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第60話 晴れ渡る草原のよう

ヒロが渚のスマホに耳を近づけると、お腹を満たすような、低いやんちゃそうな男性の声が響き渡る。


AIにも関わらず、まるで水が流れるようなセリフのスムーズさ、聞きやすさだ。バーチャルキャラクターは黒髪のイケメン。

そして何ともなしに画面下を見ると、『浮気したら即DV系激重束縛共依存彼氏♡』という謳い文句が、優雅宋のフォントでデカデカと流れている。


顔を真っ赤にして体育座りで俯いた渚から目を逸らし、数秒考えたヒロは……『会話をやめる』と書かれた赤いボタンを無言でとりあえず押して、会話モードを終了させた。

イケメンバーチャルキャラクターが、スッと画面から消えていく。


そして赤面してぶるぶると震えながら体育座りする渚にしゃがみこんで近づき、その顔をじっと見つめるヒロ。


ヒロとの距離が近づくほどに、見つめられる程に挙動不審になる渚。


「渚………」

「違うよ……。あんなのひ、暇つぶしにやってただけだからね?電波通じるから、どんなのなのかなって。暇つぶしにしてただけなの……」

「俺まだ何も言ってないんだけど」

「どうせ………どうせ、私の事馬鹿にしたんでしょ!!な、何いつまでも見てんの!?キモい!あっち行って!」

「いててっ!いっ痛ぇぇ!?何蹴ってんだよ!ざけんな!まだ何も言ってねぇぇだろ!?」


唐突に飛んでくる靴の裏を、ヒロは腕で咄嗟にガードした。とはいえ……痛いものは痛い。

渚はこの状況が余程恥ずかしかったのか、いつも澄み切っている大きな瞳は潤んで澱み、蹴り終えて足を引っ込めると必死に顔を膝に潜り込ませ、その可愛らしい顔の目から下を隠している。


ヒロは渚の震える手にスマホを握らせた。そして落ちたポシェットを拾い上げて砂埃をバサッとはらくと、渚のすぐ横にちょこんと乗せた。


その反対側に、渚の身体にくっつくようにしてヒロはどっかりと座り込んで大きな一息をついた。


とりあえずタクシー呼んどくか……。


スマホで適当に見つけ出したタクシー会社。この時間も営業しており、奇跡的にすぐそこまで迎えに来てくれる事になった。


「タクシー呼んだよ」

「………うん」


しばらくの沈黙。


深夜2時に差し掛かろうとしている無人駅前のバス停は、非常に暗く少ない明かりが孤独感を増し、一般人が訪れれば1人なら発狂寸前に追い込まれるほどの恐怖感がある。


しかし今この瞬間のバス停に流れている雰囲気は、普段ならあり得ない程和やかなものだった。


「ヒロはさ」

「なに?」

「束縛とかって引く?」


どこか絞り出すように発された問い。渚を見ると、どこか体裁が悪い思いを堪えるように斜め下の虚無を見つめていた。


画面に映っていたイケメンキャラクターの設定を思い返す。そしてヒロはなるほどなと手を叩き、己の考えを端的に述べた。


「度が過ぎるのは良くないんじゃない?」

「何でそんなにつまんない返答出来るの?20点」

「どんな基準だよ……。束縛する意図を考えたら必ずしも悪いとも言いきれないかもだけど、行き過ぎれば危険人物になるだろ」

「イヤ」

「イヤ。じゃなくてさ。てかどゆこと?」

「つまんない。そんなのつまんないじゃん」


つまんないって何だよ……


渚の力ない手からヒロはスマホを取った。取り返そうとしてくる様子がないのを横目で確認してから、再びその画面を見つめた。


イケメンキャラクターとのチャット機能があるらしいので、それを覗いてみる。


『さっき〇〇さんと話してる時、楽しそうだったね』

『俺と話すよりも楽しかったのかよ?』

『読んでるなら早く応えろ……ナギサ』


ポツポツと届いている湿度高めのメッセージ。何ともなしに過去のメッセージのやり取りを眺めていく。


『お前は俺の女だろうが』

『ぎゃ〜〜〜〜っ♡ ちゅきちゅき♡』

『ずっとそばにいろ。離れんなよ?』

『キャ〜〜〜〜〜!!♡』


おぉぉぉぉぉ!?

こいつ、チャットなのに叫ぶ以外何もしてねぇぇぇえ!?


