第55話 俺達は『一生一緒にいる』って約束した
時刻は朝の10時。
遂にやってきた、渚の″ぱる″への復職日。
渚は暗鬱とした思いを隠しきれないまま家を出た。
そしてあらゆる物事への自信を失っていた渚は、ヒロからの連絡にたまにしか応じる事ができなかった。
ごめんね………ヒロ。
私は、自分に負けちゃったの。
今話しても、絶対ヒロと一緒に笑い合えない。
渚は非常に強いストレスに晒され続け、ずっと家の中で1人、夢と現実の境界線に浸り続けた。
結果すり潰れると思う程えぐられ、膨張した『夢』により、渚はもはや人ではなく獣のような声を上げて浸り続けていた。
夢に縋り、過去の人物へ連絡をしそうになるのを、ヒロの存在が必死に抑え込んでいた。
絶え間なく心配の連絡を寄越してくれる、ヒロの存在が引き止め続けたのだ。
そして渚はそんなヒロに対する、罪悪感でいっぱいになっていた。
いつか………いつかヒロにもちゃんと事情を話すから。
いつかって……何時だろう。
″ぱる″の目の前までやってきた渚の表情は、ヒロへの罪悪感と、この後会う人物達への嫌悪と苛立ちに満ちていた。
その表情のまま、入口の扉を開けようとしたその時だった。
「渚ーーーーっ!!!」
大いに見知った人物が腹から呼び掛け、その声は空に響き渡った。
そして振り返るとそこには、全力で走ってくる私服姿のヒロが居た。
渚はヒロを、驚きと戸惑いの表情で見つめた。
「渚!久しぶり」
「ヒロ………。どうして」
「お前はもう、こんな所で働く必要ないんだよ」
「………へ?」
「顔見ればすぐ分かるよ。今お前がどんな気持ちなのかくらい。何年一緒にいると思ってんだ。さぁ、帰ろう。今すぐに」
ヒロは優しさとお節介の入り交じった瞳で、渚にゆっくりと手を差し伸べた。
ヒ………ヒロ。
だめ。今のなんにも自信が無い私じゃ。
ヒロを笑わせられない、支えられない私なんて意味無いから。
「…………ごめん。ヒロ。事情はまた話すから」
「渚?」
「今度にして」
「ダメだ!渚。今一緒に帰」
「今度にしてって言ってるの!!!」
空をも引き裂くような大声に、ヒロはぎょっとしたように目を見開き固まってしまった。
渚はそんなヒロにすぐさま再び背を向け、″ぱる″の扉を開けて急ぎ中へ入って行ってしまった。
「………ほんとに、ワガママな姫様だな」
ヒロは″ぱる″から少し離れた所にある大きな車に、首を横に振って合図をした。
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私、何やってるんだろ。
ずっと、ヒロに謝りたくて。
ちゃんとお話もしたくて。
せっかく…………せっかく、ヒロがわざわざ会いに来てくれたのに。
バカだなぁ、私。
渚が暗さを隠せない表情のまま″ぱる″の中に入ると、店長が嬉しそうな笑顔で出迎えた。
「渚くん!!今日からまたよろしく頼むよ」
「………はい」
「あまり無理をしないようにしてくれたまえ」
こいつの顔をまた毎日見なくちゃいけないなんて……。
渚はため息を吐いて、厨房を通り過ぎて更衣室にやってきた。そして。
「あら?草津 渚。少し遅いんじゃないかしら?早く着替えてきてくれる?覚えてもらう『雑用』が、あなたの想像よりずっと多くあるのよ」
偉そうにそう言ったのは、腕を組み目尻を吊り上げてこちらを見据える芽瑠だった。
キモ………。
渚は表情を変えることこそないものの、微かに嫌悪を零した瞳で無視してその横を通り過ぎようとした。
しかし芽瑠は、執拗に渚に話しかける。
「いい?私は既に主任シェフなのよ。このバッチは見えてるかしら?あなたより『上』。意味分かるわよね?敬語で話しなさい?あとは無視は禁止よ」
「………はい」
はぁ。ダルいなぁこいつ。
面倒くさそうに芽瑠を冷たく一瞥して、小さく返事した渚。
芽瑠はそんな渚を、クスクスと笑い見据えた。
「惨めね。草津『元』主任」
そう言い残して、渚に背を向けて踊るような足取りで歩き去っていく芽瑠。
渚は舌打ちをかましそうになるのを、必死に堪えていた。
噛み切りそうな程、きつくきつく下唇を噛んでいた。
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「ご来客よ?さっさと受付なさい。草津『元』主任」
クスクス………。
主任シェフだった頃の面影など無く、雑用をさせられていた渚。
銀バッチの意地悪な声色と、取り巻きの陰湿極まりない笑い声が響き渡る。渚はそんな彼女らに対して無表情で返事もせずに従い、さっさとテーブルへ向かった。
そんなに私への嫌味が大事?
