第44話 ヌッフゥ〜〜〜〜〜〜〜〜ン♡
本社、管理室。
統括業務の補佐を任命されたヒロは緊張に顔を強ばらせ、うーさんの横についてモニターを見つめていた。
そして間もなく、本日の必要ノルマを達成した旨の通知がポコンという音と共に画面右下に表示された。それを見てヒロは思わず息を呑んでしまう。
時刻はまだ14時。本当に早すぎる……。しかも凄いのはこの時間で毎日安定していること。早い時は12時にはノルマを終えてしまう日もある。毎日がこんな状況なので、残業もほぼ発生しない。これが本社か。
支社であれば今頃、激務に皆が毎日走り回っていた上に、終日ノルマ未達成はざらに起こる事だった。こんなに差があるもんなんだな。
ノルマが完了したにもかかわらず、引き続きモニターを眺めるうーさんの表情は一切変わらない。落ち着き抜いた、普段の表情のまま。まるで静かに、茶の間で1人好きな本でも読んでるかのように。
そんなうーさんが美人なだけあって、思わずヒロはその横顔に見とれてしまう。
かっこいいな、うーさん。だけど俺だって負けてはいられない。そんな思いが、力が込み上げてくる。
支社にいた頃は疲れた、立ち止まって休みたい、なんなら辞めたいと常日頃毎分毎秒のように思い続けていた。にも関わらずこの子を傍で見てるだけで、いくらでもまた馬車馬のようにでも頑張れる気がしてくる。
ヒロがそんな思いに耽っていた、そんな時だった。
突然、管理室内にある約30台のパソコン全てが原因不明のエラーを起こしてシャットダウンし、天井の照明の一部がガシャガシャンと大きな音を立てて床に落ち、破片が飛び散った。
「ぎゃーーーー!?」
「うぉぉぉぉおお!?うーさん!怪我してない!?」
「はう……ひーくん……ごめんなさい……」
「だ、大丈夫だよ!どうにかなるから!」
血相を変えて叫び、うるうると涙目になったうーさんを冷静にフォローして後始末を進めていく。相変わらず、うーさんの周りのものは突然理不尽にめちゃくちゃに壊れたり、取り替えが必要になったりしてしまう。
そして何とも運が悪い事に、うーさんのデスクの主要パソコンのみが単に故障であり、交換が必要となった。主要パソコンは特殊なネットワークに接続するため、他の端末と代替することは出来ない。
「今ここが使えないとまずいかも……。ノルマが達成されたとはいえ、この時間からそれぞれ会議や出張で抜ける人増えるから」
「俺が取ってくる。うーさんは待ってて」
「ごめんね。お願いしてもいいかな」
ヒロは管理室を飛び出し、走り出した。ヒロは本社の広さと複雑さに3回程道に迷ったが、周りに助けを求める事でどうにかパソコンを調達したのだった。
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ヒロが走っていった後の管理室。
扉を叩き、甲高い陽気な声を上げて入室したのは須藤だった。珍しい来訪者を見て、うーさんは少し目を見開く。
「いやぁ〜〜。鹿沼統括。本日はご機嫌麗しゅうですね〜」
「須藤君。そうかな?」
「時枝氏がいない時の統括はちょっと雰囲気が怖いんで……」
「うそ……?ごめんなさい」
「あぁいやいや。良いんですけどネ〜全然。やっぱり多少のトゲが無いと配下達もたるんできますし」
全く自覚が無かったうーさんは、ほんの少し戸惑いながら須藤を見つめた。須藤は統括席後ろにあるソファに腰を下ろし、あくまで笑みを絶やさぬまま管理室内を見渡している。
「今回はですね〜。統括に提案がありまして」
「提案?」
「昇格者の推薦です。2人程、骨のある男に目をつけていまして」
「新山さんと向井さん?」
「流石過ぎますね〜……!はい。その通りですよ」
須藤が推薦しそうな人選だなと予測していたうーさんは、名前をぴたりと言い当てた。須藤はスムーズに進んでいく会話にテンションが上がり、指をパチンと弾く。
本社も支社同様にメンバーの入れ替わりは激しく、昇格者を2人立てるのが直近の急務であったことからうーさんも候補を探しており、確かにその2人が良いだろうと考えていた。
しかし、まだ経験量に多少の懸念を残している。
「そしたら、まずは育成を任せます」
須藤は期待通りのうーさんの返答に、にやりと笑った。
「ありがたいです〜。それでは、1ヶ月程お時間を頂ければなと」
「1ヶ月で足りる?急ぎすぎても良くないから」
「お任せ下さい。どちらにしても、懸念事項ならば早期に取り除いた方が我々にとっても良いでしょう〜」
そう言い残し、さっさと立ち上がり管理室を出ようとドアノブを引こうとする須藤。うーさんは行く末を心配するように後ろ姿を見つめるが、須藤はその視線に気づく気配すら無かった。
バターーーーーン!!!!
