第18話 そいつよりも私の方が可愛くて好きと言え
21:30。土曜日。
ヒロと渚は、3年という時間の穴を埋めるかのように何度も何度もデートを重ねていた。
今日は渚と飲みに行くこととなったヒロは、待ち合わせ場所の忠犬ナナ公の前で渚を待っていた。
渚が飲みに誘ってくるなんて珍しいなぁ。
基本渚から連絡が来てどこかに出かけるのが付き合う前からのルーティンだったが、今日はオタクスポットではなく居酒屋に行きたいと言うのだ。
ナナ公前でぼんやりとスクランブル交差点の人だかりを、ヒロはぼんやりと眺めた。
仕事帰りのサラリーマンは総じて、疲れた顔をしている。
皆、土曜にお疲れ様。
人知れず頑張る人も中にはいるだろう。地味でも褒められなくても、それぞれが何かを削って頑張っている。
俺は皆を偉いと思うよ。ほんと。
そんなことを考えていると、遠くから微かに自分の名前を呼ぶ声が聞こえてヒロは振り返った。
パタパタと、少し息を切らして走ってくる渚がいた。
渚……。何だか上手く言えないけど、目元とか唇とか、いつもよりも色っぽくて艶があって、すごく綺麗だ。
いつにも増して、すごく女の子らしい。こんな子が俺の彼女なんだって改めて考えたら、俺はすごくドキドキしてしまった。
上手く挨拶すら出来なさそう……!
何で渚にこんなに緊張してるんだ俺は。
深呼吸……。いつも通り、いつも通りに……。
渚は俺の目の前までやってくると、手を上げ、喉をかっ開いて低い声で言った。
「ヘイ!メリークリスマス!」
「春なんだが今は」
「サンタどこ?」
「おらんわ」
中身は全然いつも通りだった。ドキドキ返せ。
でも、やっぱりいつも通りなのが1番だな。
渚はヒロの顔をずいっと覗き込んだ。
「今日の顔色は…うーん…80点!」
「高得点だな」
「体調問題ナシ?」
「金曜日結局21時まで残業したからさ。今までずっと寝てたらスッキリした」
「ほんとよく頑張ったね。私がヒロなら死にたくなる」
「だろ?」
渚と手を繋いで繁華街を一緒に歩いた。
楽しそうに夢中で歩く渚に、手を引かれている。
某テーマパークブランドの店のショーケースを見て、
ヒロはふと思ったことを渚に聞いた。
「なあ。渚ってディ○二ーランド行きたいとか思わないの?」
「え?んー」
渚は少し考える素振りを見せて答えた。
「人混みとか派手なのが好きじゃないなー。陽キャいっぱいいるし。ディ○二ー行くならヒロのお家でゲームしたりしたいー」
「あ、そうなんだ」
ほんの少し、安心した俺がいた。
ガヤガヤ盛り上がってる場所が苦手なので、同意見だ。
「行きたいの?」
「いや、全く。でも渚も陽キャだろ」
渚はそれを聞いて、微妙な1発芸を見せられたようなジト目でヒロを見つめた。
「何を訴えてる目なのそれは……」
「本気で言ってる訳?ヒロの方がどこからどう見ても陽キャだよね?」
「は?どこがだよ??」
「あんなに友達いっぱい引き連れてたし。女の子にだってモテモテだったくせに」
「いやいや。てかそれいつの話してる?そんな事言ったらお前も散々男子から告白されてたじゃん。それを陽キャと言わずなんと言う」
「うるさいうるさい!燃えてる学校に平気で飛び込める方が陽キャなんですー!」
「なんつー懐かしい話を……!そんな事もあったけどさ」
「はいという訳でヒロが陽キャ私は陰キャ。私の勝ちー」
「おい勝ち逃げすんな」
若気の至りみたいなもんだな……。
今火事の建物に飛び込めって言われても、絶対出来ないと思うし。
ヒロと渚はそんな話をしている間に、いつの間にか某大型ディスカウントストアの目の前まで歩いてきていた。
「あ!私買いたいものある!」
「え、おい?飲みに行くんじゃ?」
渚はお店の中に入っていってしまった。
仕方が無いのでついていくか。
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ド○キの店内はとにかく様々な物で溢れていて、狭かった。
「ヒロ!こっちだよー」
渚はエスカレーターの前でヒロに手を振っていた。
渚の後を追ってエスカレーターを登ると、幅広い種類の日用品が売ってるコーナーに出た。
楽しそうに小走りする渚について行くと、
ある場所の前で渚が目を輝かせて待っていた。
