第65話 底知れない思慮と洞察
実を結びゆく。努力が報われていく。
昼過ぎの本社、デスクで瞳をキラキラと少年のように輝かせていたのはヒロだった。仕事が楽しいと思えるのはこんなに幸せなのか、と。
色々なことが今まであったけど、今が1番楽しい。
ノルマは支社時代よりもキツいが……それは瑣末に過ぎない。何故なら周囲の人間のレベルもあからさまに高いからだ。互いに声を掛けあって足りない部分を補い合い、目標を達成していけるのは居心地がいい。
毎日働いてもいい気がしてきた。これまでなら考えられない事だ。がむしゃらに頑張り続け、走り続けた日々が報われた。俺は報われたんだ。
広々としたフロアの中でPCを叩くヒロの手は軽くリズミカルでしなやかだった。おのが肉体も時間も完璧に支配する全能感に心を踊らせ、何が起こっても全て対処出来る自信に胸を満たして。
成績は本社の中でも真ん中、鳴上と大体同列といったところまで来ただろうか。天を見上げる思いだったこの本社で、だ。
出来ることが出来るようになるのは、これ程までに痛快で快哉だ。
ひと仕事を終えてお昼休憩に出ようとすると、デスクで本ストをやり込んでいる鳴上を見つけた。エンドコンテンツの最終部を軽々とクリアする程の廃プレイヤーである鳴上は自己新記録を目指しており、横に持つスマホ画面を見つめ器用に操作する瞳は真剣そのものだ。
「よいしょ」
「のァァァァァァァーーーーーーーッッッ!??」
無言で静かにその背後に立ったヒロは、真剣にプレイする鳴上の視界をその辺で拾った紙で妨害した。鳴上はたちまち悲鳴をあげ、プレイは乱れたのちにやがてstage failedの文字が表示される。
「時枝殿!!流石にその行為は許されぬぞ………!?やっていい事といけない事があるだろう」
「こっちの台詞だわ。昨日、共用PCに保存してた俺の電子書類全部甘目まどか仕様に書き換える悪戯したのお前だろ。大画面でプレゼンしようとしたら甘目まどかがドアップとセリフが大音量再生されて最悪だったんだぞ」
「ぬッ。まさか拙者とバレるとは」
「当たり前だろが」
「飯か?」
「あぁ。行こう」
社内の食堂は所詮社内の食堂なだけあり、白壁白床のシンプルな造りだった。かなり広いが、昼のピークを終えたのもあり人はほとんどおらずガラガラであった。
適当に向かい合ってテーブルにつき、唐揚げ定食を食べるヒロと鳴上。
しばらく無言で食事していると、同じく昼休憩に入った森家がおぼんを持ち、どこの席に座ろうか辺りを見渡しながら歩いていた。
「おーい」
「!?」
ヒロに呼び止められて振り向いた森家はギョッとした顔をし、その背を丸め縮こめながら小走りで向こうに走っていってしまった。
「む?今のは一体」
「いやさ。あいつすげえ高圧的だったんだけど、成績追い抜いて差を付けた瞬間にああなっちゃったんだ」
「今この会社があるのは″英雄″たる時枝殿と草津殿のお陰というのに、彼奴は振る舞いを何ひとつ分かっていないでござるな。先祖への感謝も知らぬのだろう」
そう言って、鳴上は一度箸を置き何か考え込むように顎を触り、視線を下に移した。
「しかしあれは明らかにやましい事がある動きでござった。………まさか、会社でA○でも見ているのか!?ヌッフ………w これは堪りませぬなw」
「やめろ。想像しただけで気持ち悪いから」
「人間はやましい時に、取り繕おうと必死になる生き物でござるよ。完璧に繕って逃げ切るか、諦め開き直ってそのやましさを肯定する以外に道はない。そう……………!拙者のようにッ!!」
「やべぇ。説得力に満ち溢れ過ぎだろ」
「という訳で時枝殿に″″とびきり″″のA○を教えよう」
「何でそうなる?なあ?何でそうなるんだよ」
「確か女優の名前が…………ヌッ!?オススメリストが多すぎて纏めきれぬッ!!困ってしまいますなぁブッヒヒヒw」
「やめんかい」
「ちなみに拙者から言わせれば、『逃げ切れる事の出来るやましさ』など存在せぬがな。″漢″は堂々が1番だッ!ハッハッハッハ!!!」
「あぁもう!分かったから静かにしろ!??」
つい先程まで静かで会話ひとつなかった食堂が、ヒロと鳴上の席によってやたら盛り上がる。
ヒロとは比較にならないスピードで唐揚げ定食を食い終えた鳴上は『足りぬ』と呟いて勢いよく立ち上がり、サバの味噌煮定食とチキン南蛮、デザートのティラミスを3つ、器用に複数のおぼんを指に乗せて持ってきた。
「何で明らかに俺より喋ってんのにそんなに食うの早いんだよ」
