第66話 金で得られないもの
本社、廊下。
うーさんとの会話を終えて、マッサージチェアから立ち上がり用を足してデスクに戻るヒロの足取りは、片足に鉄球を括り付けられたかのような重みがあった。
質の良いマッサージを受けたにも関わらずこの身体に発生している逃れようのない重みは、精神的な重みである。
今まで、ただただ癒しだったうーさんとの会話。
にも関わらず今歩くヒロの身体の中には、半ば強制的に引っ張り上げられたかのように、張り詰めた緊張の糸が今も弛む事がない。
こんなに緊張させられたのは想定外だった。数日会わないだけであんなに変わってしまうなんて。
どうにか、それを悟られないような顔作りをしていたつもりだったけど上手く出来たか定かじゃなくて。
そもそもそれ以上に………
わだかまりの無くなった友人を見れて嬉しい気持ちと、見る度に癒されていた可愛らしい蝶々が突然変異してマンモスにでもなってしまったかのような喪失感が調和することなく混ざり合い、今胸にあるこの感情は置いてけぼりを喰らわされ、どうにも普段の調子を取り戻すのに時間を要しそうだ。
「ずっと変わらずに居て欲しいなんて、ワガママ極まりないよな。人は変わっていくんだから」
頬に力を入れ、これまで通りの立派な笑顔を作り上げる。
泥の中に沈みゆく精神を引き摺り上げて、自信を醸せるように背筋を伸ばす。
HPは全快したのにMPは空になったような肉体を用いて、空元気をひり出した。前を向いて歩き続けなければならない、今この時を疎ましく呪いながら。
「ひろし!あぶなぁぁぁぁい!」
「え?」
切羽詰まった声が左耳いっぱいに響いて、その方向へ目を向けると………ヒロの視界は全て、白くてデカくてモフモフで、つぶらな瞳をもつ犬の顔面により覆い尽くされた。
「だぁぁぁぁあああーーーーー!?」
全てが逆さになった。地面と天井が代わる代わる、目まぐるしく映る。宙を浮いている。飛んでいる。
気づいた時には既に遅く、左半身に衝撃を受けて吹き飛ばされたヒロはやがて吹き飛んだ先の壁に勢いよく叩きつけられ、力なく地面に倒れ込んだ。
倒れ込み、ピクピクと痙攣するヒロの耳を、暖かくて湿った感触が撫で付ける。
見上げると嬉しそうに自分の耳を舐めるサリーと、その上に乗ってこちらを見下ろし、穏やかに笑う柳の姿があった。
「ひろし。げんきそうでうれしいわ」
「元気に見えます!?本当に?胸に問いかけてみてくださいもっと」
「さっきやすっちがかぜをおこしたせいで、かいしゃのしょるいがほとんどそとへふきとんだわ。ひろうのをてつだいなさい」
サリーはのそのそと動き出し、うつ伏せに倒れ込んだままのヒロの背中にのしかかった。そしてそのままヒロの背中の上でスフィンクス座りをし、キリッとした逞しい顔つきで前を見つめる。
「柳さん……?躾の仕方合ってます?これ」
「あたりまえよ。きちんとゆかにねるようにしつけたわ」
「当然のように床扱い!?」
本社の人員の3分の2が、屋外に散らばった書類拾いに動かされているのを窓から眺めるヒロと柳。柳は散らばった人々を見つめ、にこにこと笑っていた。サリーは柳の後ろで大人しく、荘厳な雰囲気で座っている。
「しあわせなじかんはとつぜんおわるわ」
「どうしたんですか突然……。微笑みながらナチュラルに恐怖煽るの辞めてくださいよ」
小柄で、いつ見ても中学生のように幼い。相も変わらず弾けるようにキュートな笑顔の柳を、ヒロは複雑な心境で見つめる。
サイコパスじゃなきゃ本当に可愛いんだけどな。
しかし………気が抜けていたはずのヒロの瞳には、真剣さが宿り始めていた。