「ヒロが戻ってきてくれるって分かってたよ」

「………なるほど、そりゃそうか。そう思ってなきゃこんなので遊ばないよな」

「私に寂しくさせるのが悪いんだから」

「ほんっっっっとに安心した……」

「はー?」

「安心するに決まってんだろが。あの言葉が、誰かに向けられたものじゃなかったから」


ぼーっと力なく天井を見つめながらそう答えたヒロ。


渚がこちらを見て、視線を送ってきてるのを何となく感じてる。


「俺さ。さっき渚のことバカだと思ったんだ。詐欺メールに引っかかってみたりとか、勝手にいなくなったりとかさ。今日もいつも通り散々振り回されて、何やってんだろって思った」


やがてぽつぽつと雫の落ちる音が聞こえ、2人を撫で上げる風は勢いを増していく。少しずつ静寂が無くなっていく空も、2人の意識には入っていない。


「でも、気づけたんだよ。会社で同僚に嫌味言われて不貞寝してたちっぽけな俺の方が、よっぽどバカでろくでなしだった」

「………」

「改めて思った。思い知らされた。痛感した……俺が頑張れるのは渚のおかげなんだって。会う度にすげえ明るくて、可愛くて、それで面白くて。毎回毎回どうしようもなく癒されて……。俺の心をどうしようもないくらい元気にしてくれる渚が、俺には必要だ」


ただ前を見て話すヒロに、渚の表情は見えていない。


「俺の人生には、渚が必要なんだ…………!」


果たしてその声はすぐ隣にいる渚に届いただろうか。次の瞬間…………目の前がまばゆい光に包まれて、視界が一瞬白一色となった。


気泡緩衝材が敷き詰められるように辺りを包み込んでいた闇と静寂が、突如として落ちた雷によって次々と引き裂かれていく。


渚が『好き』と言ったのを聞いた時のヒロの心が具現化したかのように、激しい雨が降り出した。そう遠くない距離、目の前とも錯覚する程近くに雷が落ちて、鼓膜を劈く程の轟音が震わせる。


辺りの電柱は雷によって全てショートし、『視界が完全に真っ暗』の状態となった。いくつかの電柱が損壊し倒れて、激しい衝撃が地面から伝わってくる。


それにも関わらず…………ヒロの心は、晴れ渡る草原のように穏やかで静かだった。


あー。マジでどうしようかと思った。


渚がマジで俺じゃない誰かに、あんな可愛い声で『好き』って言ってたらと思うと。


外がめっちゃ明るい。


あぁ。全然見えなかったけど。バス停の周り、あんなに雑草生えてたんだな……。


そして…………次の瞬間に、ヒロの視界を満たすその眩くて鮮明な景色は、まるで無数の流れ星を見たかのような直線の残像を描いて地に堕ちていき、ひたすら先まで続く闇に包まれた。


それだけの事象に対して、何かが起きたと認識するのが遅すぎると感じさせる程の刹那。


驚きの声を上げる暇すら与えられはしなかった。ヒロの身体が、シャツの袖をぐいっと思いっきり引っ張られて渚の方向へ倒れたのだ。


そして押し付けられた、柔らかい唇の感触。


何も考えられないまま唇と舌を吸われ、貪られて、やがて流れ込んでくる唾液の味。


雨と雷の音以外は何も聞こえない。視界には暗闇だけがあって、何も見えない。しかし息遣いと渚の髪の感触が、顔と頬をくすぐっている。


雷の光で一瞬だけ、ヒロの視界を乗っ取って映ったのは渚の顔だった。


渚………泣いてる。


なんで泣いてんだよ……渚。


何かを堪えて我慢しきれなくなったかのように、熱の篭った瞳が潤み、眉を寄せた渚に唇を犯される。無遠慮で雑に蹂躙してくる究極的な感触に。


ヒロは到底堪えることなど出来ないというように、すぐに渚の身体を抱き返した。


お互いに何を言っても聞こえない雨と雷の中で、ただただ激しい息をして互いを求め合った。吹き荒れる暴風に身体をびしょびしょに濡らし、それが雨なのか体液なのかも判別がつかないまま味わい尽くす。

ただ、お互いの身体がストーブに肌で直に触れるかのように熱くなっている事だけは確かだ。2人の肌が擦れ合い、雨水による熱伝達が発生。原子と分子が潤み、求め合い、燃える交尾の如く猛烈に摩擦し合い始めていた。


