第45話 ″″真に優秀で逞しい漢″″
夕日が綺麗な空の下を10数分歩き、ヒロと柳は本社近くにある小さなバーを訪れた。老舗のような雰囲気を放つ、薄暗く小さな木造のバー。
扉を開けると落ち着いた内装に、同時に鳴ったカランカラン、という鈴の音。肩の力を抜いていいと言ってくれているかのようだ。
カウンターに座った俺達に、奥から現れたマスターが小さく会釈をした。
スラリと高い高身長。立派な白髭が鼻下と顎を覆い、優しく語りかけるような落ち着く声。まるで『サンタさん』のような風貌でありながら、鋭さのある瞳に眉間の皺から、その深い経験と人生観を想像させる。
「いらっしゃい、美夏子ちゃん。……おっ。そして隣のは、新入りさんかい」
「ますたー。ひげのかずがふえてるわよ。ひゃくはっぽん」
「ハッハッハ!そうかい?私もこんなに生きていながら煩悩が抜け切らないようだ」
ゆっくりとした所作で、マスターはヒロと柳の前にメニュー表を差し出した。柳はカルーアミルク、ヒロはウーロン茶を注文。
上品なグラスに注がれた氷入りのウーロン茶を見て、ヒロは少しテンションが上がった。
「これからひろしとじゅうようなはなしをするわ。きえなさい」
「はいはい。ゆっくりしていきな」
「優しすぎませんかマスター!?そして柳さん!マスターが可哀想ですよそんな言い方したら」
かといって柳さん、普段と口調も表情も変わらないから悪気は無い。……はず?マスターもあまり気にしてないようだし。大丈夫か……。
小さな手で丸いグラスを持ち、ちまちまとカルーアミルクを口にして微笑む柳はキュートの一言。パッと見はおさげの中学生がカクテルを飲んでいる脱法行為にしか見えないので、不思議な光景でも見ているかのようだ。
「いわかんにきをつけなさい」
「? 違和感ですか?」
「ひろしいがいにこのはなしをしてもしょうがないとおもったからいうだけよ」
突然口を開いた柳による、注意喚起らしき一言。だかヒロには何を気をつけたらいいのか皆目検討もつかない。
「すいません……柳さん。柳さんがすごいのは分かってるんですが、もう少し詳しく……」
「ちかいみらいよ。こうかいしてももうておくれになってしまうわ。ひろし。あなたをまもるのはちいさなちょっかんだけ」
カルーアミルクの高い度数に、ほんのり頬を赤くした柳。ヒロを見つめるその瞳は至っていつも通りだった。
ヒロは柳の言葉にどうしようもない胸騒ぎを覚えて、眉をたれ下げ俯く。
下げた目線の先にあるメニュー表の文字を、無意識に上から追っていく。まるで人生のヒントを、本能的に追い求めているかのように。
「そんな。……どうして」
「さあね。わたしがこうしてはなすのも、ちょっかんでしかないの。もしなにかきづいたらすぐにわたしにおしえることね」
「俺は……どうしたらいいんですか」
「だいじなものとだいじなひとをつねにみつめなさい」
ヒロはちまりとウーロン茶に口をつけて、小さく息を吐いた。グラスの小さくなっていく氷がカラカラ、と音を立てる。
大事なもの、大事な人……。
ものはともかく。本当に大事な人はもはや言うまでもない。ヒロは目を見開いて柳を見つめ、問いかける。
「………まさか。渚、ですか?」
「そのかのうせいもあるわ。だけど……ひろしがまだいわかんをおぼえていないならなんともいえないわね」
渚は直近で、男とトラブルを起こしている。俺が仕事で忙しかったことを言い訳に、連絡を返さなかったことが原因で起こった事だ。
俺は渚の心を深く傷つけた。あんな事が再度起こることは、絶対あってはならない。
「……分かりました。気をつけます」
そう返事をしたヒロはハッと思い出したかのように、急いでスマホを取り出して通知をチェックした。渚から既に返信がきている。
…………変なことが何もないといいんだけど。
頭をよぎる、ぶわっと表情を崩して涙を流す渚。あの時の渚は辛そうで、本当に心から悩んでいた。
胸を満たす嫌な予感に、ヒロは素早く指を動かしてライヌの画面を開こうとする。
うわっ。パスコード間違えた。
くそ!もどかしい!!
