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第62話 現実を忘れて

幼少期、私はなんの不自由もなく育てて貰えたと思う。


だけど、次第に学校に行くようになってから歯車は狂い始めた。お父さんとお母さんがいくら取り計らってくれても寄り添ってくれても、上手くはいかなかった。

その度に申し訳ない思いをして、私は何で生きてるんだろうって思ったりして。


いつしか私は自信も元気も失って、ずっと寂しく生きてきた。両親が居なくなったら、私は本当に独りぼっちなんだと思った。


ヒロに出会う、その日までは。


誰とも上手く話せない。何かしてみても空回るばかり。見た目も学業も何もかもダメ。料理以外になんの取り柄もない、表情も死んで捻くれきった、なんにも無い私に無償で話しかけてくれて。

私を無償で1人の人として、1人の女の子として見つめてくれて。


今まで知るきっかけの無かった、楽しい世界を教えて導いてくれた。優しさを与えてくれた。沢山微笑んでくれた。


今まで感じたことさえ無い感情が私を満たしていった。止めどなく、力が湧いてきた。何だって出来ると思った。頑張るヒロを見て私も頑張りたいと思った。

暗闇の中に沈んでいた私の命に、光を灯してくれた。


これは運命なんだって、信じてやまなかった。

私はヒロと出会う為に生まれてきたんだって。








「もう起きちゃったの。渚さん。おはよ」


枕元で囁かれるような声が闇の中で響き渡り、渚はゆっくりと目を開けた。


左を見ると、窓の外に広がるのはただただ空。

とてつもない勢いで遠ざかっていく看板と木々、目にも止まらないスピードで移り変わる自然がこれまで映っていたはずの窓の外には、既に目的地付近の駅前、屋根付きコインパーキング1番隅っこの、グレーの冷たい壁が動く様子もなく居座っていた。


いつの間にか小圷の車は高速道路を降りており、ヒロのアパートまで徒歩で5分も掛からない場所まで到着していることを意味する。

BGMに、聞こえるか聞こえないか程度の音量でジャズが流れていた。


そして後部座席に移動させられていた渚は、いつの間にか…………すぐ右横に座っている小圷の左腕に、まるで抱き枕のようにぎゅっと全身を抱き寄せられて、右半身を密着させていた。

その頬は小圷の胸板にあたっており、髪越しに頭から耳へ流れるように優しく、ゆっくりと繰り返し撫でられる感覚に陶然としていた事に気づいたのは、目を開けて数秒経ってからの事だった。


「あーーー………!可愛い。何度見てもいつ見ても、渚さんはほんっとに可愛いんだね。困っちゃうよ。このまま、一生独占してていい?」


脳天目掛けて込み上げる、訳の分からない程の感情を隠す様子もない小圷に、ぎゅっと抱き寄せられる感触とその温かさを味わう自分自身を、渚はどこか客観視するように静かに見つめていた。


そして想像以上の小圷車の乗り心地の良さ。空調も完璧、椅子の座り心地、香り、何もかもが快適そのもの。そんな中で質の高い短時間睡眠を得た渚の体調は、すこぶる快調であった。

その気になれば、容易に小圷の腕の中を抜け出せるくらいに気力を有り余していたが…………沼とも言えるそこから、指先のひとつも動かすことをしなかった。

良い夢を見たあとに布団から出るのを、誰もが憚られるように。


「あと、随分顔色良くなったね」

「ん……。そうかな」


ずっと前を見ていた小圷に不意に見下ろされ、顔を覗かれる。それに対して渚は隠れるように、胸板に頬を擦り寄せて、短くそう答えた。

そして先程からどうしても腑に落ちない事があり、渚はその身体と頭を抱き寄せられたまま、視線をフロントガラスから逸らさずに質問を投げかけた。


「………何でわざわざ乗せてくれたの?私あんたに怪我させたし、酷いことも言ったよね」


心底思慮しかねるというように目を細める渚。

しかし………それを聞いた小圷はおかしな質問でも受けたかのように、くすりと笑って応えた。


「君はさ。………いつまで、他人の人生を生きるつもりなの?」


掛かりっぱなしのエンジンの音。小さく流れるジャズ。どちらも意識しなければ耳に入っている事にすら気づかないほど静かな物音ではあったが、確実にこの車内という空間を落ち着きに彩る要素のひとつだった。


だが……それらが聞こえなくなるほど、質問に対して質問で返されたそれは、不思議と自分に何か身に覚えのある話のような気がして、渚は目を窓の遥か向こうに逸らした。


私に主体性がないって言いたいの?


