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第49話 目を瞑ればそこは、夢と現実の境界線

あの勝負の日から、5日が経った。そして渚が″ぱる″に復職するまで、残り1週間となった。


俺が渚を″ぱる″に連れていかなければ、こうはならなかったのに……。


軽率な行動だった。渚を、精神的に支えないと。


本社、ミーティングフロア。

各部署管理職者を集めてのミーティング。参加者は約300名程。ヒロも当然参加していた。


普段は統括官のうーさんが指揮を取るが、現在出張中でミーティングには不参加だ。


うーさんはここ最近出張で、丸1日居ない事が多い……。本当に忙しい立場みたいだ。


そして今回は珍しいことに、セントラルマネージャーである葛木が指揮をしていた為、フロア内は緊張に緊張が上乗せされていた。


「………ふぁー……。……あ、俺喋っていい?」

「勿論です!!」

「ハイ。きちんと遊んでください。仕事がある理由が人の生活のためだってンなら、遊ぶ事だって同じなワケです」

「承知しました!」

「「承知しました!!!」」


マイクを受け取った葛木は大きく口を開けて欠伸をしながら、今にも寝そうな程だるい声でミーティングを締めくくった。


何だこりゃ……。よくこんなんでまとまったな。


ヒロは寝不足で出来た、目の下の大きなクマを人差し指で擦った。


そして、他の者達に続きフロアを出ようとした時の事だった。


「時枝殿」


キリッ。


唐突に自分の名を呼ぶ声。横を見ると、片足立ちをして手にハートを作り、こちらにウインクをする鳴上が立っていた。


ヒロは鳴上に背を向け、全力で走り出した。咄嗟に鳴上もクネクネとした気色の悪い猛ダッシュでヒロを追いかける。


「待ってッ!!待ってくれェ〜〜〜ッ!!!時枝殿ォ!無視はあんまりでござるよォ!!虫は無視しろ、なんつってッ!?ドゥッフフフフフ!?」

「あなた誰ですか?知らないです。ちょ、来ないでもらえますか?」

「酷すぎる」


ヒロは鳴上と自販機でペプシコーラを買い、一緒に休憩に入った。


鳴上は自販機に寄りかかりわざとらしくキザな仕草を演じていたが、やがてヒロの顔色を見て表情に真面目さを帯びる。


「時枝殿。……少し元気が無いようでござるな。寝不足のようだし」


結論、ヒロは仕事が手につかない心境だった。自分の軽率な行いのせいで、渚が散々嫌がっていた″ぱる″に復職させることになってしまったからだ。


渚………。渚も″ぱる″での勝負以降、目に見えて元気が無い。


ずっと渚が心配で、仕事どころじゃないというのが正直なところだ。そしてそれが行き過ぎてか、昨晩はほとんど寝れなかった。


だけど、どうしたら渚の力になってやれるだろう。


心ここに在らずでも、どれだけ眠くても、時間は流れるし働かなくちゃならない。

なんて残酷な世の中なんだ。


「あぁ。……ごめん。ちょっと色々あってさ」

「時枝殿の事だ。どうせまた草津殿の事だろう?」

「流石にバレるか……」

「悩みの尽きぬ″漢″……。名誉な事だな!優れた者にのみ与えられし、誇れる勲章でござるよ」

「何だそりゃ。踏ん切りつかない情けない男なだけだよ」


ヒロは何ともなしにちらりと鳴上を見た。呑気にペプシコーラをがぶ飲みし、炭酸と冷たさに、目を見開き苦しそうにこめかみを抑え始めた。


でも、アホの鳴上の姿をこうして見てると俺もパワーを貰えてる気がするな。


『あいつに、ヒロに謝らせたかった………!!悔しい……!悔しいよ………!!!』


散々侮辱を受けたのに、渚が最後の最後まで憤っていたのは、芽瑠の『俺に対する』言葉だった。


そんな渚だから、あの勝負に勝って欲しかったのに。


しかし……寝不足が加速して、頭が回らないのがはっきり分かる………。今日は帰ったらすぐに寝ないとな。


「そういえば。鹿沼殿に最近なにか変化は無かったか?時枝殿」


ヒロは不意の問いに、顔を上げた。鳴上の表情は普段通りだが、声色に真剣みが強まった気がする。


この間会った時、やたら元気でアグレッシブだったのは覚えてる。確かにあの時は、明らかにいつもと違ったけど。

あれを変化と言っていいのか?分かんねぇわ。『この間、いつもより元気だったよ!』と今言ったとして、それが鳴上に何が影響するか、鳴上が求める答えなのかが全く分かんねぇ。