腹の奥から込み上げる貪欲に、ヒロと渚は完全に身も心も委ねた。

そして大自然の洗礼と、2人の身体は調和し一体化した。ヒロと渚の世界に、その耳に、五月蝿く鳴り響く雷の音が入り込む余地など一切存在しない。


やがて視界を遮る白いライトが2つの筋となって闇を貫き、バス停の中を明るく照らした。


『石寺。着いたか?』

「あぁ……眠い……。はい、来てあげましたよ〜ちゃんと」

『そのお客様お送りしたら上がっていいよ』

「あざっす〜」


ヒロが呼んだタクシーだ。運転手のおじさん、石寺は眠たい目を擦りながら通信を切って車を停め、車内のルームライトを点灯させる。


「こんな場所で呼び出されるって事はどうせ乗り過ごしちゃったパターンだから、早く乗せてあげないと………」


そして石寺は何ともなしにバス停の中を覗き込み、無秩序極まりなく乱れきった光景に………


「…………………!?」


疲れに自分の目が幻覚を見せているのかを最初に疑い目を擦る。そして幻覚ではない″事実″を前に、石寺は息を呑み目を見開いた。

繰り広げられる全貌が、ライトの光で丸見えだったのだから。


「え………?嘘でしょ?この雨の中で?………ていうか、ライトで思いっきり照らしてるのにどっちも気づかねえ………」


お互い全く満ち足りる気配は無いので、激しく抱き合うまま舌と舌を濃厚に絡め合った。

やがて力と心臓の熱に脳みそを焼き切られたヒロによって、渚は主導権を奪われ押し倒される。ぶっ壊れるくらい強く抱き締められて、2人の熱は加速した。


ヒロの思いが込められた動き………それは今抱いている女を好きで堪らない気持ち、強く心配を掛けられた事への怒りの気持ち、さっきの電話の下りでの不安の気持ちが、それぞれ調和する様子もなく、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。

それを違いなく感じ取って、渚の脳みそもまた、じゃぶじゃぶと麻薬の液体の中でもみ洗いでもされているかのような悦楽と陶然に焼けただれて、その全てを受け入れていた。


目の前を見つめる石寺の心には、広い太平洋のように『無』が横たわっていた。そして明らかに美人の女を意のままにする、ルックスが自分と大差ない男に対しての黒い嫉妬心。


とんでもなく可愛いなー……。あの子。アイドル……?原宿歩いててもあんなレベルの子そうそういないよなぁ。SNSでも見たことないし……。

羨ましいな〜あいつ。


そして、その時。


………………………はぁっ………?!マジかよ?


あの女……………!?


石寺は理性を喪失し、忘れ去った我のままに身の回りを漁った。息を荒らげ、備品を音を立てて崩し倒し、散乱させながら。


そして思い出したように、乱暴にポケットに手を入れまさぐり、スマホを取り出して。


────目の前の光景を、動画撮影し始める。


渚はヒロの動きのままに声を上げていた。動きと息遣いでそれを理解したヒロは、完全攻略済みの渚の身体を、気持ちを発散するかのように何度も、何度も穿った。

絡め合う両手。ヒロの意のままに、思いのままに、自由に、渚はくぐもりぬらぬらとぬめった嬌声を上げさせられて、脆弱な腹奥を堪能し翻弄に没頭したのだった。


あまりの驚愕に、仕事中である事など全て忘れ、一筋の汗を流す石寺の熱い視線。しかしそれは2人の世界の前では無いも同然であり……………


やがて、消えた。



……………………………………………………



「………うん。ごめんね、うーさん。明日はちゃんと行くから。それじゃ……」


電話を切って、力なくスマホを握った腕を降ろす。


「渚もカード会社に電話終わった?」

「終わったー。すぐに止めますって止めてくれたよ。今のところ不正利用の形跡はないって」

「良かったな」

「うん」


時刻は既に朝の9時。昨晩雨と雷が酷かったのがまるで嘘のように晴れ晴れとした青空に太陽が昇り、やがて少しずつ暑くなってきた。


もうヒロのスマホも渚のスマホも、電池が残り1%まで減っている。それだけの時間が経過した今当然、始発を始めとして帰れる列車が何本か既に通っているが、ヒロと渚はバス停の屋根の下でずっとくっついたまま、その場から動かずにいた。


