第52話 覚悟も無しに、大切なものを守れるか
ヒロはうーさんを力強くリードして、追い詰められていたメンタルを癒し、再びうーさんの瞳に光を灯した。
しかし、うーさんの不運が再び巻き起こる。そしてその規模は、過去最大のものだった。
そしてそれがインシデントに繋がり、無情にも葛木に降格を言い渡される。
葛木が去った後、2人はその場に崩れ落ちた。うーさんのボロボロにひしゃげた泣き顔を見て、ヒロもズタボロに涙を零す。
渚を、助けられる訳ねぇじゃん。
すぐ目の前のうーさんすら助けてやれなかった、俺なんかに。
何も出来なかった。どうしようもなかった。
何で何の違和感にも気づけなかったんだ?柳さんに、あれだけ念押して忠告されたのに。
俺は、バカだ………。
バカすぎて、救いようがない………。
完全に絶望に飲まれたヒロと、ヒロの気持ちが嬉しかったうーさんは、どちらも長い間その場でえぐえぐと泣き続けた。
「ひーくん……。先に、帰っていいからね。わたし、ここの荷物をまとめてから帰るから」
咽び泣き終えたうーさんは涙を拭い、ヒロの耳元でそう言って立ち上がった。
「ありがとう。ひーくんに、勇気もらえたよ。明日からもわたし、頑張れそうだから。ひーくんもちゃんと明日からも来てよ?」
ボロボロに泣き続け鼻水を垂らすヒロの頭を、うーさんは優しく、ゆっくりと撫でた。
「いい子だね。ひーくん」
そう言ってヒロに優しく微笑んで、うーさんはしっかりとした足取りで管理室を出ていった。
トイレにでも行ったのかな。
管理室に、独りきりになったヒロ。
……………ふざ、けんなよ。
独りになったヒロの腹の中に煮えたぎるように湧いてきたのは、大きな大きな『怒り』だった。
何が、『出来損ない』だ。
何が、『自分が何したか分かってんのか』だよ。
何も分かってないのは、葛木さん。
あんただろうが…………!!!!
絶対に許さねぇ。
俺の大切な人を侮辱する奴は、誰だろうと絶対に許さない………!!!
大いなる怒りの炎をその胸と身体に宿したヒロは、怒りに身を任せて管理室の扉を引き、歩き出した。
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どうせあの人は、ここに居る……。
ヒロが怒りに拳を握りしめて訪れたのは喫煙所だった。
スライド式ドアを引くと、ガラガラと音を立てる。
案の定、そこには眠たそうな顔で煙草の煙をフーッと吐き出している葛木の姿があった。
葛木は入ってきたヒロを、珍しい人を見る目で見つめた。
「よぉ?どうした」
あくまで今回叱責の対象となったのはうーさんであるため、葛木はヒロの事を何とも思っていないかのようにケロッとした顔をしている。
「葛木さん……。すいません休憩中に。うーさんに、少し厳し過ぎないですか?統括の代役なんて、他に居るんでしょうか」
「いねぇだろうな?鹿沼で無理なら、もう現場統括自体を廃止にしようと思ってる。出来ない人間にやらせるつもりはねぇから、年功序列で上にスライドって手も存在しねぇ」
それを聞いたヒロは拳を握りしめる力を更に、じわじわと強めていく。
「結局俺が全部やることになるから、俺の負担も責任も倍になる。俺が早死にしたら鹿沼のせいだな?なんつって。ワハハ」
ケラケラと笑い出す葛木。
ヒロの瞳に、鋭い光が宿っていく。しかし葛木は全く気づかない。
そして震えながら絞り出すように、それでいて力の籠った声を紡いでいく。
「それなら、どうして……。あんなやり方、うーさんのメンタルを追い詰めるだけじゃないですか。責任が重いとはいえ、最初から上手く出来る人なんかいないでしょ。それくらい分かってるんじゃないんですか?」
「は?ンだよ急に」
何を知ったように、と戸惑いと呆れの表情を浮かべる葛木。
しかし、ヒロは真剣な眼差しでその勢いを止めなかった。
「監査の時、神松さんと壮絶な言い合いをしてうーさんと俺を庇ってくれたんですよね。その事もその内容も、鳴上から聞いてます。その気持ちはもうどこかにやってしまったんですか」
「あぁ………?なんかさぁ……さっきから生意気な口ぶりだな、お前。いつからそんなに偉くなったんだ?教えられないと分かんねぇか?俺とお前じゃ、立場が全く違ぇんだよ」
葛木は眉を吊り上げて、表情に怒りを滲ませてヒロのすぐ目の前まで歩み寄り、その顔を睨みつけた。
「俺は当時の統括官として守らなきゃならねぇものを守っただけだ。ここは馴れ合いの場所じゃねぇ。都合のいい勘違いしてんじゃねぇぞ」
静かな口調とその気迫に、殺されそうな程の威圧感があった。
この人に、俺は何度も助けられた。
渚と連絡が取れなかったあの時だって。他でもない葛木さんの言葉で俺は動けたんだ。
………何も、口答えなんか出来る訳が無い。
だけど。
ヒロは唾を飲み込んだ。そして。
「…………勘違いなんかじゃないはずです。その話を聞いてたからこそ尚更、今葛木さんが考えてることが俺には分かりません」