ヒロを真っ直ぐに見つめてそう言った柳の表情からはいつの間にか微々たるお巫山戯すら消え去り、勇気の一欠片を振りしぼるかのように、拳がキツく握られているのを見つめて。
「ひろし。なぎさをつれて……いっしょにとおくへにげない?」
「え……?何、言ってるんですか?」
「ひろしのかおをみてあんしんできたの。わたしは、やっぱりこのばしょがすき。みんながだいすきって、おもいだせた。みんながいなくなるなんて、このばしょがなくなるなんて、わたしはたえられないわ。それならせめて……あなたたちをつれて」
「ま、待って!柳さん……?何が何だか分からないですよ。教えてください!この場所が無くなるって……?」
ヒロは焦り言い募るが、柳は『自分ではどうしようも無かった』とでも言わんばかりに、口を噤んで下を向き、力なく首を振る。
柳は『逃げる』と言った。まるで得体の知れない闇がこちらを覗いており、それが今にも全てを食い散らかされていくのを予期し、その上でそれを受け入れ、覚悟しているかのように。
「あまりじかんはのこされていないわ。……きめたら、へんとうをきかせてね。まってるわ」
「柳さん!」
柳はサリーに乗り、ヒロの傍を走り去っていった。その瞳に涙が溜まっているのを見られたくないかのように、ヒロから目を背けて。
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頭をひねり無い知恵に頼りすがろうとするが、瞑目しようとも、どれだけ前頭葉をいじめ抜こうとも、やはり柳の言葉と涙の真意が分からない。
知ってそうな人間は居ないかと、ヒロはふらりと外出する。
「大会まであと1週間だ!!もっと身体を動かさないと優勝は厳しいぞォ!!」
徒歩10分くらいの場所にある公共体育館では、小学生女子の掛け声とそのコーチ、須藤の叫び声が響き渡っていた。
鳴上と共に来た場所とはまた異なる体育館であり、広さは少しこちらの方が狭いだろうか。年季の入り方でいえば前回の場所の方が上で古かったのに対し、こちらは設備や照明の暖色具合が傷が少なければ質も良く、年式も新しい。
「コーチ!そろそろ休まれては?須藤さんだけ今日まだ1度も休まれていないかと」
「五月蝿い!!貴様にはこの危機的状況が分からんのか!」
「ひ、ひぃぃ!」
須藤は心配して声を掛けたサブコーチを怒鳴りつけ、引き下がらせる。
そして……ふと体育館の扉が開き、ヒロが顔と身体をのぞかせ、須藤に会釈をした。その手には差し入れの缶ジュースが入っている。
須藤は驚いたように目を見開き、
「やっぱ休憩するわ!お前指導しとけこれで」
「えぇ!?」
戸惑いに満ちるサブコーチにホイッスルをぶん投げた須藤は、腹黒そうな笑みを浮かべてヒロの元へ歩み寄る。
「これはこれはッ!まさか英雄自らお出ましとは」
「いつの間にか単なるロ○コンからコーチに格上げしてたとは感慨深いわ。お前と少し話したい」
「もちろんいいですともッ!グフ……w」
「その笑い方何とかなんないんか?」
「こんな所じゃなんですし、そちらへどうぞ〜」
ヒロと須藤はコートから距離を置いた場所、体育館の反対側といったところか。そこに椅子を並べて座り、ジュースを飲みながらバレーボールをする小学生達を眺める。
小太りのサブコーチの熱心な指導。そして見つめる保護者たちの目は大会前ということもあり、緊張しているようだ。
足つきの椅子にも関わらずどっかりと足を崩して座る須藤は、形振りこそ創建な男児だが、相変わらず派手な金髪に、どこか取っ付きにくそうな笑顔を作っている。チャラ男以外の表現が見当たらない。