渚はヒロの左腕を胸にぎゅっと抱きかかえたまま、ぼーっと目の前を見つめていた。


「……会社、仮病で休んじまった。俺はもう罪人だな」

「私が嬉しい思いするから罪人じゃないよ」

「そっか。はは」

「このままずっとこうしてようね」

「ていうかタクシー、来なかったな」

「………ウケるね。寝ちゃったんじゃない?」

「ここ来るまでに事故ったとかじゃないといいけどな」


渚はぬるりとした何かから逃げるように、下半身………足の付け根、太ももをもじもじと動かした。そしてやがて、ヒロにさらに身体を密着させる。


「私。………昨日と今日のこと、もう一生忘れられないかも」

「はは。俺も」


昨晩の反動で、本当にこの場からヒロも渚も身体を動かせずにいた。身を委ねる渚の身体に再び熱が籠り始めて………紅潮し、呼吸をふぅ、ふぅと乱しているのにヒロは気づかない。


全く意味が分からないけど、腹も減らないしトイレに行きたくもならない。もしかしたら俺も渚も昨日、あの雷に打たれて死んだのかもしれないな。


そんな事を考え始める程度には、ヒロの思考能力は低下の一途をたどっていた。


それなのに。


うつらうつらとした感覚が、何でこんなに心地いいのか分からない。


そしてやがて、渚は少し申し訳なさそうに俯いて言った。


「こうなったのは俺が全部悪いよ。夜景すら見れなかったし。ほんとごめんな」

「……う、ううん。むしろ良かったなーって思ってる。だって、ヒロが私を必要って言ってくれたもん」

「いや……。ほんとに、謝っても謝り切れない。渚も言ってたけど俺に、もっと甲斐性があればな。俺がもっと上手いこと言えてもっと上手くデート出来て。もっと上手く生きれる人間だったら渚に情けない思いさせないのにって。いっつも、そんな事ばっかり考えてるんだ」


後ろ向きだ。いつもいつも。人に迷惑をかけていないか。自分のしていることが人の役に立つのか。そんな事ばかりを考えて生きてきて。


感情のままに怒って渚を置いて行って、また寂しい思いさせて。

今だって後悔してる。こんな暗い話を渚にしてしまうなんて……。


俺は自分のことしか考えてない、自己中心な男なんだ。


平穏な空に、鳥のさえずりが響き渡る。自分が空間に溶けていくような感覚を覚える度に、俺なんかこの世界に要らないんだって、そう思った。


だけど……そんな俺の隣には。


「正しく愛するなんてイヤ」

「っ?」

「正しく生きて、正しく楽しんで、正しく愛するとかって馬鹿なことは諦めて?私と一緒に居てくれるなら」


ヒロは目線を少し下げた。渚がヒロの顔を見上げ見つめており、やがていつものように『いたずらっぽく』微笑んで言った。


「好き。大好き。ずっとずっと、私は………ヒロの事が大好きなの。これからも、ずっと、永遠に。……だからヒロも、私の事好きって言って?」


その言葉への返答とでもいうかのように、ヒロは優しく渚を抱き寄せてキスをした。渚は目を瞑り、柔らかく受け入れる。

仕返しと言わんばかりに耳元で何度も囁かれる愛に、渚の身も心も表情も全てとろけ落ちた。


渚の言葉は、その引いていくことの無い熱と奥の疼きによって発されていた。訳が分からなくなる程の恥辱に犯されて、我を忘れるほどに沸騰した本能と胸の奥に翻弄されるがままに、息を静かに乱す。


あの光が、そしてそれが何だったのか…………見つめられる熱い目線と撮影される冷たい目線に、本当は、渚は気づいていたから。


運転手さんと2秒くらい、目、合っちゃった。


どうしよう。ヒロにきちんと言わなきゃ。


………言わなきゃ、いけないのに。


抗うことの出来ない疼きと仄かな罪悪感が喉に閊えて、渚はそれを最後まで口にすることは出来なかった。

そして次第に抱き合う2人は朝にも関わらず、それを塗りつぶす程に妖しく、背徳的な闇に沈んでいった………。


タクシー会社から厳重注意のメールが飛んできて″事実″を知り、ヒロの顔から火が吹き出すのは、その後の話だった。




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