違う。そんな話じゃなくて……。


具体的に言ってこないけど、きっと、私がこれから会いに行こうとしている人の事について言いたいのだろう。


「まさか人生語られると思わなかったんだけど……。私より年下だよね?」

「今朝までの渚さんの顔色は本当に酷かったよ。初めて出会った時、弱り切っていた時みたいにね」

「………」


今朝の私。ヒロに会いたくてとにかく急いで準備して。


……ヒロ。


渚はもぞもぞとポケットを漁ってスマホを手に取り、電源ボタンを長押しして画面を灯そうとする。しかしやはり今改めて操作してみても、スマホの画面はずっと点灯しないままだ。


「僕が何を言いたいのか、分かるはずだ」

「何の事?分かりませーん」

「………」


何を言われたところで結局、私がこいつを嫌いなことには変わりない。

そうとでも言うかのように、ドンピシャで言い当てられた身に覚えのある違和感を飛んできた方向へ勢いよく投げ返して、すっとぼけた振りをかます。


ふと、小圷のスマホが静かに軽快な電子音を奏でた。


「渚さんごめん。ちょっと」

「いいけど。別に」


電話に応答した小圷は、全く知りも聞いたこともない口使いで呂律と発音を流暢に、躊躇いなく繰り出した。日本語ではない言語である事ははっきりと理解出来るが、何語かは全く分からない。


突然の出来事に渚は目を丸くして思考を失い、すぐ右横に座り自分を抱き寄せている年下を呆然と見つめることしか出来なかった。電話している最中にも、頭を撫でる行為は力加減ひとつ変わらずに継続されている。


そして2分ほど会話をして電話を切った小圷に、渚は質問を投げかけた。


「何語なの?今の」

「ごめんね。邪魔が入って。今のはアラビア語だ」

「あの……模様みたいなやつ?そんなの話せるなんてすごいね?」

「僕に話せない言語は無い」


切り捨てるように言い切ったそこには、意外なことに自信とかよりも、その道を極めきったものにのみあるような、そんなどっしりとした寂寞を感じさせた。

そんな小圷を見て、渚は開いた口が塞がらなくなる。


「先進国ももちろんいいだろう。だが、発展途上国にもビジネスの契機を得る切り込み口は色々と存在するんだ。それに海外で労働を得ておくことに、経済で見ても日本国にメリットが大きい。限りある国債を浪費するなど愚の骨頂だ」

「え、えっと……」

「あぁ、ごめん。渚さんとのデートに比べれば全然どうでもいい話。自分で出来る努力はしとこうねって、そんな単純な話だよ」

「で、デートって……!」


そう言ってにこりと笑いかけてくる小圷の爽やかな笑顔に、渚は目を見開いてドキドキして何も言えず、勢いよく顔を背けた。


小圷への強い感服を抱いたと同時に、負けず嫌いな面を持つ渚はどうしても自分と比較をしてしまう。どんな途方もない努力をしたのか想像もつかない。


私なんて………もはや、尊敬する事の出来る立場にもいないじゃん。


そんな的外れにも近い疎外感と劣等感が渚を蝕んだことで、赤らめていた頬と表情は少し暗くなっていき、再び落ち着きを取り戻していく。


「君を僕の車に乗せる理由は至って単純さ。ずっと忘れられないんだよ。渚さんのことがね」

「キモすぎ」


紛うことなき本心。しかし、それはたった今得た劣等感のままに、ぼんやりと心の奥に浮かび上がる疎ましいそねみと核融合し、威力を倍増して低く、冷たい瞳で渚の口から吐き捨てられた。

しかし小圷は、何も気にしていないように笑い飛ばした。


「本当はね………あの時、すごく嬉しかったんだよ。僕は御曹司として英才教育を受けてきて、まともに言い合いというものをした事が無かったんだ。自分で言うのも何だけど知恵も金も権力もある僕に、大の大人ですら真っ向から立ち向かう者なんて居なかったからね。なのにあろうことか君は、それをものともせず僕を論破した」


頭を撫でられ、細い指で髪を梳かれ、時に頬をその指で突かれ、柔らかいそれを堪能し弄ばれる感覚に、言いようのない心地良さと安らぎを得て目の前を静かに見つめる渚。

その瞳は一切の共感を示せずにじとっとしていた。


「如何にも貴族みたいな悩み……」

「マイノリティは使命を背負って生まれた証なのさ」

「親切する振りして、目的はひけらかし?」

「違うよ。これは僕と渚さんはそっくりだって話しなのさ。僕らは『同じ』なんだよ」


先程一緒考えたことを口に出されて、渚は驚きを隠せずに目を見開いた。


「君の抱いているその寂しさも違和感も、決して間違っていない。そのまま信じ続けることだ」


どうしてだろう。どうしてこんなにも、小圷君は私のことをって、そう思っていた。だけど………私を励ましたかったのであろう今の言葉を通してほんの少し、彼の心に触れたような気がして。