「うーん、別に変わった事はないかな?でも、すごく元気だよ」

「ふむ………」


鳴上は何やら難しい顔をして、ペプシコーラを飲み干した。


ヒロも眠たい目を擦りながらコーラを飲み干すが、眠気はほとんど覚めなかった。


会話が無くなって、2人して窓の外を眺めた。外では強い風が吹いて草木が大きく揺れており、ガササッという音がこちらまで聞こえるかのようだった。



------------------------------



日が沈もうとしている。


夏の準備が始まった空は、日が昇ってる時間が長い。時刻は既に17:30を回っていた。


夕焼けの空の下、満員電車の端っこの椅子に座るうーさんは、帰りつくまで本を読もうと鞄から本を取り出した。決して中身を周囲に見られないよう、ブックカバーが外に見える角度になるよう動きに気をつける。


今読んでいるのは、『1日15分のトレーニングで1週間であなたも罵倒のプロ♫ 〜中級編〜』。既に残り半分のページまで読み進めていた。


しかし、うーさんは途中で読むのを辞めてしまった。本をしまい、悩ましい表情で目を瞑り俯く。


だめ……。まず一番最初のページの『罵倒の良さについて語る』の時点で全く共感出来ないし、出来る気もしない。


インターネットでも色々勉強してみたけど、どの考え方に基づいてもひーくんが罵倒されて喜ぶタイプなわけないよ……。


そもそも、やっぱり喜ぶ人は極少数派に限られる。

一部の、『ヘンタイ』さんだけ。


鳴上さんと須藤君は、どうしてこんなものを勧めてきたんだろう。


まさか無いとは思うけど、本当は自分達が罵倒されたいだけなんじゃ……?

男の人ってそんなにおバカなの?


わたしに『才能がある』って、どういうこと……?


鳴上の熱意に感化されたうーさんは、まずは頑張ろうという意思があった。まずは罵倒する人間らしく、元気な人を演じていた。


しかし、その意思も打ち砕かれる寸前まで来ていた。


やっぱりわたしには、こんなの難しいよ……。


その時、会社用スマートホンに葛木からの緊急連絡が入った。そしてその連絡内容を見て、心臓が止まりそうな思いに身体がこわばり動かなくなる。


うそ。これ……。



------------------------------



渚のアパートを月明かりが優しく照らしている。空と街は闇に包まれ、時計の針は11時をさしている。


もうかなりいい時間だが、そんなことはどうでも良かった渚はベッドに寝っ転がって、ぼーっとスマホを眺めていた。


″ぱる″への復帰まであと1週間となり、いよいよ渚の心は非常に強いストレスを抱え、爆発寸前となっていた。


ヒロ………。


返信くれない。もう寝ちゃったのかな?