……18禁コーナーじゃん。
「ヒロ……ヒロぉ♡ 早く……!」
「え?買いたいものあるって、ここに?」
「当たり前でしょ?ここ以外どこがあるの」
「いや、あるだろ他にも色々」
渚はフンフンと鼻息を荒くして目を輝かせている。
「変態かお前は」
「ほら早く入るよ?」
渚はヒロの腕に抱きついて、グイグイと勢いよく18禁コーナーに引っ張りこんでいく。
どうやら連行されてしまうらしい……。こいつ、何を欲しがってるんだろう。
それはそれで気になるな………
ウキウキ顔の渚に腕を引っ張られ、ヒロは18禁コーナーの暖簾をくぐった。
「デュッフフフフフフフ♡ 疲れとストレスを薄い本で発散でござるよォムッフフフ………♡」
暖簾を潜ったヒロと渚。目の前には同人誌のコーナーがあるが、鼻の穴をおっぴろげて物色しながら独り言を言う鳴上がそこにいた。
2人はその光景を見て、思わず数秒固まってしまった。
まさかここでも出会ってしまうとは。
鳴上の買い物カゴには同人誌が辞書2冊分くらい積み上がっている。買いすぎだろ。
「オォッ!?このシリーズ、大人気につきサンプル1話立ち読み可………!?いくら何でもサービス良すぎでござろう………グフ………」
鳴上は後ろにいる俺と渚に気づかず、サンプルの立ち読みを始めた。
ヒロと渚は何も言わずに、顔を見合わせた。
渚はヒロの顔を見つめたまま、神妙な顔をして親指を立ててみせた。
おい何をする気だ。
渚は神妙な顔つきのまま、鳴上のすぐ真後ろに立ってヒロの方を見て両手でピースしながら頭を横に振っている。
やめなさいこら!バレるだろ!
やべぇ気づかれる。……と思ったが、鳴上は同人誌に夢中で真後ろの渚に全く気づかない。
渚は再びヒロの手を引いて、18禁コーナーから出た。
「飲みいこー」
「何だったんだよ結局!?」
「気が変わったから今度でいいや!」
「気変わるの早すぎだろ!??」
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渚と一緒に入った居酒屋。店内は明るく綺麗で広いものの、とにかく人が多い。
一緒にスクリュードライバーと焼き鳥を注文して、ちょうど空いた端っこのカウンター席に2人並んで座った。
ところが、20分くらい待っても注文した品は届かない。
これだけ繁盛してるもんなぁ。
「暇だね」
「だな」
「睨めっこでもする?」
「やだよ。勝てないもんお前には」
「睨めっこしましょ。笑うと負けよ。あっぷっ」
「やらん!絶対やらんぞ!!やりません!!」
その時、テーブルに置かれていた渚のスマホが鳴った。ライヌだ。
送り元の名前と内容がチラッと見えてしまった。
全く知らない男?の名前の気がする。
「はぁ。うっざ………」
「友達?」
「会社の人。めっちゃ送ってくる」
渚は舌打ちをすると、汚いものでも見るような目でスマホを取りライヌを開いた。
気になって、返信する渚のスマホ画面を見てしまった。
渚も隠すつもりはなさそうだな……。ちょっとだけ、覗いてみよう。
横目でそーっと覗くと、デートの誘いに、行きませんの5文字だけ爆速で打って返信し通知をオフにした。
ほんと、モテるなぁこいつ。
再びヒロの方を向き直った渚は、眉をひそめ意味深な表情をしていた。
「すまねぇ。おれたちの真剣勝負にとんだジャマがはいっちまったな…仕切り直しと、いこうぜ」
「まだやる気だったんか??」
「睨めっこしましょ。笑うと」
「やらんてば」
「ぷう!ヒロのケチ!」
渚はちょっとだけ頬を膨らませた。
葛木さんとならいい勝負するんだろうなぁ……。
ようやく店員がお酒と焼き鳥を持ってきてくれた。ヒロと渚は一緒に居酒屋を堪能し始める。
「美味いね」
「うん!美味しいー」
お腹がすいていたので、焼き鳥を追加で注文してしまった。
美味しいし、楽しい。ずっと渚と一緒にこんな何も無い日々を過ごせたらいいのにって、心の底から思った。
だけどまだ、散々助けてくれたお礼はし切れてない気がしている。
一生傍に居るって約束したんだ。渚を幸せにしてあげなくちゃ。
ヒロはふと我に返って、横を見た。渚はもぐもぐとゆっくり焼き鳥を食べながら、お店の奥を眺めてぼんやりとしている。
なにか考え事かな?