「そんなの決まっていよう。飯を食うために会社に来ているからだ。その前後の約8時間は休憩時間でござる」
「発想の逆転にも限度があるだろ限度が」
「ま、まさか………ッ!まさか時枝殿は逆に、働きに来ているというのかッ!?会社に………!?」
「たりめえだろ!?何シリアスな雰囲気で驚愕に慄いて顔の彫り深くしてんだよ!」
「hey!!!時枝殿に唐揚げ定食追加で3つ!w」
「うわぁぁ!?もう腹いっぱいだからやめろ!!てか何で俺は同じ定食3つなんだよ!??」
ヒロは追加の唐揚げ定食を1人前しか食えず、結局残りの2人前は鳴上が平らげる事となった。人並みの胃袋でしかないヒロは、胃もたれが確定した。
俺はお前を絶対許さない。
食堂を出た2人。膨みきったお腹を苦しそうに擦りながら、満面の笑みの鳴上の背中を睨むのだった。
「時枝殿。今から甘目まどかカフェに行かぬか?」
「今から?何で?」
「そろそろ甘目まどかグッズの再入荷の時間でござる」
2人で甘目まどかカフェに行くため、一言断ろうとヒロと鳴上は管理室へ足を運び、その扉をノックした。
管理室の中に入ると、その空気は長年の緊迫感がこびりついているかのように、いつ来ても背筋が伸びるものがある。中にいた人物は振り向くと勢いよく立ち上がって走り寄り、ヒロの身体に正面から飛びついて熱く抱擁した。
「ひーくん!!会いたかったぁぁ!」
「うぉぉぉぉおお!」
咄嗟に片足を後退して支えにし、両腕を前に出して今にも泣き出しそうな声を上げたうーさんの身体を支える。
咄嗟であった事もあり……身体を支える為に前に出したヒロの右の掌には、収まりきらない程の大きな胸が収まっていた。
誤ってほんの少し、指先に力を入れてしまった。……嬉しそうにむにゅ、と柔らかく受け入れて沈み、その弾力が指先の神経1本逃さずに侵されてヒロは思わず情けない声を上げた。
「あぁん♡ ひーくん。大好き………!養いたい。養いたいよぉ………!」
「う、うーさん……元気そうで良かった」
「相変わらず意地悪だね。これから会議って時に会いに来るなんて。会議キャンセルするしかなくなっちゃった。試してるんだろうけど無駄だよ?わたしの愛は本物なんだからっ」
「いやいいよキャンセルしなくて!?試してないし!会いには何度か来たけど、うーさんだって忙しそうだったじゃん」
清楚そのものでありきらきらと輝く瞳のうーさん。今やその実績から、名実ともに全社の誇る伝説となった存在だが、ヒロの前ではただの少女になってしまうのだった。
うーさん、この間のバッシングの一件が終わって以降………なんかアグレッシブになったんだよなあ。
待て待て待て。顔が近いぞ………!?
息が顔に掛かる程に接近した2人。寂しげに眉をひそめた表情すら可愛いので、ヒロはたじろいでしまう。
「『話したい事』があるから。早く中に入って」
「あ、えっと。うーさん。ここに来たのは理由があって」
「統括命令。後ろに1歩でも下がったら減給するから」
「ウ″ッ」
判断権を全て鷲掴みにされているヒロ。その職権を持ってうーさんに監禁される事となり、どうなる事やらと肩を竦める。
その柔らかな身体を左腕が、そして胸を右の掌が堪能し続けているが、うーさんの抱擁に魂が篭もりすぎて振りほどけない。唐揚げ定食を腹から溢れる程食ったのすら、その柔らかさと衝撃を前に無意味と化した。
そして………その横で一連の流れと様子をニヤニヤしながら眺めている鳴上に、うーさんは振り返ってじとっとした視線を送る。
そして抱擁していたヒロを一旦手放して、左手を腰において右手でビッと指を指し、
「おめーはだめだっ!」
「な、なぬゥゥゥッ!?何故だッ!?」
「会社でA○見てるから以外何があるんだよっ!このボケ!!」
「待てッ!それは拙者の話じゃないでござるぞ!??」
「甘目まどかカフェでも何でも行ってこいっ!!」
「ラジャーーーーッ!w ヌッフォw 拙者の″″″″″″″青春″″″″″″″はすぐそこだッ!w」
上司の許可を得た鳴上は管理室を飛び出し、気色の悪いランニングフォームで時速100kmのスピードを出し、旋風を巻き起こして会社を出て行った。
社内や管理室内の、パソコンや書類の大半以上が鳴上の巻き起こした突風によって宙を舞い、あちこちから阿鼻叫喚の声が聞こえる。
そしてヒロはそれよりも、1点の違和感が拭えずに息を呑み、背筋にひんやりとしたものを走らせていた。
あれ?うーさんはずっと管理室にいたはずだよな?
