第40話 大好きだって言ってくれたから③
23:00。
ヒロは激しい雨の中の小道を傘を差したまま、不安と焦燥に駆られながら息を切らして走っていた。
小圷グループの買収を阻止し、葛木から表彰状を受け取ったヒロと渚。完全に一件落着かと思われた。
しかしその後すぐに、また渚が再びヒロの前から姿を消してしまった。
連絡が取れず3日が経ち、実家にも帰ってないようだった。
ヒロは会社が休みにも関わらず一日中、大雨の中思い当たったところを必死に走っていた。
早く見つけないと、今日が終わってしまう。
くそ!どこにいるんだよ……渚。
…………!
目をこすってよく見た。暗闇の道の中、確かにあそこに歩いているのは。
「渚ぁぁぁぁぁ!!」
傘もささずゆっくり、ふらつきながら歩くその後ろ姿は弱々しかった。
急にフラッシュバックする光景。桜の下で無我夢中で走って、渚を呼び止めたあの時。
あの時もこんな弱々しくて、放っておけない!って思う背中だった。
ガバッ!!
ヒロは傘を投げ捨てて後ろから勢いよく、雨でびしゃびしゃになった渚を抱きしめた。
「………?ヒロ?………ヒロ!?どうして」
「渚。何で連絡返さなかったんだ?とりあえず、帰ろう」
渚は今から脱皮でもするのかと思うくらいに表情と目に力が無く、ちょっとつついたら倒れそうな程身体にも力がなかった。
ヒロが手を引いて連れて帰ろうとすると、渚はそれを拒み手を振り払った。
「何してんだ。行くぞ」
「…………行けないよ」
「え?何で」
「だ………だって。だって、私は自分からヒロを」
渚は未だに、一時の感情とはいえ自らヒロとの関係を切り、小圷と関係を持ってしまった自分を責め続けていた。
心底何故自分を連れ帰るのか分からないというかのように、渚は自信無さげに眉をひそめて戸惑いと疑念の表情でヒロを見つめた。
心と心の間に、強烈な壁を感じさせるその表情は。
『私ですか?何の用でしょうか』
はは……。高校時代初めて渚を呼び止めて、振り向いた時にそう質問してきた時の顔にそっくり。
中途半端な気持ちじゃ、この渚を連れていく事は出来ないんだ。
ヒロは意を決して、息を吸い込んだ。
「お見舞いに行ってやるって約束したのに、約束破って居なかったのはお前だろ。その説教の為に一緒に帰るんだ」
渚は力の無い目をほんの少しだけ見開いて、静かに目を瞑った。
そして、ゆっくり目を開けると差し出したヒロの手を握った。
「うん……。私が悪いもんね。行かなくちゃ」
そう言って力なくにこ、と笑う渚を見て、ヒロは胸が引き裂かれるように心が痛んだ。
俺自身がこの場で土下座をし許しを乞う方が、何倍も何十倍も何百倍も楽だった。
何で自分が悪いと思ってんだよ。悪いのは俺なのに。
これはほんとに説教が必要かもな。だけど、分かってたからわざと責める言い方をしたのだ。
優しく諭したり謝ったりしても、今の渚は来てくれなかっただろうから。
「………ヒロ。何で泣いてんの……?」
「?」
ほんの少しだけくすり、と笑った渚は、くっつくくらいヒロのすぐ近くまで歩み寄り、頬を両手で包み込み指先で目尻を拭った。
滲んでいくヒロの視界。
気がついたらヒロは、自分でも分かるくらいに情けないツラをして涙をぼろぼろと零していた。
渚がいなくなるのが、怖かった。
ずっと、ずっと。
この1ヶ月、渚に会いたくて何度泣いたろう。
「…………ふふ。泣き虫」