渚が一緒にいる時に、見せた事のない顔をしている。
「渚?」
「へ!?うん」
「何か悩みでもあるの?」
「ん!んー……」
渚は少し迷った素振りを見せたが、すぐいつも通りの表情に戻ってヒロに目を合わせた。
「いや。私達これからどうしようねって」
「これから?」
「2年後も、3年後も、その先も一緒にいられるかな?」
「え?いるだろ。どうしたんだよ?突然」
「だ!だよねー!!」
訳が分からない。本当にどうしたんだ?
別れ話でもされるのかと、ヒロはヒヤヒヤしてしまう。
「何で突然?」
「私ね……。幸せすぎて、怖いんだ。私たちさ、色んなことがあったけど今一緒にいて、こんなに幸せな時間を過ごせてるでしょ?それって奇跡だと思うから」
「う、うん」
「そんな時間が、もし何かの拍子に無くなっちゃったらって思った時に、怖くて。人生って、何が起こるか分からないでしょ」
この時がすごく幸せだって、渚も思ってくれてたんだ。
嬉しい気持ちが込み上げて、お互いに胸が満たされる感覚に。目の前の渚が愛おしかった。
こんな気持ち、ずっと失いたくない。
「ヒロ。いつもいつも、どうしようもない私に優しくしてくれてありがとう。やっぱり私は、優しくしてくれるヒロが好き」
そう言って真っ直ぐヒロを見つめる渚。ヒロはあたふたと焦り始める。
「ちょま、待って!?なんかあの、やめろよ!!改めて言われるとこんな時間が今日以降二度と来ないみたいで落ち着かないんだけど!?」
「はっ!はーーーー!?お酒入ってやっと本音言えたと思ったら、返答それ!?このかいしょーなし!!」
周囲の目線が痛くなってきたので、2人とも咳払いをして落ち着いて目線を前に戻した。
そうだったのか。俺の前では、いつもふざけたことばかり言ってたから。
今日は本音を言いたくて、渚は俺をここに連れてきてくれたんだ。
「ねえ。ヒロはどうなの?まさかヒロは何も言わないなんて、無いよね?」
「………」
「ちゃんと隠さずに言ってね?」
何だか怖いものを敢えて見るみたいな目線を送り付けてくる渚。
そんなの。返答はとっくに決まってた。
もちろん言う。照れくさくて言わないなんて愚行、俺がする訳ないだろ?