「………小圷君が寂しいだけでしょ」

「………そうかもね」


そんなやり取りしたのちに何ともなく、渚と小圷は数秒見つめ合う。そして優しい笑みを見せた渚に、小圷は一瞬驚きに目を見開いた後嬉しそうに白い八重歯を見せた。


時間がゆったりと流れていくのを感じて、2人はフロントガラスの向こうを見つめたまま無言になる。


「デート楽しいね」

「デートじゃないでしょ」


悪戯な発言する小圷を渚は牽制しながら、身体を少し捩らせて自然に左手を動かした。

その左手は膝上に放られた、小圷の右手と触れ合う。そして思考の余地もないまま、お互いに温かさを求めて流れつくようにして……指を絡め合い、手を握り合った。


あったかい。


後ろに回された左手で、ずっと頭を撫でられている。

ほんの少し顔を上げて見ると、澄まし切った小圷の顔は前を見たままだ。


相変わらずクールでかっこよくて、何でも出来そうな雰囲気で、実際きっと、そう。


…………私の人生に、あんたなんか要らないから。


あんた、なんか……。


目的地へ到着したはずの渚の意識は、思考と本能が全くもって相反し、何もかも全ての判断を先送りにした。

しかしその対立を傍目に、今朝まで重たくのしかかるようにして渚を支配していた不安な気持ちは、粉々に砕け散って霧散していく。


そのまま魂が安らぎの川を渡って眠気を誘い……やがて再び遠くへぷつりと落ちていった。


再び穏やかに眠る渚に優しく微笑んで、顔にかかった髪を指でそっと払う。そして、フロントガラスの先を見据えた小圷の表情には………


深い憎しみと、怒りが深々と刻まれていた。



------------------------------



「………渚。渚っ!」


名前をしばらく呼ばれ続けていたのもその耳に入らぬまま、我ここに居らずの顔でひたすらボーっとしていた渚。既に帰っていたヒロに大きな声で名前を呼ばれ、ようやく我に返ってハッと目を見開いた。


「ヒ、ヒロっ!?いつ帰ってたの?」

「とっくの昔だよ。ていうか、どうしたんだ?お前なんか変だぞ」

「ごめん。な、何か今日調子悪いかも?ひひ」


誤魔化し誤魔化しの返事をして、ぎこちなく笑う渚。


デート後ほとんど時間が経っていないにも関わらず、再び、しかもアポも無しに家に訪れた渚に、ヒロは深く理由を聞かずもてなしていた。

既にカーテンは閉められ、天井は灯りが煌々と部屋の中を白く照らしている。


ソファに座る渚の腕には、いつの間にかふかふかのクッションが抱きかかえられている。恐らくヒロが渡してくれたのだろう。そして目の前のテーブルには、暖かいミルクの入ったカップが置かれていた。


「もう着替えたらいいじゃん。ご飯何でもいい?」

「う……うん。ありがとね」


空が薄暗くなるまで小圷の車で、ずっと眠っていた。

全ての現実を忘れて。


そして目が覚めた後。


『何かあったら、また連絡してくれ』


そう言って渡された小圷の電話番号が書かれた小さなメモ用紙が、今でもまだポシェットに入っている。


はー……。

受け取るつもりも持ち帰るつもりも無かったのに。何で受け取っちゃったんだろ。


そしてヒロのアパートに入った後は何もする気力が湧いてこず、部屋の中で座り込み、ひたすらボーっとしていたのだ。

覚えているのは、ヒロの相変わらずの部屋の汚さに異様な安心感を覚えたことだけ。私が怒って叱ってあげなくちゃ、ヒロが駄目になっちゃうから。


ヒロには、私が必要だから。


そして時刻19:00過ぎの現在に至る。


「少し遅めの5月病かもな。現代はいくらでも体調を崩す理由があるから、あまり無理すんなよ」


そう言ってヒロが目の前に差し出した、お湯入れたてのカップ麺。蓋の上には箸が置かれている。やがて濃くなっていくシーフードの香りが鼻腔をくすぐり、お腹がぎゅるる……と小さく音を立てた。


自分がヒロのお世話をするとばかり考えていた渚。ヒロの温かさに、優しさに、昔を思い出して、目に涙が滲んでいくのを感じた。


ヒロはカップ麵を見つめる渚の横に座って、静かに目を瞑った。眠たいのだとすぐに理解した渚は目の前のカップ麺の存在も忘れ、掛け布団を持ってこようと立ち上がろうとする。