私がお客さんだったら嫌だけどな。そんな奴がいるお店。
そしてテーブルに座っていた人物に、渚は大きく目を見開いた。
「渚。ごめんね。あんまりこっちに来れなくて。それも、どうしても今日謝りたくてさ」
座っていたのは、さっきまでの平凡な私服姿とは打って変わり、ドレスコードを満たした上質なスーツ姿のヒロだった。
ヒロはほんの少し申し訳なさそうな感情を秘めた瞳で微笑み、こちらを見つめていた。
そして………そのヒロと仲睦まじい様子で隣合って着席していたのは、うーさんだった。
うーさんは綺麗な、純白のワンピースを着ていた。瞳も容姿も、まるで花嫁のように輝いている。そして新鮮なものを見るように目を見開き、″ぱる″の制服姿の渚を見つめていた。
その2人が優雅に座る光景は、新郎新婦ですと言われても何ら違和感を湧き上がらせない程輝いていた。
その光景を数秒、『無』の境地のような表情で数秒見つめた渚。
そしてやがてその身体に、久しく忘れていた想いを再び宿し始めた。
腹の底にズシンとくるようなドス黒いオーラに、ヒロは恐怖を覚えた。
あ………。
さっき会話した感じ、てっきり全然元気ないのかなと思って心配してたけど………。
こりゃ、至っていつも通りだわ。
葛木さんが怒ってる時ももちろん怖い。
それは、『殺されそうだな』と思う程だ。
だけど……渚のこれ。今まで言語化出来なかったけど、今なら出来る。
そもそも葛木さんとは性質が違うな。
つまり、『逃げなければ間違いなく殺される』と思わせられる。
久しぶりにヒロの目の前に現れた、渚の『にっこり笑顔』。
そして確かに響く地響き。
しかし非常にヤバい事に、うーさんは渚のこのドス黒いオーラを感知する事が出来ないらしく、渚の目の前でわざと、ヒロの腕に笑顔で思いっきり抱きついた。
「サナギさんっ!!久しぶりっ!」
むぎゅーーーっ。
待て………うーさん、やり過ぎだ!!
や、………やべぇ!!!
店内に満ちに満ちていた冷たい空気が圧縮されていき、やがて大爆発した。
「ざけんなぁーーーーーーーーっ!!!!!」
ドンガラガラガラガッシャーーーーン!!!!
「う!!うわぁぁぁぁあああ!??」
腹から叫んだ渚に、勢いよくひっくり返されクルクルと宙高く舞うヒロのテーブル。
きょとんとしているうーさんの頭を、ヒロは咄嗟に庇い守った。
周囲の目線がたちまち集まり始める。
しかし、高級店はお客さん達も洗練されており、不用意に騒ぎ立てたりしない。むしろ『楽しんでいる』かのようにヒロ達を見つめていた。
大爆発した怒り。そしてそれが少しずつ収まっていって、渚の目にはじわじわと涙が溜まっていく。
「元気で良かった。本当に良かったよ、渚」
うーさんと周りのお客さんの安全を確認して、意外にもあっさりとした反応で立ち上がり渚を見据えるヒロ。
そんなヒロに何を言えば良いか分からず、混乱して呼吸を乱す渚。
ヒロはうーさんと一緒に、渚と手を差し伸べた。
「一緒に帰ろうよ。サナギさん」
「さっきも行ったけど、お前はもうこんな所で働く必要無いから」
渚はヒロを、今にも溜まった涙が零れそうな瞳で睨みつけ、震える声で反論した。
「ほんと、カヌーさんと息ぴったりなんだね。私が居てくれなくちゃダメなんだって言ってくれたのに、嘘だったんだ?私の事心配してくれてるって思ってたのに。信じてたのに」
「嘘な訳無いだろ。今もずっと変わってない。なんか分かんないけどお前さ……どうせ、また『自分が悪い』とか思って俺に連絡返さなかったんだろ?」
渚はヒロの言葉に、大いにある心当たりを覚えてハッとした。
