゃんのことを指している。
「め……芽瑠主任。申し訳ございません。ただ」
「ただ?何?」
業を煮やして立ち上がり、青年の目と鼻のすぐ前まで詰め寄る芽瑠。顔立ちは端正そのものだが、その気迫はその後ろにいる渚すら思わずしり込みしそうになる程のものだった。
青年は今にも崩れ落ちそうになりながら、声を震わせて答えた。
「草津さんをご存知と仰せの方がご来客で、挨拶をされたいと仰せなのですが」
渚と芽瑠は心当たりの全くない来客に、頭に疑問符を浮かべながら顔を見合わせる。渚に至っては約3年間この場所で勤め上げているが、このような事態は初めての一言に尽きるのだ。
誰だろう……?
ヒロ?ひより?でも、どっちも約束なんてしてないし。
角度を変えて、柳ちゃん!?
………………まさか、カヌーさんじゃないでしょうね……。
渚は想像して、何だか微妙な気分になり眉を垂れさげた。
「お名前は伺ってきたんでしょうね」
「はい。えっと……コワクツ?様という方でして」
芽瑠の問いに対する、青年コックの怯えたような躊躇い混じりの返答。
色々な可能性を頭の中で張り巡らせながらコーヒーを飲んでいた渚だったが、全く違う方向から現れたその名を聞いた瞬間にコーヒーを口から勢いよく噴射し、窓から差し込む日光によって虹が出来上がった。
「渚先輩!?大丈夫ですか!?」
「ごめん。ちょっと行ってくる」
自らの吹き出したコーヒーでびちゃびちゃになった床すらその目には入らず、渚は芽瑠の心配の眼差しを背中に浴びながら事務室を飛び出して、勢いよく玄関へ走った。
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厨房を抜けてホールを見渡すと、既に小圷は1人テーブルにつき食事の到着を待ち座っていた。
肘をついて顎を手に乗せ、優雅な佇まいでありながら、そこにはワクワクしたような笑顔が咲き誇っており、埃のひとつすらそのテーブルへの侵入を拒むかのような存在感をもつ美男子っぷりだ。
小圷のテーブルだけ、切り取られた別世界のようにすら周囲には映る。
他の客の視線も意に介さず、渚はズカズカと足音を立てて小圷のテーブル前まで歩み寄った。
「渚さん!…………んんー!可愛い!今日もめちゃくちゃ可愛いね」
「確かにここで働いてること教えたけどさ………来るのは違くない?」
「渚さんの顔を見ないと、もう何のモチベーションも出ないんだ。少しくらい許してくれよ」
八重歯を見せて無邪気に笑う小圷に、渚は額を抑えて目を瞑り、呆れたようなため息を吐いた。
しかしそんな怒りを滲ませる渚の様子すら、見つめ微笑む小圷の瞳は楽しげだ。
「何時に終わるの?どうせパーティーは明日なんだから、今日は僕の家に泊まったら?」
「嫌。さっさと帰って」
無慈悲にそう言い捨てた渚は踵を返し、何事も無かったかのように業務を再開したのだった。業務中何度か小圷から電話とライヌが入ったが、全て無視した。
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定時となり″ぱる″を出て、息を切らしながら早歩きで自宅へ向けて歩く渚の表情には、明確な嫌悪が滲んでいた。
玄関を出た先に、また小圷が待ち構えていたのだ。
手を振りこちらを見ている小圷。その気さくな笑顔が、大いに渚の不興を買った。
『ストーカーなの?あんた』
『待ってよ渚さん。僕の話を聞いて。あと、せめて帰り道は一緒に』
『いや!』
慌てて何かを主張しようとする小圷だったが、渚はふつふつと沸騰するように込み上げる不快感を露わにしてそう叫び、今年1番のエネルギーを使って全力で走り逃げ出した。
大地を蹴り飛ばし、汗をかき、息を切らし、髪を振り乱して、後ろを振り返ると…………
流石に小圷が追いかけて来ている様子はなかった。
どんだけ私と話したいわけ?