「ンーーーーーーーッ!!!!″″″BIG love″″″」
須藤が出ていく直前に扉をとんでもない勢いで開き、美少女ヒロイン『甘目まどか』の決めポーズをうーさんに披露する鳴上がそこにいた。片足で立ち、その大きな両手でハートを作っている。
いきなりめちゃくちゃ強い力で開いた扉に押し潰された須藤は、ピクピクと死にかけの虫のようになり呻き声を上げながら壁に押し付けられていた。
「少し話をしようではないか。鹿沼殿」
何かの企みに満ちた、楽しそうな口調でそう言った鳴上は、開けたドアの裏で須藤が死にかけている事に微塵も気づいていなかった。
はは。
その光景を見て、うーさんは今すぐに他人のフリをしたくてたまらなそうな、乾いた笑みを零した。
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今日の業務が終わった。本社では定時1時間前の段階で帰宅ムードになるため、ヒロもうーさんも帰る準備が出来ていた。
こんな早く帰るのが日常になったら、もう他のとこじゃ働けないな……。ヒロはQOLがどんどん上がっていきつつあるのを感じながら、嬉しい感情を隠すようにゆっくりと鞄を手に持つ。
「うーさん。帰ろう」
「うん。……あのさ、ひーくん」
うーさんが少し躊躇いながらヒロを見つめて何かを言いかけた瞬間に、管理室の扉が開いた。静かに扉を開いたのは、飄々と澄ました表情の柳だった。
「あれ?みかちゃん。もう今日は終わりなのに」
「うーちゃん。あのね。きのうみたゆめに、ぴんくのふくをきたおとこのひとがでてきたの。がんだむみたいなからだをしていたわ」
「それ、きっと鳴上さんだよ……」
柳さんは誰よりも素早く帰る事で本社内でも有名なはずだけど、何故か定時を過ぎた今管理室に現れた。一体どうしたんだろう?
ヒロは疑問を解消できないまま頭で考え続ける。
というかピンクの服で伝わるってことは、ついに2人も『あれ』を見たんだな……。
そして唐突に、柳はうーさんのすぐ横にいるヒロに目線を向けた。
「きょうはひろしにようがあるわ。つきあいなさい」
「え。俺ですか?」
「どうせひまでしょう。このひまじん」
「はい。もうそりゃ全然暇ですけど……って!なんか失礼では!?」
言うだけ言ってさっさと歩いていく柳の背中を、もたつきながら追いかけるヒロ。うーさんは目を見開いて、引き留めようと口を開きかける。
その瞬間に、ぬらっとヒロがうーさんに振り返った。
「そういえばさっき。何か俺に言いかけなかった?」
問いかけるヒロの安定的で落ち着いた瞳に、焦燥を感じていたうーさんは心の底から安心感を覚えた。そしてヒロと歩き去っていく柳を交互に見て、意を決したように言った。
「………ううん。大丈夫。大したことじゃないから」
うーさんのあまりにも自信なさげな小さな声の返答に、ヒロは大丈夫かなと目を細めた。
「そう?心配事があるなら言ってよ」
「……大丈夫。ほんとに。大丈夫だからもう聞かないで」
「何だそりゃ?……まあ、大丈夫ならいいけどさ。それじゃ、また明日ね」
「うん。ありがとうね。また明日」
ヒロは何だかんだで安心した、というようにうーさんに微笑みを見せて、再び柳を追って走り出した。
管理室を出ていく2人を見送り、うーさんはきゅっと震える拳を握って、大きく息を吐いた。
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時刻は間もなく18:20になろうとしている。うーさんは言われていた通りに、街中にあるデパートの入口まで歩いてきた。
かなり大きく広いデパートで、隣には映画館やジム、銭湯も併設されている。ここ一帯で色々と楽しめてしまうのが魅力の場所だ。
清楚で美しい、お淑やかお姉さんたる風貌のうーさんは、会社のみならず街中でも道行く多くの人々の視線を掻っ攫っていく。その歩き方、立ち振る舞いも不運に見舞われさえしなければ上品そのものであった。