しかし、それをすぐにヒロが止めた。


ヒロと見つめ合う。その顔色は心なしか、先日別れた頃より良くなった気がする。同僚に嫌味を言われたって言ってたけど、この感じだともう解決したのかな………。


「俺のことは良いから。今日は泊まってゆっくりしな」

「………」

「バイト都合つけられるんだったら、しばらく泊まっていったらいいんじゃない?」


しばらくヒロの家に滞在。

そのあまりにも天才的な響きに、渚は表情と瞳を輝かせていく。


「うーん何だろ。とりあえずどっちが深く親指反対側に曲げられるか勝負でもする?」

「どんなテンションしてんだよ」


3分経過したのを確認した渚はヒロのツッコミを無視し、カップ麺を開封してちゅるちゅるちまちまと吸い上げる。


シーフードの風味が口いっぱいに広がって、渚は瞳を輝かせた。


「美味しーね!最高!」

「良かった!でもさ、意外だよ。渚、カップ麺なんか身体に良くないって言いそうなのに」

「偏るのがよくないんだよ。食べ物である限りどんなものでもすべからく栄養があるから」

「すげーよ。ほんとに。じゃあ、渚の料理の美味さの秘訣は何なんだ?」

「沢山勉強したし、実家の時は毎日教えて貰いながら親にご飯を作ってあげたり実践もしたけど……やっぱり最後は心かな」

「心?」

「美味しいって心から思えないと、心の栄養までは摂れないんだよ。そういう感じ」

「なんか……お前が感覚派なのはよく伝わってきたよ」


2人でカップ麺を平らげるが、ヒロが全然足りないと言うので一緒にすぐ近所にあるコンビニへ出かけた。


ヒロが山盛りのラーメンを購入する横で、渚は缶ビールを2本購入してお店を出た。


「ビール、珍しいな。好きだったっけ」

「いや別に好きじゃないけど」

「どういうことだよ」


コンビニから帰って、お風呂上り。

ヒロと一緒に座って缶ビールを開封した。良い音を立てて泡が噴き出るビールを口にし、その苦さに2人とも顔を顰めた。


しかしその時間は渚にとってあまりにも特別で、かけがえないものだった。

好きな人と一緒にお家でお酒。一緒に大人を深められる時間。社会人全体で見ればまだまだ若造の立場からすれば、テンションが上がらないわけがない。


ヒロも特段お酒に強い訳ではなかったが、渚は特に弱かった。

2口強程度飲んで完全に満足感を得た渚は、ごろんとテーブルの傍で横になった。とろんとした表情に頬を赤くして、ひっく。ひっくとしゃっくりを出している。


「渚っ?布団敷いてやるから。そこじゃなくてちゃんと寝ろ!」


しあわせ。


ヒロの言葉が宇宙のどこかで響いているみたい。意識がそんな夢心地に包まれて、渚はそのままゆっくりと重たい瞼を閉じた。


………自分が寝てるのか起きてるのか分からないくらいの意識下。


ヒロの声が………微かに聞こえる。


既にヒロが渚の身体を抱きかかえて、布団の上に運び終えていた。しかし渚は、夢心地のあまりそれにすら気づけない。


「ひお……はにひてんの……」

「んー?久しぶりに、鳴上とゲームしてたんだ」

「げーう……なるかみくんも?たのひそう。やる。わたひも……」

「渚もやるかー?参加するなら次のゲームからな。………ぉぉお!?あいつ火力出し過ぎだろ!!」


ヒロがゲームやってる。


鳴上君も一緒なら楽しいに決まってるじゃん。


今朝まで抱いていた不安が本当に馬鹿馬鹿しかったと感じ始める程に、渚は和やかな気持ちを堪能した。

天井と部屋の中を見渡す。高校時代の教科書がボンと投げられており、テーブルの上は飲み切った後も捨ててない空き缶。放り投げられた洗濯物。


ほんと………ヒロはダメダメのダメなんだから。


そこまでがその日最後の記憶となり、今度こそ渚は深い眠りに吸い込まれていった。



……………………………………………………



翌日午前中。

ゆっくりと起床した渚の隣には、既にヒロの姿は無かった。まだヒロの匂いと体温が仄かに残る布団を、甘美と浅ましさに満ちた表情で気の済むまで味わい尽くす。


やがて眠たい身体を起こしてヒロの部屋の掃除と洗濯を超速かつ完璧にやり終えた渚は、優雅に外出をキメこんだ。


ふと散歩中に見かけて、ラッキーと言わんばかりに駆け込んだスマホショップ。

壊れたスマホを新調してもらおうとした渚だったが、電源ボタンの部分の汚れによる接触不良であったことが判明し、汚れを取り除いたことであっけなく再び明かりが灯った。


胸を撫でおろして店員にお礼を言い、お店を出た渚。


そしてライヌの通知を確認し、穏やかだった渚の心に再び戸惑いの風が吹いた。




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