今更、言う必要もないと思ったけれどな。
ヒロが迷いなく自分の気持ちを伝えようと口を開いた、その瞬間だった。今度はテーブルに置いてたヒロのスマホが鳴った。
うーさんからのライヌだった。
スマホに表示された「うー」の文字。
金曜日の夜、何故かは分からないけど懇願されて交換したんだった。
渚は何の迷いも躊躇いもなくヒロのスマホの画面を覗き込んで、すぐさまヒロに質問を投げかける。
「うーって誰?」
「会社の同僚だよ」
「女?」
渚は真顔でヒロの顔をずいっと覗き込む。
うっわぁ。どうしよう。隠し事するのは違うよなぁ。
考えてみれば、何も後ろめたい事なんて無いしな。
「そうだよ。最近異動してきてくれた人なんだけど、めちゃくちゃ仕事出来る人でさ。とにかくお人好しで、ド」
「良かったね?楽しそうで」
明らかに声色が今までと違う渚に向き直ると、渚はにっこりと笑ってヒロを見つめていた。
今までの経験から分かる。渚はいつも笑う時、へらへらと笑うか大声を上げて笑う。
そしてにっこり笑うのは、『怒ってる』時だ。
堂々と話さないと逆になんか後ろめたい関係みたいで、嫌だった。
だから堂々と思ったことをそのまま話したが、裏目に出るなんてレベルじゃなく振り切れてしまった状況にヒロは息を呑んだ。
渚の真っ直ぐな目の奥から感じるとてつもなく強い殺気に、ヒロは自分の本能が怯えているのが分かった。
「渚……?怒ってる?よね?」
「え?全然怒ってないよ?」
しっかり怒ってんじゃん。
いかん。これはまずい事になった。
渚、怒るとめっちゃくちゃ怖いんだよな。
「渚、落ち着いて。うーさんは俺の大切なビジネスパートナーなんだよ。だけど、好きなのは渚」
「もっと私を好きと言え。私が世界で1番と崇め奉れ。今すぐに」
「渚が世界で1番可愛くて好きで自慢の彼女です」
「そのうーだかぴーだかすーだか知らないけど。そいつよりも私の方が可愛くて好きと言え」
「可愛い、可愛い。渚が1番可愛いよ」
「ぐぬぬ……」
こんなに渚が1番と連呼しているにもかかわらず、なお渚は悔しそうな表情を抑えきれない様子だった。
マナーモードにしとけばよかったな。
「ライヌ交換持ちかけたのはどっちから?」
「そんなのどっちからでもいいだろ」
「は?まさか言わない気?」
「向こう」
「本当に……?ちゃんと目見て言ってよ」
「ほんとだよ。さっきから見てるじゃん」
渚は疑り深い目でずいっとヒロの目を覗き込む。ヒロも対抗してずいと渚の目を見つめ返した。
渚にここまで疑り深く詰められたことが、今までにあっただろうか。
数秒目を合わせて渚は嘘じゃないと思ったのか、ほんの少し安心した表情でそうだよねと呟いた。
渚はテーブルに向き直りスクリュードライバーを一口飲んで、再び口を開いた。
「まぁ、ヒロの良さをきちんと理解出来るって事は『ちゃんと見る目がある女』だから。私以外にも地球上のどっかにはいるって分かってたよ」
「渚……。だからうーさんはそういうのじゃ」
「でもね?ヒロ」
渚はヒロの言葉を遮って、いつも通りの表情でグラスを見つめて言った。
「今私、正気じゃない。相当」
「おい大丈夫か」
「そんな女が、まさかヒロの会社にいるって思わないじゃん。どんな確率?」
「………」
渚が未だに、うーさんが俺を好きで連絡先交換を求めたと思っている………。
どうやって誤解を解けばいいんだ?これ……。
うーさんの連絡の内容を確認して返信してあげたいけど、とてもそれが出来る状況ではなかった。
「狂いそう。嫉妬で」
「落ち着けって」
「もしだよ?もしヒロが浮気したら、ヒロを刺し殺して浮気相手も刺し殺して、私もその場で喉を切って死ぬ」
「しないって浮気なんか」
「ヒロが隣にいない私の人生なんて無意味だよ。yeartubeの海外クソゲーの広告くらいには無意味」
「具体的すぎる」
そう言う握られた渚の手は小刻みに震えていたけれど、どこか弱々しく見えた。
あぁ。いつも通りを装おうとしてるんだ。
いつもなら肩をぶっ叩かれてただろう。………ちょっと大人になったんだな。渚。
ご機嫌を取れる、いい方法はないもんだろうか。
渚がペシペシとヒロの頭を叩いて茶化し始める。