最近、ヒロがかなり私に気を遣っている。はっきりと分かる。だからこそ胸が痛かった。


きっと、疲れちゃったんだろうな。

私のせいだね。ごめんね、ヒロ。


明日になれば、またいつも通りにヒロとお話が出来ると思うけど……。


なのに、私の心と身体はなかなか理解してくれない。

もう寂しくさせないって、言ったくせに。

私のわがままな心はそればかりを繰り返して、涙を滲ませていた。


ヒロとろくにお話出来ないまま、こんなに強いストレスを抱えたままこの時間になっちゃった。


そんな夜は決まって性中枢がバグり散らかして、必ずこの『波』が私を迎えにやってくる。身体にあの感覚が、『染み付けられている』。


室内は暗闇だが、やがてその空気は妖しく澱み始めた。


消したはずなのに、どうしても見たくなって復元してしまった。見た瞬間に心地よく心臓が跳ねて、身体が求め震えた。


小圷君と、車の中で手と手を繋ぎ合った写真。


こんなに忘れたくて仕方が無いのに、ずっと忘れることが出来ない。


まるでどんなに石鹸でごしごししても、どんなに良い洗剤と洗濯機で洗い落とそうとしても落ちない、しつこい汚れが服に付いてしまったかのように。


油汚れは落とせてもその匂いだけが染み付いて落とせないみたいに。


今までに感じたことの無い程に強烈な背徳感と快楽が全身を駆け巡ったあの夜が、ずっと頭から離れない。


確かに唇は守ったのかもしれない。

だけど、私の脳みそは………思いっきり、汚されちゃった。


『あれ』が、欲しい。

身体が、求めちゃってる。


これ以上はだめ。そう思えば思うほどに、小圷君と繋ぎ合った手と手の写真から決して目を逸らさない私の瞳は大きく大きく見開かれていって。


どんどん瞳孔が開いて。


汗が吹き出して、心臓の音が高鳴って…………。


小圷君に抱き寄せられた、あの時のあったかさ。


このお布団みたいに優しくて、柔らかくリードして私の心を包んでくれて……。そして。


ふっ。ふっ。ふっ。ふっ。ふっ。ふっ。


暗くて淀んだ部屋に響き渡る、頬を紅潮させた渚の乱れた呼吸音。


それは自発的に出しているというよりも『まるで外部から加えられた力によってひり出されているような』、穴を開けて空気が抜けてしぼんでいく風船が手でぎゅっぎゅっと押し潰されて、無理矢理早く空気を抜かれていくような、無様で惨めな呼吸音。


もっとして。もっと、もっとその目で、私を………。


疑問に思う。

こんな気持ちにさせられて私、どうして涙が出ないの?


ヒロに許してもらったから?


『………君は結局、僕と同類なんだよ。最低だね』


ふぅっ。ふぅっ。ふぅっ。ふぅっ。ふぅっ。ふぅっ。ふぅっ。ふぅっ。ふぅっ。


はっ。はっ。はっ。はっ。はっ。はっ。はっ。はっ。


自分が自分を罵倒して冷たく突き放したはずなのに、脳みそを舐め上げたその声は……。


やめて。来ないで。現れないで………!


それなのに、その罵倒に胸が心地よく呼応したかのように、手の動きは強くなっていく。


そして渚は思い出したようにヒロから貰ったレッグチェーンを手に取って、右太ももをキツくキツく締め上げた。


ぎちっ、ぎち………っ。


「っはぁあっ………………!」


浅く短い呼吸が、激しい口呼吸に変わっていく。


再びスマホ画面を見つめて見開かれた瞳孔は、更に大きくなっていく。


車に乗る度に、傍に寄る度に優しく鼻をくすぐった小圷君の甘ったるいムスクの香り。脳裏に蘇ったそれに鼻と脳の奥を心地よくぐちゃぐちゃに掻き回される。


あの香りに包まれて、腕を強く引っ張られて。そして……。


『気持ちよくなれたね?良かったね。これで君は、一生負け犬の恥知らずだ』


そんなこと、言われちゃったら。


もう、私………。


「んぅ……………。好き…………っ」


レッグチェーンを投げ捨てた渚はその強い強い罵りに合わせて、ぎゅう………っと強く押し潰した。


それは奥まで深く深く。そして圧迫されて鈍く、重たく全身に響くようにどくっ、どくんと脈を打つ下腹部。突き刺されて、ビクッビクッと激しく痙攣する全身。


一生大切にすると決めた、ヒロからのプレゼントのチョーカーを乱暴に引っ張って首を締め上げた。


「………っ……かっ……ぁ」


ヒロっ。ヒロ………。私、最っ低の女でしょ?


ヒロの彼女だよ。


ヒロの……か、の、じょ。


『完全に、敗北しちゃったね。あの子にも、自分自身にも』


そう……。


負けちゃった。私は負けちゃったの。

あいつにも自分にも。


あんな人間として低い奴に、歳下に、私のたったひとつしかない取り柄で打ち負かされて、見下されて。


大好きなヒロを、酷い言葉で侮辱までされて。


しかも挙句の果てそいつに私、来週から従わされちゃうんだよ?