しかし今この時の表情には緊張と、不安が滲み出ていた。
そして、デパートの入口近くまで歩いてきた時の事だった。
「か、鹿沼統括!」
「こちらです……!ようこそいらして下さいました」
尊敬の眼差しと慎みに満ちた声でうーさんのもとへ駆け寄ったのは、新山と向井だった。純粋さに満ちた2人の雰囲気からは、成長の伊吹を感じさせる。
うーさんは予想外の人物達に、目を見開いた。
「2人とも、久しぶりだね」
「お久しぶりです……!今回分不相応ながら、僕らもご一緒させて頂く事となりました」
「よろしくお願い致します!!統括!!」
45°深々と頭を下げる2人の表情は、明らかに緊張に強ばっていた。うーさんは緊張を少しでも解してもらおうと、微笑みで答える。
「ぐふふ……」
「ぐふ…」
「「ぐっふ〜〜〜〜〜♡」」
そしてその時、何やら怪しい2人組の、悪巧みとお巫山戯に満ちた声が響き渡る。人物に心当たりがあったうーさんは、表情いっぱいに苦笑を湛えて振り返る。
入口自動ドアのすぐ横には、見知った大男とチャラ男が待ち構えていた。
「鳴上さん、須藤さん!もう到着されていたのですね」
「鹿沼統括を、お連れしました!」
「うむ、ご苦労。遂に来たでござるなァ鹿沼殿!……む?時枝殿は一緒ではないのか」
楽しそうに、まるでミュージカルの盛り上がり所のような口調でうーさんにそう声を掛けたのは鳴上だった。キザなポージングで待ち構えるその様には、やたらとナルシストっぽさを滲ませている。
そしてその横には須藤の姿。赤いロング缶のエナジードリンクをストローでチュウチュウ吸い上げ、意味深な笑みを浮かべてうーさんを見つめている。
「ひーくんは用事があって今日は来ないよ。………それで、今回はどうしたの?わたし、その……。今日はなるべく早く帰らないといけないから」
足早にとててっと2人のすぐ近くまで歩み寄り、少しだけ震えた声で釘を刺すように言ううーさん。そのきらきらと輝く瞳には緊張と、一雫の好奇心が滲んでいた。
それに対して鳴上と須藤は顔を見合わせ笑みを浮かべ、頷き合う。
まるで、計画に支障は無いとでもいうかのようだった。
「なに。先程も伝えた通りでござるよ。『面白いものを見てもらう』………それだけだ」
「ヌフフフ……」
「ヌフッ」
「「ヌッフゥ〜〜〜〜〜〜〜〜ン♡」」
鳴上と須藤は無駄に息ぴったりのオカマ声を発しクネクネと踊り出す。優しいうーさんは未だに、目の前の光景に、なんのリアクションを取ればいいか分かりかねた。
「さぁ″共に往こう″。我々の魂を導きし場所へ」
「新山に向井!鹿沼統括を丁重にご案内するんだ。無礼は許さんぞ」
「はっはい!!」
「承知致しましたっ!!」
須藤のドスの効いた厳しい指示に、新山と向井はうーさんの後ろで手をピンと上げ、元気に返事をした。そして鳴上と須藤は先陣を切って先に、デパートの自動ドアを潜り入っていく。
対照的にうーさんは好奇心こそあれど、ずっと漠然とした不安と震えに駆られ、普段通りにリラックスして笑顔になれないままだった。
鳴上と須藤を全く信用していない訳ではもちろんないが、これまでプライベートでまともに心を開いて関わってきた(関わった事がある)自覚があるのは柳とヒロ、そして渚のみであること。
そして、元々『他人は怖いもの』と肝に銘じて生きてきたうーさんにとって、その3人を抜きにし、しかも男性4人と一緒に過ごすことへの抵抗は未だに拭えないままであったからだ。
高校生の時、ひーくんに助けてもらったことを今でも昨日のように覚えてる。考えなしに動いた結果、怒りと欲に任せたクラスメイトの男の子達に最低のことをされたのも……。
トラウマが蘇って、身体がずっと震えてる……。
だけど、今回はきっと大丈夫……。鳴上さんと須藤君なら。この2人を信じられない未来は選びたくないから。
うーさんは不安は拭い切れずとも覚悟を決めて、身体の震えを強い気持ちで抑えながら、新山と向井にエスコートされて自動ドアを潜った。