「せっかく楽しくデートしてたのに、なーんかつまんなくなっちゃったー。ねー?ヒロ君?」
「………」
「いっつも詰めが甘いじゃん。詰め甘々の甘男。そーゆーとこだよね」
「………」
「私も他の男と連絡取って、遊んできちゃおうかなー」
ヒロは渚の言葉に、胸にちくりと針が刺されたような思いになった。
じとーっとした目。俺に呆れて感情的になって。何気なく発した言葉なんだろう。
だけど……。
「上手くなんか出来るわけないだろ。デートなんて」
「はぁ?」
耳を疑うように聞き返す渚を、ヒロは至極真面目な目で見つめ返す。
「『好き』ってのは、思考も感情も越えた先にあると思う。好きな人と一緒にいるのに、上手くものを言って、上手く事を進められる人なんかいるもんか」
「…………!」
「お前はいっつも明るくて何にしても器用だよな。羨ましいよ。渚…………。さっき好きって言ってくれたけど。本当に、俺の事好きなのか?」
それを聞いた渚は信じられないものを見るように、見開いた目でヒロをしばらく見つめた。
しばらく無言が続いた2人。だけど、絶対にお互いに目は逸らさない。
突然渚はガタリと立ち上がった。
「帰る」
「え?待って」
「やっぱり、なんにも分かってないじゃん。じゃあねー」
「ちょ!待って」
ヒロはお会計を急いで済ませて、出ていってしまった渚を走って追いかけた。
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早歩きする渚に追いついたヒロ。息を切らしながらその手を掴み止めた。
「何?」
「渚。何で帰っちゃうんだよ。まだ話は終わってない」
「帰りたいから帰るの。分かる?手離して」
「1人でこのまま帰るの?」
「あぁ、お会計?ごめんね。今出すから」
「違うよ。これ」
ヒロが渚に手渡したのは、結構な金額使えるタクシーの乗車券だった。
「………ヒロ。これ」
「それ、暇潰しにコツコツアプリ開いてたらなんか特典で届いたやつなんだ。それを使って帰って」
「いいよ。悪いし、私別に困ってないから。要らない」
「ダメだ」
無理やり乗車券を渚に持たせた。渚は無表情で、手に握った乗車券を見つめている。
「冗談でも二度と言うな。他の男と遊ぼうかな、なんて」
渚はハッと目を見開いて、顔を上げた。
しかしその時にはヒロは渚に背を向けて、歩き出していた。
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何で、あんなことを聞いてしまったんだろう。
渚が俺のことを好きなんて、分かりきってる。何よりも分かりきってる事なのに。どこか、上手くいかない自分に苛立って。
先日言われたばかりの渚の言葉を思い出す。
渚の言う通りだな。渚のこと、分かってあげられてなかったよ。
コンビニで煮卵買って帰ろ。
そうだ。うーさんから連絡来てたんだ。
返さないと……。
その時、誰かが走り寄ってきてヒロの腕をがしっと掴んだ。
「な、渚?何で。帰ったんじゃ」
「こんなの渡してくるなんて。私が本当に『余計なこと』でもすると思った?信用されてないんだね。私」
「違う。そんな」
「ヒロのおうちに連れて行って」
そう言った渚の表情からは、先程うーさんからの通知を覗いた時に見せた弱々しさは消え去っていた。
それを見て、ヒロは自分が安心して力が抜けていくのを感じた。
「もちろんいいけど。もう他のところは見て回んなくていいの?寄りたいお店?なんか休憩所?があるとかって」
「いいからヒロんちなの!!分かれ!?このばか!!」
「わ、分かったよ」
なんて情緒してるんだ、こいつは……。
再び2人は手を繋ぎ合って、一緒にヒロのアパートを目指して歩いた。
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「ただいまぁ~!」
「我が家のようだなお前さん」
ヒロは渚と共に、自宅のアパートに到着した。
以前公園デートの直前に渚が部屋に訪れた時、散らかりまくっているのを指摘され、申し訳ない思いをした。
なので今回はかなり綺麗に片づけたのだ。
今まではゴミ箱を作るのがめんどくさくて至る所にゴミ袋とゴミが散らばっていたが、渚の家が綺麗だったことに感化されて俺もきちんとゴミ箱を買って設置した。
