第53話 人間ってのは
″ぱる″の営業時間終了後、主任シェフの称号の『渚の永久欠番』を撤回し、新たに任命が行われた。
任命されたのは、芽瑠だ。
店長は主任シェフの証である金のバッチを、正式に芽瑠に与えた。その胸に、金色の輝きを放つ。
周囲で見守っていたコック達からも、拍手が巻き起こった。
「芽瑠。主任として、頑張ってくれよ」
「もちろんですお父様。ところで……草津 渚はいつから戻られるのですか?」
「えっとね。あと3日後」
「分かりました」
「何でだい?」
「ええ……私ったら。どうにも再びお会い出来るのが楽しみで仕方がないみたいです。それでは失礼致します」
芽瑠は甲高い声でそう言って、店長に背を向けた。
そしてその次の瞬間、柔らかい笑顔だった芽瑠は攻撃的な笑みに表情がすり変わる。
私とお父様が、どれだけお前に屈辱的な思いをさせられたか。あの女……草津 渚はどうも分かっていないようだったわ……。
私が血のにじむような努力をしてる間に、呑気に男なんか作って。
私幸せですみたいなオーラ、振りまいちゃって。
憎たらしい。本当に、フケツ極まりないわね。
そんなんだから、私に負けるのよ。それをしっかり教えて、躾してあげないとね。
あなたに笑顔なんか似合わない。ここで、あの幸薄そうなツラで無様に過ごすのが最も似合ってるのよ。
必ずこの恨みを、倍にして返してあげる。
お前がその一生、60年や70年を掛けて味わう予定だった不幸が10だとして、その10全てをこの場所で濃縮してプレゼントしてあげなくちゃ気が済まない。
死んじゃうかもね?クスクス。
もう朝起き上がれない位に雑用で終日こき使って、その図太いメンタルもプライドも、主任シェフとなったこの私がギタギタに刻み付けてあげるんだから。
覚悟してなさい………。
悲痛に顔を歪ませて、涙して私の足元に膝まづき、泣き言を言いながら許しを乞う姿を見下ろすのが楽しみで仕方がないわ!
芽瑠は微笑んでいた。
しかしその身体には喜びではなく、確かな憎しみと執念、呼吸出来なくなりそうな程の苦しみがいっぱいに詰まっていた。
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本社、喫煙所。
3年一緒にいて初めて、上司であり恐れていた存在の葛木に激昂し怒鳴りつけたヒロだったが、全く生きた心地がせず震えていた。
怒鳴り返される。ぶん殴られる……。
なんなら今日、○ぬかもしれない。
込み上げるとてつもない恐怖に身を震わせるヒロ。しかし、それらは全て杞憂に終わった。
腹からの大声で笑い終えて、涙を拭きながら穏やかに天井を見上げる葛木に、ヒロは少し困惑した。
「神松さんの言っていた言葉の意味、ですか」
「そうだ。鹿沼は『如何なる時も徹底して自らを守る力』を身につけなきゃならん。それも出来る限り早期にだ」
陰で聞き耳を立てていたうーさんは、聞き覚えのあるその言葉にハッとした。
うーさんも同様に、葛木と神松の壮絶な言い争いの内容を鳴上から聞かされていたのだ。
「理由は簡単。人間ってのは、自分よりも幸せそうにしてると感じた奴を真っ先に攻撃するように出来ているからだ」
葛木がだるそうな瞳で言ったその言葉。
そしてヒロの頭に真っ先に、渚の顔がよぎった。
渚はこれから、″ぱる″に戻らなくちゃいけない。
店長以外の全てのメンバーから目の敵にされ、嫌味を言われるあの場所に。
店長が差し出した金バッチを、心底鬱陶しそうな態度で拒否した渚。その光景が、鮮明に蘇って。
…………あぁ、そうか。
渚が、あいつらから攻撃されるのは。
そして思考の結果やがて1つの悪い予感に辿りついて、ヒロの心臓がドクンと跳ね上がる。
「まさか、うーさんに何かあったんですか?」
葛木は表情を変えず返事もしないまま、煙草をもう1本取り出し火をつけた。
もくもくと煙が天井に上がっていく間も、ヒロは葛木の言葉を固唾を飲んで待ち続けた。
「非常に、残念な話だが………本社のごく一部の管理職間で、鹿沼のバッシングをしているという情報をキャッチした。つまり、分かるか?」
バッシング!?