明日、理由つけて行くのやめよっかな……。
ふとここで渚は今日、ほとんどスマホを見ていないことに気づいた。
ヒロに返信しなくちゃ。
私としたことがヒロへの返事を遅らすなんて、とんだ失態。そう言わんばかりに確認しようとし、ポケットに手を入れまさぐった時だった。
「嬢ちゃん。ちょっといいか」
脊椎を舐め上げるような、少し嗄れた声。振り向くと………『平均的』というのが第一印象の中年のおじさんが、渚を真っ直ぐに見つめ、悪巧みを秘めたように頬を吊り上げていた。
渚はその男が誰なのか、一見した瞬間に理解した。
ヒロと電車を乗り過ごし、呼んだタクシーに乗っていた運転手………石寺だ。
理解したが故に背筋が凍りつき、心臓が飛び散ったように痛くなり、思考は強制的にシャットダウンした。
石寺は手に持っていたスマホを横にして、画面を渚に見せつける。
「これをばら撒かれたくなかったら、大人しく俺についてこい。悪いようにはしないさ」
「…………」
「逃げてもいいが……もし逃げれば、これをこの街の人間とさっきのお前の労働先、インターネットにも流してやる」
汚い薄ら笑いを浮かべ、無慈悲に言い放った石寺の手の中に映し出されるのは、紛れも無くヒロと渚。
雨宿りしていたバス停の中で行われた行為が、そっくりそのまま、滑らかな2Dで流れ出す。
頭が真っ白になった渚は、目の前の状況をどう脱却するか考えるために頭をフル回転させた。真っ白故に回転した脳は痛烈な音を上げて空回り、何も善処出来る道を見出せない。
そして。
「っ!おい!」
踵を返して再び地面を強く蹴り、再び走った。逃げた。
唇を噛み、身体中の血液を足に集中させ、手足が引きちぎれそうな程の力で風を切り、全身全霊で走り出す。先程の小圷からの逃走とは比較にすらならないほどの覚悟を携えた、魂の全力疾走だった。
逃げる。逃げる。逃げるに決まってるでしょ!??
ヒロと一緒に、どこかに逃げちゃえばいい。
どうせ私は陰キャで友達もろくにいないし、社会的な抹殺なんて関係ないし!!
そんな動画、勝手に見たらいい。
あんな男に捕まって、好き勝手されるくらいなら。
ヒロだって分かってくれるはず………!!
しかし。
…………すぐに追いつかれた渚は背中から強い力で羽交い締めされ、口を布で抑えられる。
決死の思いの全力疾走をあっさりと打ち破られた渚は、思わず目を白黒させた。振りほどこうと、決死の力で腕を、身体を、足をばたつかせてもがくが………羽交い締めする力は強く、振りほどくことは許されなかった。
そんな。嫌。
気持ち悪いから触らないで。
いやっ…………!いやーーーーーーー!
一度決死の覚悟を決めた渚の力はまさに火事場の馬鹿力であり、信じられないほど強かった。きゅっと目を瞑って口を大きく開き、唇の感覚で布越しに石寺の指を探し当て、口を覆うその指の皮膚を、布ごと引きちぎりそうな程の力で噛みついた。
「ぐっ…………!?このっ……!」
「××………!××××………!」
一般男性に一矢報い、逆鱗に触れてしまう渚。石寺も必ずやり返してやろうと言わんばかりの表情で更に強い力を出し、羽交い締めを片腕だけ解除して渚の首を掴み、締め上げて気絶させようとし始める。
すぐそこに迫った生命の危険に、渚の火事場の馬鹿力はその威力を増した。拘束解除された方の腕で石寺の腹を連続で殴りつけ、鈍い音が何度も周囲に響き渡る。
しかし、中々石寺の力は弱まっていかなかった。
やがて目から水滴を零しながら、胃から込み上げる変な空気が口から這い出ていき、生命が風前の灯火になっていくのを感じた。
その時だった。
頭の後ろから音が聞こえた。とてつもなく重たくて硬いものが高いところから落ち、柔らかく質量のある肉に着地し、弾けて中の水滴が飛び散るかのような、鈍く、明らかに人から聞こえてはならない音だ。
渚が振り向くと……………
ポケットに手を突っ込んだままの小圷が、その長い足を天に突き刺そうとするかの如く伸ばし………冷たい靴底が石寺の頬を完璧に捉え………衝撃に石寺の身体は軽々と吹き飛ばされて、ジェットコースターのような勢いをつけて向かいの塀に激突した。
紅の液体を口と鼻から流したまま、痙攣して動かなくなった石寺を見つめて、小圷は生ゴミでも見るかのような瞳をぶつけた。
「はぁ………。君ほどの可愛いさを持つというのは、もはや罪かもしれないね。ねぇ?渚さん」
細身でありながら強烈なパワーを見せた健脚をゆっくりと下ろしながらそう言い、若干呆れ顔で振り返って渚を見つめる小圷。彼はポケットに依然として手を突っ込んだまま、息のひとつすら乱していなかった。
振り乱れた髪も服装も整える間もなく呆然と立ち尽くす渚は、呆然として小圷を見つめていた。
そして小圷の言葉に、ようやく助かったのだという安堵感が込み上げて………渚の目から涙がボロボロと溢れ落ち、その場にへたり込む。
「こいつが明らかに怪しいと思って、今朝から目をつけていたんだ。そばにいて本当に良かったよ」
「そう、だったんだ………。ありがと……小圷君。私、本当にどうなるかって」
「あぁ、お礼なら構わない。僕が好きでやった事だし、君はもう危なっかしすぎて安心して見てもいられないから、今日から護衛を付ける事にするよ。集合しろ」
集合?