女の子だしそりゃ綺麗かとは思うけど。
スーツは毎日余力を振り絞って、ハンガーにかけている。更にシンクは基本使わないので、綺麗だ。
自信がある。俺は、自信に満ちていた。
「ヒロの家、相変わらず汚いね………」
「えっっ!!?めっちゃ掃除したんだが!?」
「しかもこれで掃除した方なんだね」
渚ははぁ………心底呆れ深いため息をつきながらそう言うと、家の中の掃除を始めた。
「いや、掃除とかいいから。お酒だって飲んだんだし。もう休」
「汚いところに住むのはよくありません!」
「あ、はい………」
俺としては綺麗だと思ったんだけどなぁ……。
そして、一旦スイッチの入った渚のテキパキぶりはとてつもないものだった。
「ねぇ!お弁当の空とか飲み終わったペットボトルとかさ。ちゃんと捨ててって言ったよね!」
「はい、すいません………」
「せっかく押入れがあるのに服、放りだされてるし。洗濯物もこんなに溜めてさ。ちゃんと洗濯してる!?郵便だって未開封のままのたくさんあるじゃん!」
「ごめんなさい………」
渚は散らかった服を洗濯機に突っ込んで、散らかったヒロの衣類を畳み始めた。
まさか怒り出すと思わなかった。そんなに汚かったか。
「なぁ。渚って掃除好きだったっけ?」
「別に好きじゃないけど」
「そうなの?じゃあ何でそんなに必死に」
「きったないこと自体良くないでしょ!!?」
渚は胸倉をつかむ勢いで、ぐいっとヒロに詰め寄った。
こ、こえー………。
渚の額には汗が滲んでいた。ずっとテキパキと掃除を続けている。
「渚。ありがとうな」
「…………うん」
渚は集中して掃除をしながらも、今日1番小さく返事をした。
「ヒロ、お風呂入ってきていいよ」
「いやいや。流石に手伝うよ。俺の部屋だし、任せっきりは」
「いいから」
「あ、はい。すいません」
渚が結構イライラしてるのを見て、ヒロは逃げるように風呂場へ向かった。
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ピカピカになった部屋を見渡し、ヒロはソファーに座ってぐったりした。
綺麗になるの早すぎるだろ………。
ていうかお風呂入って綺麗な部屋でゆっくりしてたら、眠くなってきた。
うとうとしてスマホを見ると、既に1時を回っていた。
そんなヒロの隣に、お風呂上がりの渚がぴったりくっついて座った。
渚………綺麗なお花みたいな匂いがする。
「ありがとう。渚」
「いいよ。さっきだって言ったじゃん」
部屋が綺麗になって機嫌が良くなったのか、ヒロの腕をぎゅっと抱き抱えた渚はにしし。といたずらっぽくヒロに笑いかけた。
コチコチコチコチ。
部屋の時計は不調で、コチコチと針は振動するがずっと8時半を刺したまま。
修理に出すのが面倒で、3日くらいずっとそのまんまだ。
電池が少ないだけかもしれないけど、電池を買い換えることすら面倒くさい。
寝るまでの間、なんの意味も無くその時計を見つめて、その動かない針と針の音が何故か癖になり、寝付くまでのASMRにしていた。
「さっきのお話の続きしよっか?」
「ん?おお」
「色々考えたけど私、ヒロのこと好きなんかじゃない」
コチコチコチコチ。
聞き慣れた無機質に刻まれる時計の針の音。
渚の真面目な目を見つめ返すヒロは、『無』の表情で呆然としていた。
この針の音のおかげで、日々自分が時間の中で生きる社会人であると、思い出すことが出来る。
だけどこの時だけは、この音があまりにも耳障りで心地が悪すぎた。一生級のトラウマになるような気がした。
「……………大っっっ好きに、決まってるでしょ!!!」
渚が不意に叫んで、ヒロは驚きびくりとした。
「私のこと嫉妬させて楽しかった?思惑通りだね?効果てきめんだよ。私、あの場で狂うかと思っちゃった」
「………っ!渚。ごめん……」
「未だにヒロとデートする時、緊張するんだよ?私。今も緊張して、心臓バクバクしてるの。いっつも上手くいかなくてその裏返しで怒って、後悔するの。ヒロから半日でも連絡が途絶えたら、膝から崩れそうなくらい不安なの」
「…………」