この本社で、そんな下らない事が……。
ヒロは困惑しつつ、緊張を含む声で答えた。
「………社内トラブルの兆候。ですよね」
「そう。そしてその理由は嫉妬だ」
「嫉妬?」
「あいつは統括官昇格の最年少記録を俺から更に塗り替えた、今や『社内の歴史に名を刻んだ成功者』なんだ。嫉妬の目線を向ける奴が1人もいないと思うか?」
そうか……。言われてみれば確かにその通りだ。
だけど、その考え方には疑問が残る。
「うーさんは元々、本社で大いに実績を出しまくっていたはずです。どうして今更になってそういう輩が現れるんでしょう?」
「強烈に皮肉な話だし認めたくはないが、神松が抑止力になってたんだ」
ヒロはここでふと、神松と目を合わせた時に味わった、筆舌に尽くし難い緊張感を思い出す。
そして、ヒロは全てを納得し頷いた。
「鹿沼がどれだけ実績を残し認められても、嫉妬の矛先を向けられることはこれまで一切無かった。何故ならあいつは公衆の面前で毎日のように上司に怒鳴られる、エースという名の悲劇のヒロインだったからだ」
そうか……つまり。
皮肉な形ではあれど今までうーさんはずっと、神松さんに守られていたって事か……。
「かといって俺と鹿沼じゃ根本的な考え方が違いすぎるから、鳴上と須藤に協力を仰いだんだ。自分を守ることの出来る方法を、それとなく鹿沼に教えてやってくれとな。あいつらはその辺を誰よりも抜かりなく出来る奴らだから、適役だと判断した」
「…………!」
「鹿沼は深く傷つけられると、感情を失っちまう。身を守る上ではそうなるのが確かに手っ取り早いが、あの状態だとエスカレートした時に取り返しがつかないくらいやり返しちまう可能性もある。だから、そうはならないような方法にしてくれと付け加えた」
うーさんは身に覚えのあり過ぎる話に、輝く瞳を大きく見開く。
全く想像もつかなかった。
まさか………突然プレゼントされた、あの本の山が。
「鳴上と須藤はそろそろ何かしら動いたはずなんだが、鹿沼は変わり映えするどころか下らねぇドジを踏みやがった。能力はずば抜けてるが、やはりドジは今も直ってねぇ。本社はキレ者揃いだから、隠そうとしたっていずれ全員に伝わるだろう。今後も自分を変えるつもりがねぇなら、バッシングが酷くなる前に統括を降りてもらった方が安全と考えた。だからスパッと諦められるように、厳しい態度を取ったワケ」
うーさんは口を抑え声を押し殺して、ぽろぽろと涙を流した。
鳴上と須藤の、ふざけていながらも真剣さの伝わる態度を思い返す。
あのキツい言葉の羅列は、自分の身を守るため、攻撃してくる人間と戦うためのもの……。
鳴上と須藤がうーさんに対してどう動いたのかをまだ知らないヒロだったが、点と点が繋がる感覚を覚えた。
『そういえば。鹿沼殿に最近なにか変化は無かったか?時枝殿』
だから鳴上はあんな質問をしてきたんだな。うーさんが自分の身を守る術を身につけているかどうか、確認するために。
葛木の、うーさんに対する厳しい態度の理由をハッキリと理解出来たヒロはしっかりと頷いてみせた。
「低くて不幸な人間達にとって、高くて幸せな人間を見るのは苦痛だ。自分の方がまさってる点を粗探しし、ひけらかす事ばかりを考える。そして、まさってる点が無い奴はやがて嫌味や陰口を言う。そういう奴らにとって嫌味や陰口は『食事』や『睡眠』みてぇなもんだ。何故ならそれをしないと、人の形を保てねぇ化け物だからな」
ヒロと葛木はしばらく無言になって、喫煙所の汚れた壁紙を見つめていた。
化け物。
心当たりが、あるじゃないか……。
直近の、俺と渚の出来事に。
「そして、鹿沼は決して他人に神松の陰口を言うことは無かったし、誰かの嫌味や陰口を言ったなんて話は聞いたことがねぇ。それは本当に立派なことだ」
「………はい。その通りですね」
そして、渚も。″ぱる″の低俗な人間達を、まるで相手にしなかった。それどころかあいつは、芽瑠に俺へ謝罪させることだけを考えていた。
″ぱる″で傷ついた事なんて、渚は一切俺に言ってこなかったんだ。あいつはずっと独りで戦って、傷つき続けてきたんだ。
渚も、うーさんも、本当に高貴で立派な子達だ。
傷つく事なんか無い。
あんな奴らの言葉、耳を傾ける必要ないんだよ!!
「だがそういう『立派な』奴は、身を守れなければ心無い奴らのサンドバッグにもなり得る。素直でお人好しな奴であればあるほど、気をつけなくちゃならねぇ事だ。まぁあそこで俺に何一つ言い返せない時点で鹿沼は変われっこねぇし、自分なんか守れねぇよ。言葉は内側にきちんとあるんだろうが、それを吐き出せるタマじゃねぇのさ」
反撃を選ばない立派さは、程度の低い相手には『こいつは反撃出来る言葉も勇気も無いんだ』としか映らない。
『負けを認めた』『黙って誤魔化している』と見なされて更に攻撃を受けてしまう。
だから自分の中にある事は、声を大にして言わなくちゃいけないって事なんだ……。
戦わなくちゃ、いけないんだ。
葛木さんが言いたいのは、そういう事だろう。
渚の虚しそうな、俺と普段一緒にいる時の笑顔とは正反対の表情が瞼の裏に蘇る。
そして誰よりも思慮深くて熱心なうーさんが、弱音を吐くところも。
………お前たちがこれ以上傷つけられる所なんて、俺は見たくない。
今すぐ渚とうーさんに、会いにいかなくちゃ。
これ以上あいつらが元気を失う未来なんて、俺がこの手で無理やりにでも、力づくでも回避させてやる。
渚。
いくら約束だろうと、もうあんな腐った人間ばかりの場所にお前が行く必要は無いんだよ。
仮に約束を守るとしても、あのままじゃ銀バッチや芽瑠の思うツボだ。身を守る盾と、反撃を喰らわす矛がなくちゃいけない。
『人は自由に生きるべきなんだよ!ヒロがヒロ自身を壊しちゃう、その前に』
その言葉。
そっくりそのまま、今のお前に返してやる……!!
「葛木さん………!!!ヒントが見つかった気がします!!本当、ありがとうございました!!俺、何とかしてみますぅぅぅ!!!」
ヒロは確信と自信に満ちた瞳で、葛木にキラーンと親指を立てると、物凄い勢いで喫煙所を飛び出し走り去って行った。
「どいつもこいつも、何で走り去って行くんだ……」
葛木はぽかんとしたまま、開きっぱなしになった喫煙所のスライド式ドアを見つめていた。
陰でずっと俯きながら聞いていたうーさんは震える拳をぎりぎりと握りしめて、やがて顔を上げ目の前を、ハッキリと澄んだ瞳で見据えた。