自信の無い瞳でありながらも力の籠った声で、葛木の目を真っ直ぐに見つめ返し反論をした。
うーさんがボロボロになって涙を流す光景が、瞼の裏に焼き付いて離れないからだ。
しかしそれを聞いた葛木は怒りを通り越して、すごく面倒くさそうな顔をした。
「………なんか、マジでどうしたんだ?お前。鹿沼が降格して、お前に何のデメリットがある?さっきも言ったが、負担が増えるのは俺だ。そもそも命令に不服なんだったらそれを申し立てるのは本人から直接すべきもんであって、お前がとやかく気にすることじゃねぇだろ?」
「…………」
「急に熱くなりやがってよぉ。早死にうんぬんは冗談に決まってんだろうが。目にクマ出来てっし。疲れてんなら寝ろな?有給取れよ有給」
付き合い切れねぇ。
そんなふうにだるそうな仕草でさっさと煙草を消し、葛木は喫煙所のスライド式ドアに手を伸ばしてしまう。
「こっちは暇じゃねぇんだよ。俺はもう戻るぞ」
ダメだ。葛木さんに俺の思いが何も伝わらない。
葛木さんはとんでもない業務量のはずだ。
そんな葛木さんが休憩から戻るのを、俺なんかに止める筋合いは無い。
だから、見送る他は無い。
その去っていく後ろ姿を、見つめることしか……。
………渚。
………うーさん。
ごめん。俺じゃ………2人を、助けてやれないみたいだ。
ヒロの目には、大量の大粒の、後悔の涙が滲んでいく。
葛木さんの怒りが収まったのを感じて、安堵した自分に心底腹が立つ。
この涙に安心を含んでる自分の顔を、思いっ切りぶん殴ってやりたい。
フラッシュバックする。
渚が負けを告げられて、立ち尽くす光景。
うーさんが俯き、諦め弱音を吐く光景。
俺じゃ、2人を助けてやれないのか?
大切なたった2人の笑顔すら、守れないのか。
何も力になってやれないのか?
クソ……クソ!俺が甲斐性なしだから。
何も気づいてやれないグズだから!!クソ…………!!
ごめん……。2人とも。ごめん…………!
ヒロは諦めかけて、そのまま下を向いた。
『挨拶は常識に入らないんですかっ!!!!』
その時咄嗟にヒロの脳裏に思い浮かんだのは、神松に最後の別れを告げる時のうーさんの後ろ姿だった。
そうだ。うーさんは最後の最後にぶん殴られる覚悟で、大声で神松さんと対等に渡り合ったんだ。
あの時うーさんは怖かっただろう。崩れ落ちそうだっただろう。
俺だって………。そんな覚悟も無しに、大切なものを守れるかよ……!!!!
ヒロは拳を固く握りしめて、全身に力を宿した。
そんなヒロの気の変化に、多忙で一切気づくことの無い葛木は、スライド式ドアを既に引きかけていた。
そんな葛木に向かって、ヒロは腹の底から思いっきり叫びをぶちかました。
「あんなクソみたいな言い方も、やり方も…………!!!!神松さんの指導と変わんねぇどころか、それ以下だろって言ってんだよ!!!!!」
喫煙所とその周囲に、ヒロの声がこだました。
約3年以上もの間、一緒に勤めていて初めて自分に対して激昂したヒロ。
そんなヒロに葛木は振り返り、心底驚いて目を見開き見つめた。
やっと、真面目にこっちを見やがったな………!
だけどやっぱりそういう事だ。目の前が証明してる。
あの時のうーさんくらいの力でぶつからなきゃ、葛木さんは何も話してくれなかったって事だろう。
「うーさんが降格すれば、葛木さんの負担は倍になって、うーさんはメンタルにダメージを負う。僕らの中の誰にも、メリットなんかありませんよ」
真剣な眼差しで、勇気を振り絞って言い切ったヒロ。
微かに震えながらも確かに怒りをはらむヒロの顔を、葛木は表情を崩すことなく静かに見つめていた。
そしてヒロは、その心臓が止まりそうな程の恐怖に駆られていた。
ぶん殴られる。怒鳴り返される。
だけど……。
俺にはそれでも、守りたいものが。守りたい人が、俺にはいるんだよ!!!
10数秒の、心地の悪い沈黙。
そして。
「……………クックックック。ハハハハ!ハッハハハハハハ!!!!」
葛木は少しずつ微笑みを見せて、やがて喫煙所の外にまで聞こえる程大きな声で笑いだした。
腹から大声で笑う葛木を、ヒロはじとっとした目で見つめる。
こっちは真剣に話してるってのに。
全く……ほんとにデリカシーがない上司だな。
「あァ………。そうかもな。本当に困ったもんだぜ。俺とした事が神松がほざいてた言葉の本当の意味を、今更になってようやく理解するとはよぉ。俺は鹿沼を助けた気でいたくせに、結局最後は神松と同じ結論しか出せなかったんだ」
ヒロの真剣な叫びをぶつけられた事によって、まるで気持ちが晴れたように表情穏やかに天井を見上げる葛木。
怒鳴り返されると思っていたヒロは、逆に困惑してしまう。
「教えてやるよ。お前の求める答えをな」
そして、うーさんは喫煙所の裏で、最初から2人の会話を耳をすませて聞いていた。ヒロの言葉に、叫びに、胸の内を熱くしていた。
きっとひーくんなら、葛木さんと何か話をしてくれるかもしれない。
そんな計算通りの自分に、自己嫌悪を抱きながら。