「しかし前から思ってたけど意外だわ。子供たちなんて、須藤のナリを見たら皆逃げていきそうなもんなのに」
「懐かしいこと言うなぁ時枝氏!確かに最初は怖がられてしましたよ〜」
「最初は?」
「実はですね……僕ここのコーチになって8年経つんですよ。今の会社に入るのと同時に始めたのでね」
「え!?そんなに!?」
「最初は酷かったですよ。子供たちに無視され、怖がられ続けて……。信頼は、金をいくら積み上げようとも絶対買えないですからねぇ〜。それをハッキリ分かっていたからこそ、雨の日も風の日も心が折れそうな日も、僕は決して諦めずに彼女らにアプローチし続けた訳です。それで獲得したのが、今の場所という訳ですよ!」
須藤がミュージカルのような身振り手振りで、ヒロに熱く語り続ける。そして勢いよく、自慢げに、集大成を見せつけるようにコートを手振りで指した次の瞬間、横からバレーボールが勢いよく飛んできた。
ヒロはちゃんと言ってあげようとしたが………その弾速は大人の反射神経を持ってしても、増してや横を向いたままの須藤にはどうしようもない速度であった。
やがて須藤の右頬から有り得ない破裂音を叩き出し、頬がまるで水面になったかのように波打った。
「す、須藤ォーーーー!せっかくめちゃくちゃ良い事言ってたのに!」
「まぁまぁ。これくらいいくらでもありますよ」
「鼻血!鼻血出てるから!」
一切動じることの無い須藤は、力を失って転がるボールを手に取った。そして走って向かってくる短髪の女の子に、手で鼻を抑えながらボールを投げ渡す。
「あっくん。ごめんね」
「気にしなくていいから、しっかり集中して」
「うん」
ボールを取って去っていく女の子の背中を後ろで眺め、鼻血をポケットから取り出したティッシュで拭いながら須藤は話を続ける。
「僕は鳴上氏のようにフィジカルで人を湧かせる事は出来ないし、時枝氏のように優しさと強さを兼ね備えた男の中の男でもない。ただの凡人に過ぎないのですよ」
「…………」
「だからこそ!僕は気づくことが出来た訳ですとも。真に価値を持つのは信頼であり、信頼を築くのに必要なのは金ではなく時間のみであると。僕という凡人に、時間を両脇に抱えてひたすら突進し続け、傷だらけになる日々を。何度打ちひしがれ、何度屍になろうとも………決して諦める事なく蘇り、立ち上がり続けるというゾンビ戦法を教えてくれたのは、この運命そのものですッ!いくら鳴上氏や時枝氏が魅力的であろうとも、僕の持つものを手に入れる事も奪い取る事も出来ない。唯一無二の宝。僕の人生だけの喜びという訳ですよ!」
須藤が両腕を広げ熱く語るのを、ヒロは横で黙って聞いていた。別に男の中の男でも無いけどな、と、普段のノリで茶化すことも出来なかった。
凄いことだ。8年という年月が、パッとしない。
1年も努力を続けた、と言われた方が『1年も!?凄いね!』となるあたり、俺は多分その凄さを本当の意味では理解出来ていない。
というかそれよりも、
「すいません………須藤さん、勝手に同い年だと思ってました。少なくとも5つくらい歳上かも……」
「あぁ!良い良い!気にしなくて良いですよ〜。そんなに変わらないし、ありのままが1番嬉しいですとも」
そこで言葉を区切り、須藤は立ち上がってヒロを見下ろし笑った。
「まぁなので、時枝氏。辛くても………『今あるものを手放さないように』してくれたまえ。図ろうともそうでなくとも、今君の手の中にあるものの中には、『積み上げた信頼』によって成り立っているものがあるはずだからねェ」
「…………」
あっくーん!