手と指が、ガタガタと震えてるんだ。まさか今日、こんなにテンパらされるなんて思ってもいなかった。
ま、また間違えた。くそ……!あと1回間違えたらスマホがロックされてしまう。ロックされたら次開けるのは1時間後……そんなに待ってられるか。
隣でヒロを冷静に見つめる柳の目にも、その表情と震えから焦燥は明らかであった。だが、敢えて何か声を掛けることはしなかった。余計な不安を更に煽る可能性があったからだ。
渚を失うのは、絶対嫌なんだ。
渚………!!無事でいてくれ。お願いだ……。
……よし!やっと開けたぞ!!
緊張に満ちた表情でスマホ画面を見て、その目を見開く。
『ぶひぶひぶひ。ぶひぶひー!!』
今日は何して過ごすの、とヒロが問いかけたのに対しての返信として表示されたのは、完全におちゃらけたメッセージだった。何で豚さんになってんだよ!?
うん。何もねぇな!?どうせ何も起こってねえわ!いつもの悪ふざけだろう。
今隣に渚がいたらきっと、心配し過ぎなんだけど!と言わんばかりにゲラゲラと笑って指を指してくるだろう。どれだけ心配してると思ってんだ。全く本当にこの女は……。
「どうやらあんしんしたようね。だけどゆだんはきんもつよ」
カルーアミルクを飲み干した柳がそう言って、ヒロを見てにこりと笑う。
全く……柳さんも俺をからかってるんじゃないだろうな。
そう一瞬思いつつも、柳の笑顔とは裏腹にその声色から真剣さを感じ取ったヒロは、そう茶化すことは到底出来そうにもないまま、胸に押し寄せる安堵に任せてウーロン茶をゴクゴクと飲み干した。
「はなしはおわったわ。ますたー。でてきていいわよ」
その声を聞きつけたマスターは、厳かにゴトッ、ゴトッと足音を立ててゆっくりと奥から歩いてきた。そしてヒロを見つめ、厳しさと優しさの混在した雰囲気で話し出す。
「初めまして。マスターの能間です。どうぞご注文があれば申し付けください」
「能間さん。柳さんの同僚の時枝と申します。ここはすごく居心地良くて、寛がせて頂いてます。あと、ウーロン茶すごく美味しいですね」
「そうかい?良かった。それは私の体液を捻出して作ったんだよ」
「え?」
「冗談だ」
ん?
まさかこのお爺さん……柳さんと同種のサイコパスじゃないだろうな?
ヒクヒクと反応と返答に迷い困り果てるヒロを横目に、柳は普段と何一つ変わらぬ涼しい表情で能間に素早く近づいた。
そして一瞬の隙をついた、強烈な股間を蹴りが炸裂した。
ズムッ!!
クリーンヒットした蹴り上げに、能間は股を抑えて勢いよく床に倒れ、悲痛な衝撃音が店内に響く。
「ゴブフォォォォォォア」
「きしょくのわるいことをいうものじゃないわ。うせなさい」
「や!柳さんん!?確かにそうですけどやり過ぎですって!!」
…………。
まさか『違和感』って、今感じたやつじゃないよな?
倒れ気絶する能間と、スッキリしたような表情を浮かべる柳。気を引き締めつつあったヒロの緊張感は、ガスが漏れ出ていくかのように失せつつあるのだった。
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デパートに出店されている、そこそこ大きな本屋。そしてその横にある、公共の休憩用椅子に厳かに腰を下ろし、腕を組んでいる鳴上と須藤。
2人はすぐ目の前に座るうーさんを見て、微かに笑みを浮かべていた。
その脇にいる新山と向井は、鳴上と須藤の意図が全く分からずに真顔を貫き無言で立っていた。
沈黙していたうーさんはやがて戸惑い100%で、キラキラ輝く瞳を大きく見開いて2人に向けて叫んだ。
「『誰もが喜ぶ罵倒の心得』、『正しい罵倒のコツ』、『気になるあの人への愛ある罵倒』…………。こ……これを読んでわたしにどうしろと!?このような趣味は、わたしには無いですよっ!?」
2人の計らいにより購入され、うーさんの手に持たされた無数の本。そこには、趣味として人に話すことは到底憚られるであろう事が書き連ねられていた。
「鹿沼殿には″″″″″才能″″″″″がある。よってそれをお主に与えるのみでござるよ」
「そんな。嫌です……。人が嫌がることなんて、したくないから。というか才能がある、の意味も分かんな」
「甘いッッッッッッッッ!!!!!!」
「ひっ………」
鳴上の、唐突かつ渾身の雄叫びにも近い声と剣幕で立ち上がり、うーさんは混乱を極めた表情でびくりとした。
デパート内にはまだ人が多いが、その人だかりが一瞬シンと静まり返る程の声量だったので、うーさんがビクつくのは当然である。
た……助けてえ……!