「『渚の事が好きなんだ』って言って貰えた時、ほんとに嬉しかった。帰ったあと、嬉しくて思いっきり泣いたんだよ?私、ヒロに泣かされてばっかりだね。あと何千回私を泣かせるの?」
渚はこの場から消えてしまいそうなくらい力のない表情で、目から一筋涙が零れ落ちた。
力なく笑って涙を流す渚は、透明で、綺麗で。
ヒロはそっと渚を抱き寄せてキスをした。
「ヒロぉ!!」
「んぐ!?」
渚はタガが外れたようにヒロに覆い被さった。
2人は抱き合って、何度も何度もキスをした。
「好き。大好き。どこにも行かないで。私だけ見て。私だけのヒロでいて………!」
「どこにも行かないよ。言ったよな。『ずっと一緒に居てくれないか』って」
「…………ヒロ」
「渚があの時来てくれなかったら、俺はきっとダメになってた。何かの拍子に俺達の一緒の時間が終わるなんて、絶対嫌だ。もし何かあった時は、次は絶対に俺がお前を迎えに行くから」
「本当に?」
「本当だよ」
ヒロの胸の中で、渚は泣きじゃくった。
しばらくして、渚がほんの少しバツの悪そうな表情で喋りだした。
「だけど。………それだけじゃ不足かもね?」
「? どうして」
「私のこと嫉妬させたじゃん。やり返されないように、ちゃーんと押さえつけてね?……どこにも行かないように」
さっきの渚の言葉を思い出したヒロ。
きっとこれも冗談で言ってる。だけど。
ヒロは渚の身体を押さえつけて、細い手首を跡が残りそうなくらいぎりぎりと強く掴んだ。
「うん。勝手に離れたら引っ叩いてあげるから安心していいよ」
「はう………っ。うん………」
「ちゃんと俺の目見て?」
「……… はい………っ」
「嘘ついてるように見える?」
「ついてない………です………♡」
コチコチコチコチ。
冷静さを保ちたくて、背中にあの時計の針の音を意識しながら、渚に習って、少し強い言葉で思いを伝えた。
もっと上手いこと言いたかった……。
語彙力が無くて、申し訳ない気持ちになった。
渚の思いに、きちんと答えてあげたかった。
でも………。どこにも行って欲しくないなんて。
そんなの俺だって同じだし!!
「冗談でも言うなって言ったよな。何?他の男に行くって。次またそんな事言ったら本気で怒るから」
「………はぃぃ………」
「何で顔隠すの。隠さないで」
「ひゃ。だめ」
渚がもう片方の腕で顔を隠そうとしたので、すかさず布団の上に押さえつけた。
しかしヒロの心配とは裏腹に渚の顔は紅潮し、今までで1番嬉しそうな表情でへらっと蕩けきっている。
冗談でも嫌だから、反省して欲しいんだけどな。
なんか……渚、すごく喜んでる……?
「俺怒ってるのに何でそんなに喜んでんの……?反省してる?」
「ごっ……ごめ……なひゃ……っ」
ぎりぎりぎり……。
身体を押さえつける手の力を強めれば強めるほど、強めの語気で叱るほど、渚は口元はだらしなく緩んで、鼻息を荒くして、全身がビクビク震えて。
渚の瞳は、今まで見たことがないくらいにうっとりと夢見心地になっていた。
よく分からないけど、渚が喜んでるならもうそれでいいや……。
無機質に刻まれる時計の針の音は、もうヒロの耳に届かなかった。
俺のものだとでもいうように渚を押さえつけて、バタバタと激しく抱き合って。時間の概念すら忘却させた。
気づいたら外は明るく、鳥のさえずりが聞こえた。
2人は重なり合って、日の光を浴びながら眠りについた。
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んん………頭いてぇ………
起きると、既に時間は15時を回っていた。
渚は既に起きていて、何やらスマホを見ている。
渚はヒロが起きたことに気がついて、振り向いた。
「おはよー」
「おはよ」
なんか、幼い女の子がけたたましい声で変なことを叫んでるような音がする。
渚が何を見てるのか気になったヒロは、さりげなく渚にぴったりとくっつくようにして隣に座った。
渚がスマホで見ているのは、Ftuber。アバターを通じて配信や投稿を行うという今巷で大流行中の、アレである。
「私達もこれやろー」
「え?そんなノリで出来るもんなの?これ」
「まかせろ」
「マジかお前」
雑談配信なるもので、配信者の様子とコメント欄から楽しそうな雰囲気が伺えた。