その瞬間即座に、小圷と、その目の前の女の子座りでへたりこんだままの渚を、漆黒の壁が取り囲んだ。
「え………。この人たちって、もしかして」
「まぁ、僕の子分だと思って貰えればいい」
ざっと見て、10名程いるだろうか。その全員が黒いスーツにサングラス。逞しい体格をしており、色はないが引き締まった表情で統一されている。
何かの逃げる番組で昔見た事あるかも……と、渚は呑気に考えて息を呑んだ。自分が刺されかけて鳴上に殴り飛ばされた、筋骨隆々の男もそこに混じっていたのだ。
「みな戦闘訓練を受けた、高い技術と体力を持つエージェントだ。嫌な思い出が蘇ったら許して欲しい。彼らは僕に忠実だから、当然今後渚さんに危害を加えることは無いよ」
「…………」
「渚さんの私生活は今後、護衛の為に彼らが後ろについてくると考えてくれ。心配しなくても渚さんの生活を決して邪魔はしないし、有事以外は視界に入らないよう注意もする。こういった事態にはしっかりと備えないといけないからね」
小圷が行け、と一言言うとエージェント達は瞬く間に散っていった。
再び、唐突に、小圷と渚の2人だけがその空間に残る。
はぁ………まさかこんな事になるなんて。
行動が監視されるのは正直嫌だけど……さっきの恐怖をまた味わうよりマシかも。
「怪我してない?痛いところは?」
「ううん。大丈夫………ありがとね」
「うちに寄っていきなよ」
「うーん……。まぁいいけど。寄っても」
小圷と肩を並べ、帰路をゆっくりと歩いていこうとする渚。
その時。
「ん?」
何の気もなしに、小圷はそれを拾い上げる。
渚はそれに気づいて、大きく目を見開いた。
「ま………待って!それは!」
身体が上手く動かず、再びへたりこんでしまった。
小圷が拾い上げた石寺のスマホに流れ続ける、ヒロと渚の混沌。それを、1寸足りとも目線をブレさせずに眺める小圷を見て………渚は先程とは違う意味合いで心臓が弾けそうになり、頭がおかしくなりそうになった。
み、見られちゃった………。
小圷君に、私達の動画が………!
あ。え?どうしよう。私どんな顔して話したらいいかな。っていうか。え?嘘でしょ?
もしかして……さっき、おじさんに大人しくついて行った方がまだマシだった?
渚は小圷の瞳から目を離せなくなった。『新しいオモチャを見つけた少年』のような鈍い輝きを放つ、小圷のその瞳から。やがて舌なめずりをし………黒い笑みを浮かべて渚を見下ろした。
嘲笑的で黒い瞳に脊椎を貫かれた渚は……屋外で刺激されてはならないスイッチを深々と押し込まれ、全身の毛穴から恥辱を吹き出し、
「『やっぱり』渚さんって、こういうのが好きなんだね」
「…………」
甘くて脳が痺れる動悸に身を預けるがままに何も言えず、目の前にいる決して自分を逃がさぬ存在を、熱に潤んだ瞳で見上げていた。