ひーくん……。
「勘弁してくれよ鳴上氏。まだ分からないのか。鹿沼統括はデリケートなお方なんだよ。時枝氏もいない今、そういった無礼な声と態度は」
「ゴホン。そうであった。鹿沼殿……失敬。真剣な話であるあまり、ついな」
黙りこくっていた須藤は普段の楽観的な態度とは打って変わって静かに、それでいて怒りを含む声で鳴上を制止した。それを受け、鳴上は態度を改め丁寧に襟を正し、座り直す。
その様子を見て、うーさんはますますこんがらがる。不信感を含む表情を崩すことが出来なかった。
分からない。2人が何を考えていて、どうして欲しいのか……。
「拙者らは、決して鹿沼殿を茶化す為に呼んだ訳では無いのだ。無礼は承知だが、まずはそこを理解してくれぬだろうか」
真面目で、少し申し訳なさを滲ませる態度の鳴上。そしてその言葉に、うーさんはほんの少しずつ心を動かされ始める。
スーパーで買い物していた時にばったりと出会った、鳴上との出来事が頭をふと過ぎった。
『正直……鳴上さんには嫌われてると思ってたんです。私』
『そうなんですか?僕も鹿沼さんには避けられてるとばかり』
あの時だってそうだった。失礼な態度だったのは、わたしだ。
こうしてわざわざ、時間を作ってくれたんだよね……。なのにわたし、緊張と不信感で震えてた……。
「ごめんなさい……。真面目なお話なのに、縮こまってしまって」
「いや!案ずることは無いでござるよ。こちらこそ配慮が足らず申し訳なかった」
ようやく鳴上とうーさんはお互いに微笑みを見せる。空気が少しずつ和やかになっていくのを感じさせた。
口を挟むことが出来なかった新山と向井は、和やかな雰囲気にほっと胸を撫で下ろす。
「………フッフッフ。それでは、ここで今日の″本題″イッちゃいましょうかね〜?ヒッヒッヒッヒ♡」
「そうでござるな?ヌフフフ、ヌッフッフッフ……♡」
ここで須藤がおどけた身振り手振りで本題を宣言し、鳴上もおでこに手を添えて意味深に笑い出す。その様子にうーさんは再び緊張で息を呑み2人を見つめた。
鳴上は満を持して、今日1番言いたいことを行った。
「″″″″″″″″真に優秀で逞しい漢″″″″″″″″の求めるもの……否、得るべきものは賞賛ではなく、『更に優秀な者』の罵倒なのだ」
「その通りだ!新山に向井!しっかり肝に銘じておけ」
「は………、……。はい!!」
「承知しましたっ!!」
「だっ、ダメだよ!?後輩達に変なこと吹き込んじゃ?」
「と、統括……!」
「身に余るお言葉」
後輩2人がこの教えに納得しているかは、新山が返答するまでの数秒の間が全てを物語っていた。うーさんの反論に、新山と向井は丁寧に頭を下げる。
正直に言えば、うーさんはその手のことを言われるだろうと予想をしていたので驚きは無かった。しかしやはり一切共感する事が出来ず、顔を引き攣らせる。
「かといって当然だが、罵倒し続ければ良いという程単純なものではない。つまり、勉強を要するのだ」
「はあ……」
「では鹿沼殿の真に守りたい者が、罵倒で喜ぶとしたらどうだろうか。そこにある本は、鹿沼殿にとって最高の資料になるのではないか?」
その言葉に、うーさんはぴくりと反応する。
連想した人物は、たった1人だけだ。
…………ひーくん。
考えてみれば平常時のひーくんは割とドライだから、何に喜んでもらえるのかとか、分かりづらかったけど。
まさか。ここに振り向かせられるヒントが…………!?
そうだよ。ひーくんは優秀だから。あの神松さんだって、優秀って認めてくれてたくらいなんだから……っ!
もしかしたら……。
人並外れて想像力豊かなうーさんはやがて、ヒロが頬を赤らめ、自分を求める光景を想像し始める。
そ、そんな。まさか、ね?
ふふ。ふふふ……。
そしてうーさんは思わずごくりと唾を飲み込み、5割の混乱、4割の躊躇い、1割の期待を胸に秘めて、手元の無数の本の表紙を見つめていた。