バレー女子達がこちらを向いて放った黄色い声に、爽やかに応じた須藤。
「時枝氏の話を聞きに来たのに、僕の話をしてしまった。時枝氏の真っ直ぐな顔を見てるとついつい、話したくなってしまうから、カナ?それも君の確たる魅力という訳でしょうな」
「…………須藤さん」
「さん付けは良いッ!すまないが大会前なので戻ります。また話しましょう〜」
「……ああ。ありがとう。また」
「ロリ is……………………GOD」
「なあ何でだ。何でせっかくカッコよかったのにわざわざその一言で全てをぶち壊すんだよ。何でなの本当に」
須藤がバレーコートに走っていくのを、空き缶の重みを指先に感じながら眺める。柳さんの事は聞けなかった……けど。
…………俺の手の中には。そうだな。
金で得られないものばかりで、埋め尽くされている。
そして。
スマホを取り出し、いつも通りにライヌを開いた。ずっと渚との他愛ない会話が続いており、今は返答待ちだ。
直近のデートでは喧嘩ばかりしていた渚。
だけどあいつはずっと、俺を信じて待っててくれたんだ。
渚を、手放さないようにしなくちゃ。
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須藤の言葉を聞いて、ある人物に会いたくなったヒロは、本社・応接室を目指して前進していく。
見えてきた応接室の扉から、うーさんが出てきたのが見えた。その表情はほんの少し暗い。
また何かあったのかな……。ほんとに、色々大変だな。そんな心境で、ヒロはうーさんの肩をポンと叩いた。
「どしたの。また何か言われたのか?」
感情の薄みがかった瞳がこちらを振り向く。
そしてヒロの顔を見た途端………その表情は焦りと恥じらいに染まって見開かれて、たちまち頬を紅潮させ、
「ひ、ひーくん……!今はダメ!」
「え?うーさん?ちょっと」
目に涙を浮かべて咄嗟に背を向けたうーさんは、ヒロから逃げるように走っていってしまった。
走りゆくその背中から………微かに煙草の臭いを発しているのを、ヒロの鼻腔は逃さなかった。
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喫煙所のスライドドアを開くと、その男はいた。
葛木は相も変わらずだるそうな表情で煙草を吸っており、入ってきたヒロを見て『お』と反応した。
「よぉ時枝。順調か?」
「まあ、はい。どうにか」
「俺は相変わらずだりぃぞ」
「はは」
……………さっきのうーさんの臭いと、同じ臭いだ。
お調子者といった雰囲気でケラケラと笑いながらヒロを見つめる葛木を、ヒロは疑る瞳で見つめ返す。バッシングの1件以来、ほんの少しだけだが表情が柔らかくなった気がする。
「………まさか、うーさんに煙草吸わせて無いですよね?」
「あぁ?吸わせる訳ねぇだろ。女が煙草吸ってんのが1番ムカつくわ。吸わないとやってらんねぇくらいすり減らして生きるのは男だけでいいんだよ」
その辺は腹に据えたポリシーがあるらしく、葛木は眉に皺を寄せ、疑いの眼のヒロを真っ直ぐに睨む。その竦むほどの威圧感で、ヒロは自分が安堵していくのを覚えて息を吐き出す。
短くなった煙草をぱっぱと捨てて、もう1本の煙草に火をつけた葛木は、手ぶらのヒロを見て心底疑問とでもいうように、瞳を見開いて問いかける。
「前から思ってたけど何でお前は煙草吸わねぇの?」
「いや。吸いませんよ。吸う理由は無いけど吸わない理由はいっぱいって感じです」
「ガン予防になるし毎日元気になれっから。今日から吸っとけって」
「大嘘やめてください!?」
もくもくと上がっていく煙。やがて天井に辿り着く前に空気中にすり抜けるように消えていく白いそれに夢などないが、鼻につく臭いは確かだ。
たまに良い匂いが漂ってくる銘柄も確かにあるけど……ぐらいが印象についているところか。
「鹿沼の世話してやってくれよ。お前がわざわざ現場に出たせいで俺が毎日世話する羽目になっただろうが」
「世話って……。また子供みたいな言い方」
「まぁ何だかんだで、あいつも1人の女だったって事だわな。ナハハ」
「?」
葛木の言葉を深く考えるよりも………ヒロがその刹那、意識したのは時間だった。
間もなく時刻は16:00になろうとしている。仕事をサボってぶらぶらし過ぎたし、そろそろ戻らないと。
その前に……。
「また何か、起ころうとしてるんですか?この会社……」
「は?」
「いや。悪い予感というか。………あの、占いです。先日路地裏で占ってもらったら、会社で災厄が起こる……なんて言われちゃって。ハハ」
柳の言葉をそのまま使うのは柳にしか出来ない。
聞き返されて言葉の用意が無く、かなり取り乱したが、まあ60点程度の取り繕いは出来ただろうと、ヒロは言いながら心の中で胸を撫で下ろす。
「…………」
葛木は数秒何も言わず………何か考え事でもするかのような表情で床を舐めるように見つめた後、もう1本の煙草の先をまだ長いままぐりぐりと躙って消化し、
「何もねぇから大丈夫だよ」
そう言ってヒロの肩をポンと叩くと、葛木は喫煙所を出ていった。