涙で滲んだ視界には、『いつも通りにいたずらっぽく笑おうと表情に力を入れようとして上手く出来ず』ボロボロと涙を流しながら自分の目を見つめる渚の顔が映っていて。
胸の奥から込み上げる感情を、どうしても止められなくて。
「………お前だって泣いてるじゃんか」
ヒロはびしょびしょに濡れて冷えた身体の渚をぎゅっと抱きしめた。
2人は大雨に晒されている事すら完全に忘れて、ずっとずっと長い時間、まるでお互いに存在を確かめ合うかのように抱き合った。
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0:00。
電車を乗り継ぎ、2人はヒロのボロアパートに到着した。
ヒロはとっとと着替えて玄関を見ると、シャワーを浴びるよう命じたはずの渚はびちゃびちゃに濡れたまま靴も脱がずにボーッと立ち尽くしていた。
「何してんだよ」
「………ほんとに、いいの?」
「良いんだって言ってんだろ」
どうも、渚は身体に力が入らないようだった。
ヒロは渚の靴を脱がせ、背中を押して無理やり浴室に押し込むが、渚は動こうとしなかった。
「早くしないと風邪引くぞ。……それとも俺が身体洗ってやろうか。なんてな」
「………うん。お願い」
10000%冗談で言ったはずが、微動だにしないまま渚は力なくそう言った。
試しにヒロは20秒ほど何も言わず放置するが、渚はまだ?と言わんばかりにきょろ、と振り返り、ヒロを見た。
その様子を見たヒロは、渚がどれだけメンタルがやられてるのかを悟った。
ごそごそ。
「腕、上げて」
「……ん」
こうなってしまったのは俺の責任。俺の責任なんだ。ヒロはそう自分の胸に1000回くらい言い聞かせながら、びちゃびちゃになった渚の服と下着を全部脱がせた。
目のやり場に困る………。本当に。
「………ねえ」
「ん?どうした?」
「……湯船に入りたい」
「あの?何で全部脱がせてからそれ言ったの?ちょっと?」
湯船は後で入れてやると約束をして、ヒロは一旦渚と一緒にシャワーを浴びた。
本当に身体に力が入らない渚。ヒロは心臓の音を鳴らしながら、ゆっくり丁寧に渚の身体を洗った。
し……。慎重に、慎重に……。
身体と髪を乾かし、ヒロは自分の部屋着を渚に着せてやり、ソファーに座らせた。ヒロの部屋着は渚には少し大きく、ダボッとしていた。
「ごはん。食べたい」
「仰せのままに、姫様。私は姫様と違いカップ麺しか作れませんがよろしいでしょうか」
「何でもいい」
「かしこまりました」
ヒロと渚は一緒にやっすいカップヌードルを食べた。
渚は流石に食べる時は自分で箸を使っていた。
心做しか、渚はほんの少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべていて、ヒロは胸が痛くなった。
「寝たい」
「仰せのままに、姫様」
布団を敷いてやると、渚はのそのそと布団に入り横になった。数分すると渚はむくりと起き上がった。
「ちょっと寒い」
「失礼致しました。温度調節致します」
エアコンのスイッチを入れると、そんなに広くない室内は少しずつ暖かくなっていった。
「肩揉んで」
「あの、姫様?ちょっと元気になってますよね?なんなら俺の事パシリくらいに思っていらっしゃいますよねーーーーー?」
肩を揉んでやると、かなり凝っているようだった。
運動不足がたたってだろうか?