食堂もガラガラだった訳だし。
管理室に監禁されたヒロ。鳴上のハリケーンによってめちゃくちゃになった統括席の書類とパソコンを横目に、とりあえず椅子に座った。
そして会議キャンセルの電話を入れ、重要書類をトントンと纏め片付けているうーさんの背中に問う。
「うーさん。………俺らの話を、どこから聞いてた?」
「そんなの宇宙で1番どうでもいい事だよ」
「その返答が1番怖いんだが!?」
「知ってて当然だよ。上司なんだから………ね?」
いつから、何から何まで聞かれてたんだろう。考え出すとキリがない恐怖に身が震える。
ぐっちゃぐちゃになった管理室の中で座ってるヒロは、背後から忍び寄ったうーさんの抱擁を受ける。背中に押し当てられた感触と、息が耳に当たる感触に……ヒロは息を呑んだ。
目の前の壁に額縁で飾られた、様々な関係会社からの、うーさん宛の感謝状が5つも増えているのを見つめながら。
「ひーくんが来てくれない間に、わたし感謝状5つも貰っちゃった」
「凄いとかって次元じゃないぞ……これは」
「でもわたしね。ひーくんの業績が伸びてる方が嬉しいんだ。だから空き時間で、ひーくん専用のマッサージチェアも作ってみたんだよ。こっちきて」
「え?マッサージチェア?」
管理室の端っこに手を引いて連れてこられたヒロの目の前にあるのは、緑色にコーティングされたマッサージチェアだった。
促されるままに腰を下ろしてみると、シンプルな見た目でありながら、ふかふかで触り心地も座り心地も良い。
上下も角度も全てを自在に調整して好みの椅子として日常利用できる上に、気が向いてスイッチを入れさえすれば体型感知センサーで最適な状態に椅子が勝手に動き、すぐにマッサージが開始する。
それ自体は特段珍しくはないが……。
すごいのはマッサージの際に、身長体重血圧といった簡易のものはもちろんのこと、診断を受けないと分からないような項目の健康チェックが速やかに出来ること。データが記録されていくため、現在と過去の診断結果をモニターで簡単に参照できる。
更にその日の脳や体の状態を自動スキャンし、日々の状態とその変動内容を記録。そして健康維持のためにその日必要な運動量や適切な献立なんかをパッと表示してくれるという、嬉しすぎる機能が"""おまけ"""としてついていることだ。
もはやそれ単体で特許申請して商品化しても売れるんじゃないのか?
そう思ったけど、何だか無粋な気がしたので今は敢えて言わないことにした。なんでこれをおまけ扱いにしたのか、今度機会があったら聞いてみることにしよう。
身体中が包まれ、ゴリゴリと押され、揉まれ、ヒロはその機能を堪能し、瞑目して気持ちよさそうに深い息を吐いた。うーさんはヒロの隙だらけの様子に、口に手を当てて静かに微笑む。
「今日からひーくん専用だよ。管理室に置いておくからね」
「これも……1週間で作ったの?」
「うん。ほんとは設計図の作成だけ担当して、調達を含めた実際の工程は業者に依頼しようと思ったんだけど、わたしがやった方が早いから全部自分でやっちゃった」
「凄すぎる……。何だよそりゃ。しかも空き時間でだろ……ほんとに凄いよ。訳わかんないくらい凄い」
「そう。わたしは凄いよ」
「そんな謙遜しなくても………。………え?」
「気づいてないフリして、ほんとは気づいてた。わたしは結局謙遜した振りして、心のどこかで皆のこと見下してるって」
マッサージチェアに全身を蹂躙されるヒロの無防備な身体。そしてその戸惑いに満ちた顔を、うーさんが腰を曲げて覗き込む。
「性格良いでしょ。ふふ」
キラキラした瞳を少し細めて、薄く笑った。
ヒロがよく知っている気弱な悲鳴も表情も、既にそこには無かった。清楚で美人である彼女の微笑みから底知れない思慮と洞察を感じて、ヒロは感服と恐怖の間に押し込められたように、目を見開いてうーさんを見つめ返す。
「もう………完全に統括官の風格に染まり切ってるじゃんか。巻いた舌がもう一生元に戻る気配ねえわ」
「それはひーくんのおかげ。全部……ひーくんのおかげだよ。いつになったら自分の功績に気づいて、わたしを都合よく使ってくれるの?何でそんなに、……自分自身に無頓着でいられるの?」
「モノじゃないからだよ。うーさんは。一緒に働いてたまに一緒に本を見に行けたら、それだけで嬉しいんだ」
「目を覚まして……。ひーくん。せめてわたしの前では、恥じらわずに欲にまみれたっていいんだよ。希望を見出して絶望を跳ね除ける為に、人には欲望があるんだから」
その時、うーさんのデスクのPCが電子音を発した。それを聞いたうーさんは慌てて襟を正し服装を軽く整えて、自分を真っ直ぐ見つめるヒロを見下ろす。
「葛木さんのところに行くね。………好きなだけ座ってていいからね。ひーくん」
そう名残惜しそうに言って、うーさんはパタパタと管理室を出ていった。
ヒロはその背中を見送り、一通りのプログラムを終えて動かなくなったマッサージチェアに座ったまま、呆然とどっかに視線を送っていた。
うーさんの言葉が、ずっとずっと頭の中で響いて。考えて。
「…………食いすぎた。とりあえずトイレ行くか」
考えるのを、全部後回しにした。