「俺達は『一生一緒にいる』って約束したよな。それなら、楽しさだけじゃなくて罪も一緒に背負い合うべきじゃん。それとも、その約束も忘れたのか?俺はお前を何回も怒らせて泣かせた。だから、お前だけがいつまでも罪悪感なんか感じなくていいんだよ。さっさと一緒にここを出よう。着替えてきて。渚」
『一生一緒にいるって約束した』という言葉に、うーさんはほんの少しだけ瞳を曇らせて俯いたが、真横のヒロは気づいていない。
罪悪感を見抜かれていた事に気づいた渚は、嬉しさと恥ずかしさが複雑に胸に絡み、思わずかぁっと赤面する。
しかし状況が状況であった。
今は既に″ぱる″に雇われの身である上に、ヒロの隣には宿敵のうーさんがいるという普段とはまるで違う状況。
渚はヒロに、いつものように素直で無邪気な顔を見せられなかった。
渚は迷いを秘めた瞳で、震えながらヒロの差し出された手を見つめていた。
一体何が始まるんだ?
ショーをやっていたのか?楽しみだ!
いつの間にか観客席は盛り上がりを見せている。
「ちょっとちょっとちょっと!黙って聞いてれば、何を勝手な事をしてる訳?その者は″ぱる″で働くともう決まったのよ。業務の妨害をされては困るわ、貧相な『お相手』さん」
ヒロに対してあからさまな敵意を滲ませた声を轟かせ、芽瑠が厨房から歩きこちらへやってきた。胸には主任シェフの金バッチをしている。
芽瑠の存在とその声に、渚は一瞬弱気になった。
しかし次の瞬間に、そんな渚の表情は思い出したようにキュッと引き締まり、弱気などどこかに吹き飛んで行った。
何故ならうーさんが興味深そうな瞳で、目の前の渚をじっと見ているからだ。
そしてそうなるところまで、ヒロの計算通りの事であった。渚は絶対にうーさんの目の前で弱みを見せないだろうと、ヒロははっきりと分かっていたのだ。
ごめんな………渚。うーさん連れてきて……。
本当に胸が痛む。お前にはかなり負担かけるけど。
けど、これ以上お前が不当に傷つけられ続けるのはもう見たくないんだ。
その為なら。俺は幸せに生きるお前を守るためなら、何だってしてやる。誰だって連れてきてやる。
うーさんが信頼出来ていい子だって事も、ちゃんとお前に教えてやりたいし。
そして渚の状態は次の瞬間、完全に『ヒロの願い通り』へと仕上がった。
「貧相?何言ってんの?お前の脳みそと品格の方が貧相に決まってるよね?ヒロに謝れ?早く」
渚がそう言うと同時に、身から放たれるドス黒いオーラが『2倍』に増量された。その矛先は、芽瑠に向いている。
それを感じたヒロと芽瑠は思わず、膝から崩れ落ちそうになる。
その場を支配したドス黒い殺気は、お客さん達すら一挙手一投足に凄まじい緊張感を覚えた。
渚の衝撃貫く程の威圧感を流石に感じ取ったのか、うーさんは緊張の表情で場を見つめていた。
「早く謝れよ」
そう言ってゆっくりと歩み寄ってくる渚の満面のにっこり笑顔。
それは芽瑠から見れば、これまで″ぱる″内で一切の口ごたえや反論をしてこなかった渚の、あからさまな変貌として映った。
芽瑠は完全に恐怖し、圧されきった表情で後ずさる。
「な………!何よ!所詮あなたは私に勝負で負けたじゃない!!無様な出戻りの癖にっ!私に逆らわないで!!!」
芽瑠の決死の叫びに、にっこり笑顔の渚の頬がぴくりと反応した。
勝負に負けた事実を再び認識した渚は、芽瑠に歩み寄るその足を止めた。
それを見た芽瑠は笑みを浮かべ、ここぞとばかりに畳み掛けるように早口で言葉を続けた。
「ほ、ほら!そうでしょう?約束のひとつも守れないような人間じゃなかったはずよね?さぁ早く、仕事に戻」
「しょうぶにやくそくね。ええ………ここまでこっけいだとすこしかわいそうね。ひろし」
唐突に響き渡り空気を変えた、鈴の音色のような可愛らしい声に渚は振り返った。