満足したのか分からないが、その後渚は横になりすう、すうと寝息を立てた。
ふう。ようやくひと段落したな。
「…………一緒に寝て」
渚はヒロの部屋着の裾を掴んで、弱々しくそう言った。
「……仰せのままに、姫様」
断る理由なんて何も無い。
ヒロは渚と一緒に布団に入った。
「………ねえ。ぎゅってしても、いい?」
「いいに決まってるだろ。むしろ俺からしてやる。離してやらねえからな」
渚は少しだけ驚いたように目を見開くと、嬉しそうに満足気な笑みを浮かべて、ヒロの身体に腕を回した。
ヒロが渚の身体を大事に抱き返すと、渚は安心したように眠りについた。ヒロも頭がどっとした疲れを認識しだし、眠りについたのだった……。
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9:00。
ヒロは有給を取り、渚と一緒に生活していた。
ヒロが宝くじとパチンコで当てたお金はめちゃくちゃになった本社の修繕に充てられる事となった為、結局ほぼ全て無くなった。まるでこうなる事は必然だったかのように。
その代わりに、小圷グループの買収阻止の謝礼金が会社から振り込まれた。そしてそれは渚にも同様に振り込まれた。分け合えたような気持ちになって、ヒロは嬉しかった。
しかし自責の念に駆られ続ける渚はずっと元気を取り戻せず、ヒロが隣にいないとほとんど何も出来ない状況だった。
表情にはずっと力が無く普段は居間のテーブルの前で座って、スマホすら見ずにぼーっとして過ごしている。
呼びかけても反応しない事が増え、少なかった口数も更に減ってきた。体調は、良くなるどころか悪化しているようにも見えた。
「渚。………」
「………」
しかし、渚はヒロが身支度をする時だけはすぐに傍に駆け寄ってきて、どこに行くのかを尋ねた。毎回買い物や簡単な用足しだけだったが、その度にヒロを呼び止め不安そうな瞳で見つめた。
ずっと隣に居る。俺がずっと隣にいるから。
また明るく話してくれたら、救われるんだけどな………。
そんな事を考えるも、ヒロは渚がどうしたら元気を取り戻すのか全く分からなかった。
………!
世界の全てがくだらないとでも言うかのような、虚に満ちた表情でぼーっとする渚のその横顔にヒロは見覚えがあった。
確か渚と初めて会話するよりも前。高校時代、渚が友達を上手く作れずずっと1人だった頃。1人帰ろうとするこの表情がずっと印象に残っていて。
ヒロは久しぶりに、懐かしのパズルゲームを開いた。頭の中で動物さん達が楽しくダンスを踊り出す、リズミカルな音楽が懐かしい。
すぐ隣に気配を感じて、ヒロは顔を上げた。画面を覗き込む渚は、久しぶりに生きた表情をして目を輝かせ見開いていたのだ。
「一緒にやるか」
「うん」
2人で懐かしい音と画面に浸りながらパズルゲームを解いていくうちに、鼻をすする音が聞こえるようになった。
ヒロが顔を上げて見ると、渚はたちまち溢れるようにぼろぼろと涙を零していた。
手を止めた渚は、ヒロの顔を見て大粒の涙を零しながら苦しそうに言葉を紡いだ。
「私……………わたし。ヒロの事、裏切っちゃった。ヒロと一緒にいる資格も幸せになる資格も無いの。でも私、ヒロがいてくれないと生きていけないよ。どうしよう………。どうしよう………!!」
渚は中断ボタンを押すこともなく、涙に濡れたスマホを床に落として、大声でわんわんと泣き出してしまった。
泣き止むまで、ずっと長い時間ヒロは渚の隣にいた。
何度も何度もあやまられた事。その度にヒロは大丈夫と伝え続けた。
しかし、渚が渚自身を許せずにいると、改めて打ち明けられた。
「忙しかったとはいえ、俺が連絡返せなかったのが悪かったんだから。そんな謝んないで。渚……俺こそごめん」
「………ほんとに言ってるの?最低な私を、許すってこと?」
「最低なんかじゃない。他の何よりも俺のことを選んでくれた、最高の彼女だよ」
「また、私が裏切るんじゃないかって思わないの?」
「大丈夫。間違わない人なんていないから」
「それってさ。…………私とずっと、一緒にいてくれるってこと?」
「うん。ずっとずーっと。俺を許せとは言わないけど、別れるなんて言わないで。二度と寂しい思いはさせないから」
ずっと涙を零している渚の瞳。ヒロはその涙を指で拭って、頭を撫でた。
「幸せ者だよ、俺は。また渚と一緒に過ごせるんだから」