こんなに最低で最悪な事なんてこの世に他に無い。


それなのに、こんなに、私……。


はぷっ……。れろっ。べろべろっ。

ちゅうっ。ちゅるっ。ちゅるるっ。じゅるっ。


渚は大切なヒロとペアシリーズの犬のキーホルダーを口に咥え、舐め上げ、夢中になって音を立てながらしゃぶり尽くした。


大切なレッグチェーンを投げ捨てていた事はおろか、いつの間にか右足で踏みつけている事に渚は気づく気配すら無かった。


『あーあ……。ハハハ。君、ほんとに負け犬になっちゃったね』


そうだよ?


私は首輪が似合う、惨めなワンちゃんなの。


生きる価値なんかない、カスみたいな女なの。


ヒロがいなくちゃ自己肯定感0。まともに他人とコミュニケーションも主張も出来やしない、自己否定ばっかのゴミ女。


快楽にも欲にも抗えないバカ女だから、飼ってもらうしかないの。


私なんかが、ヒロに相応しい女な訳ないよね?


『気持ち悪い女』


「はぁ…………っぁ!好き………っ!!もっと………!もっと言ってください………っ!!」


最低って言ってよ。


嫌いって言って。


冷たい目で見下ろして。


気持ち悪いって突き飛ばして。


ヒロに言われたいの。ヒロにされたいの。


他でもない、私を大好きでいてくれてるヒロに……。


へっ。へっ。へっ。へっ。へっ………。


高まりに高まり、燃えるような熱さの渚の身体と胸は、野性的で原始的な欲望が溢れるほどいっぱいに満たされていく。


自分の舌が半分だらりと出ていることにすら、渚は気づかなかった。


スマホを手に持っていられなくなり、視界から得る情報を脳は一切処理しなくなり、平衡感覚も前後左右も何もかも分からなくなっていく。


呼吸の方法すらも完全に忘却し、酸素が不足していく。しかし、それすら癖に感じさせる程強烈な快楽はもはや、ゆっくりと死を垣間見える苦しみにすら近かった。


汗は止まらず全身をぬめらせるが、それすら心地良い夢と現実の狭間で。


私はもう、戻れない。




──────────あ。


………あれ?いつの間にか、私。


スマホの時計は既に深夜の2時を指している。襲い来る眠気によって、ようやく意識が正気を戻り出したのだ。


眠気という重たい電気信号が、脳みそ全体を侵食するように満たしていく。入れなかった夢の中へ今度こそどうぞ、とでもいうように誘われていく。


20分くらいしか経ってないと思ってたのに。もうこんな時間……?


闇の中視界が慣れてベッドの上を見渡せば、虚しく映るのは汚れてしまったシーツ、キーホルダー。


電池がやたらと減った、大嫌いな人間と繋ぎあった手と手が全画面に映し出されたスマホ。


散らかり放題のゴミやモノ、その他諸々。


そしてぽつんと取り残された荒い呼吸と、暗い暗い自己嫌悪感。


瞼が重くて全部面倒臭くて、全身の汗も心の中も籠って淀みきった空気も気持ち悪くて、渚は大きなため息を吐き出した。


渚は傍に置いていたペットボトルの水を、くぴっくぴっと飲み干した。


そして雑に窓をガラガラと半分開けると、シーツをくるくると丸めて、パジャマと下着、スマホ、そして無造作に転がるその他諸々をティッシュで拭いて全部ベッドの外にぽいっと放り投げた。


着替えるだけ着替えて横向けにごろっと寝っ転がり、枕を胸にぎゅっと抱いて身体を縮こまらせた。


だけど……これでも足りない。

1人の時とそうでないのとで天と地ほど違うのをもう、これでもかっていうくらいに覚えちゃったから。


本当に私、ヒロと結婚出来るのかな。


あのピクニックの時のプロポーズを受け入れてたら、こうはなって無かったのかな。わかんない。わかんないよ……。


私が弱気になっちゃダメって、分かってるのに。


叱って。

思いっきり怒鳴りつけて………私を、叱ってよ。

ヒロ。


このままじゃ。このまま″ぱる″に戻っちゃったら、私………。


目を瞑ればそこは、夢と現実の境界線。


何よりも心地よくて美しい、永遠の満天の夜、その混沌に全身を委ねて、渚の意識はぷつりと遠くへ落ちていった。




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