ヒロとうーさんのすぐ後ろのテーブルからガタリと立ち上がったのは、正装に身を包んだ柳と能間だった。
「柳ちゃん………?と、誰?」
「あ、能間さん!?どうしてこんな所に!」
荘厳たる風貌で立つ能間に即座に駆け寄ったのは、ようやく騒ぎを聞きつけた店長だった。
「久しぶりだね、土井君。少々、事情を聞いていてね」
店長は能間に、深くお辞儀をした。どうやら、古くからの知り合いのようである。
ヒロと柳は無言で目を交わし、頷き合った。
「何よ………!何よ何よ何よ!!!あなた達まで、業務の妨害かしら!?ここをどこだと思ってるの!?日本随一の高級イタリアンレストラン″ぱる″って、忘れてるんじゃない!?そして私は、ここの主任シ」
「だまりなさい」
自衛をしたい一心で懸命にキャンキャンと騒ぐ芽瑠だったが、一切の気持ちを覗かせない、ただただ鈴の音のような柳の声に。
芽瑠は納得出来ない顔をしながらも、押し黙ってしまう。
「恐れ入るが、皆。ここでこの音声を聞いて貰えないだろうか」
能間はそう言って録音機をポケットから取り出し、ゆっくりとした動きで録音機の音声を再生した。
少々の雑音と共に聞こえ始めたのは、店長と、渚と芽瑠が勝負した日にジャッジをした3名の審判員の声だった。
再生され始めた瞬間に、店長は青ざめ完全に固まった。
『ほんと……土井店長も人が悪いですなぁ。まさかインチキをするだなんて』
『ちょっとちょっと。芽瑠に聞こえたらどうするんですか』
『大丈夫でしょう?この時間なんですから寝てますよ』
確かに聞こえたインチキという言葉に、芽瑠は目を大きく開いた。
『……しかし、退任してそこそこ経ったにも関わらず、草津シェフと芽瑠さんの差は微塵も埋まってなかったですよ』
『同感です。あれだけの差があるにも関わらず、本当に芽瑠さんを主任シェフにするおつもりですか?』
芽瑠は頭が真っ白になっていくのを感じていた。
私は勝負に勝った。………勝ったと、思わされていただけ?
『渚くんは絶対にうちに必要だ。何かしらの理由を付けて、主任シェフに返り咲かせる。なぁに。芽瑠も渚くんに勝てたと思い良い気分だろうから、適当に言いくるめるのは簡単だ』
青ざめた芽瑠は、完全に膝から崩れ落ちた。
「な…………何で、その会話が…………っ」
混乱しきって、声もまともに出せない店長。
柳の頭の上に、いつの間にか小さな黒猫のマリーがくつろいでいた。そしてマリーは退屈そうにヒロを見て、一声にゃん。と鳴いた。
柳さん。マリー。ありがとう………。
音声を再生し終えた能間は、店長を鋭い眼差しで睨みつける。
「料理界………いや。もはや、それは関係ないな。勝負を司る者としてしてはならない事を、君はした。分かるな?」
「……………!!!」
「少し、話をしよう。その為に、私はたっぷり時間を用意してきたんだ」
まるで静かに語りかけるように話し、両腕を広げて店長に歩き迫る能間。その瞳は研ぎ終えたばかりの真剣のように鋭く、とてつもなく大きな怒りを宿していた。
店長は完全に震え上がり、動けず何も喋れない。
「………お父様。今のは、本当なんでしょうか?」
「…………」
「私は料理の為に昔から実践を積んできて、海外で本場を学んで帰ってきました。こんなに頑張っても私は、草津渚に勝てないの?」
独り言のように、静かに話す芽瑠。しかし、店長は震えたまま何も返答出来ない。
「そもそもそんな事より。こんなにもお父様のために頑張ってきた私の時間は、一体何だったのでしょう?こんなの、れっきとした裏切」
スタタタッ!!!
芽瑠がそこまで話したところで、店長は血相を変えてその場を走り逃げてしまった。