渚は目に再び大粒の涙を堪え、ぶわっと大声で泣き出しそうに表情を緩ませたが、すぐにぷいっと向こうを向いて、ごしごしと腕で涙を拭いた。
「…………やっぱり、ヒロっておバカさんだよね」
「えぇ……?何で?」
「ヒロだって、会社でとんでもなく大変だったくせにさ」
「い?」
「ひひ。ヒロのことなら顔と目見てれば分かるんだよ?私。連絡取れない間何があったのか、ちゃんと聞かせてよ」
渚はそう言って、いつもの様子で屈託なく笑った。
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後日、13:00。
日差し差し込む緑の丘の上。
ヒロと渚はピクニックに来ていた。いつも渚から誘うのを、今回はお詫びの気持ちも兼ねてヒロの方から誘ったのだ。
大きな木の下に一緒に小さなシートを敷いて座り、ヒロは渚が作ってくれたおにぎりをひと口食べた。
相変わらず、渚が作ってくれたものは本当に美味しい……。
隣同士の2人の間に会話は無かった。ただただ、時が流れているのを一緒に感じながら2人で景色を眺めていた。
渚はずっと、ヒロの左腕をギュッと抱きかかえていた。
せっかく俺から誘ったわけだから話をしたいのに。
どのタイミングで話を切り出せばいいのか全然分からない。いつもいつも、渚がリードしてくれていたから。
「なんか喋れー?」
「はい」
痺れを切らした渚はいたずらっぽく笑いながら、茶化すようにヒロを急かした。
何を言えばいいのかも分からなかったヒロは焦って、小圷の話を聞かされた時にぼんやり考えていたことを口走った。
「えっとさ。結婚しよう。渚」
「うん。……ん?………え?は?…………はぁぁ!??」
渚は最高にびっくりしたようで、大きく目を見開いて叫んだ。
何言っちゃってんの!?俺!??
唐突にバクつく心。プロポーズされた女性は喜ぶという話を聞いていたが、渚の表情はただただ戸惑いで満ちていた。
だけど。もう、後には引けない………。
「色々あったけど、全部俺の責任だから。ちゃんと連絡を返していれば、渚を傷つけずに済んだんだ」
「…………」
「一緒に居てくれ。絶対幸せにするから。渚が一緒だったら、何にも怖くないんだ。渚も俺と一緒なら幸せ?みたいな……って言ってくれたじゃん。あの、だから」
「…………」
ヒロは必死に喋るが、それに対して何も言わず戸惑いの瞳を向ける渚と目を合わせていることができず、そこまでを言って俯いてしまった。
俺は何でこんなことを言ったんだろう。
突然心が恐怖に支配されていく。
再び2人は無言に戻ってしまった。そして、不意に渚が静かに口を開く。
「…………じゃあ今ここで、お返事するね。ちゃんとこっち見て?」
当然自信が全く無かったヒロはゆっくりゆっくりと顔を上げた。
どうせまたいつものように、茶化すように笑われるだろう。
ヒロはそう考えた。だけど渚の表情と目は見たことないくらい真剣そのもので、ヒロの心臓はバクンと飛び跳ねた。
「言いたいことは色々あるけど……。まずは、私と結婚したいって言ってくれてありがとう」
「うん……」
「何でプロポーズなのに指輪無いの?」
ある訳がなかった。テンパって勢いで言ったんだから。あまりにも軽率すぎて、今夜の脳内反省会議が決定した。
「あと、結婚したらふたりで幸せにならないといけないんだよ。何で結婚申し込んどいて口ん中に苦虫でもいるような顔してるわけ?そんなんで私を幸せに出来るとでも思った?」
「え………。いや、その」
「ヒロに、幸せになる覚悟があんのかって聞いてんの」
胸ぐらを掴みかかる勢いで鼻と鼻がぶつかりそうな程近くまでぐいっと迫ってくる渚。
ヒロはその顔に見覚えがあった。
それはヒロがだらしない生活をして家の中がめちゃくちゃになったのを見て、怒りながら片付けてくれていた、あの時の渚の顔だった。
「ま。そういう事で、プロポーズは受けられませーん」
「…………ごめん」
あっけらかんといつもの表情に戻った渚を見て、プロポーズに失敗してしまったにも関わらずヒロは安心していた。
そんな自分に、ほんと情けないな俺は……と思いながら。
「はぁ。もうちょいかいしょーあればなあ」
「…………」
「でも。引き続きよろしくね?私の最高の彼氏さん」
渚は再びヒロの腕を抱き抱えた。そしてヒロの顔を見上げて、楽しそうにくすくすと笑った。




