第2話 全部お前のせいだ
【登場人物紹介①】
時枝 広志 (ときえだ ひろし)
主人公。いつも思いやりがあり責任感が強いが、超マイペース。疲れやすい。面倒臭がり。お布団が好き。
19:30。会社のビルの玄関前。
ヒロは残業を終え、会社を出ようとしていた。
「時枝さん、何してるのあれ……?キモくない?」
「さあ……。なんか、怖い。無視して行きましょ」
「触らぬ神に祟りなしよ」
あいつら好き勝手言いやがって………。
聞こえてないとでも思ったか。
同じく会社から出ようとする女性社員3人がヒソヒソと心無い言葉を吐いたのを、殺意100%の背中で甘んじて受け止める。
ヒロはビルの柱に隠れて顔だけ出し、辺りを見渡していた。如何に草津 渚に会わずに帰るかを、脳みそをフル回転させて考えていた。
渚に会ってしまうと、間違いなく面倒な事になるからな……。
今日も疲れたから、早く帰って寝たいんだよ。
『人は自由に生きるべきなんだよ!ヒロがヒロ自身を壊しちゃう、その前に』
ずっと忘れられない。高校時代、そう俺に言い放った渚の表情。
俺を生まれた時からずっと縛り続け、生きづらさと辛さを感じさせ続けてきた、″鎖″。それは『苦しみ』そのものだった。
だけど、渚はその″鎖″を自分勝手にぶち壊した。そして俺を解き放って見せた時の、心底嬉しそうなあの笑顔が。
あの衝撃と感情を思い出すだけで、心臓がバクバクと跳ねて止まらない。
ヒロは何度も何度も辺りを見渡した。
…………渚はいないみたいだな。
浮足、差足、忍び足。誰ともすれ違わないで済むであろう、暗くて狭い路地裏を辿っていく。
いやあそれにしても。この辺まだ昨日の雨でぬかるんでて歩きづらいな……。
ドン。
ヒロは柄の悪そうな大男と肩と肩をぶつけてしまった。
その体格差は相当なもので、ただぶつけただけにも関わらず、ヒロは強くどつかれたかのように衝撃を受けて鞄を落としてしまった。
やっっべ………。下向いてぬかるんだ地面ばっかり見てたせいで、電柱の陰の向かいから来る人に気づかなかった………。
「オォォイ!!どこを見てんだ。目ぇーはついてんのか?えぇ?」
「う…………!うわぁぁぁぁ!!!すいませんんん!!!」
ヒロは大男の激怒した顔を見上げてたちまち青ざめ、急いで鞄を拾い上げると全力ダッシュで男を通り過ぎ走り出した。
ついてないわ!!最近とことんついてないわ。何で!?
路地裏を一気に走り抜けたヒロは、膝に手をついて肩で呼吸を整えた。
自業自得とはいえ不意に大声で怒鳴りつけられ、走ったせいでスーツも革靴も鞄も泥んこになった。
元々別にいい気分でも無かったのに、糞でも見せられたかのような心象に、更に気分が盛り下がっていく。
仕事でも怒られ、仕事以外でも怒られるのか……。
…………さっさと帰ろう。
ヒロは再び家へ帰る為に、やや俯きながら重い足取りで歩き始めた。
「ついてなかったね?」
「全くだよ。最近ほんとについてないわ」
「そうなんだ?神社にお祓いに行こうよ。ついてってあげるー」
「まじ?ありがとう。頼むわ」
なんて良い奴なんだ。
……………………!??
慌ててバッと左横を見ると、いつの間にかすぐそこには一番会ってはいけない女が俺を見つめて立っていた。
そしてひひ、といたずらっぽく笑った。
「渚!?なんで」
「なんではこっちのセリフなんですけど。再会早々逃げるとか信じらんない」
渚はそう言って、ぷくっと頬を膨らませて恨めしそうにヒロを睨んだ。
あー……。ほんっっっとに可愛いなぁ、こいつ……。
全部が全部可愛い。眼福過ぎる………。
って!!違う!!
「ねー。また連絡先教えてよ」
渚が楽しげな表情でそう言ってスマホを取り出し、慣れっこの手つきでちゃっちゃかと操作し出すのを、ヒロは刺すように見つめた。
さっき会社で変な目で見られたのも。
あの訳分からん奴と電柱でぶつかったのも。
スーツも靴も鞄もこんなに泥んこになったのも………。
『ついてなかったね』って?
「全部お前のせいだろ」
ヒロが俯き低い声でぼそりとそう言ったのを聞いて、スマホから顔を上げた渚の表情は一瞬少し曇った。
ズキン。
その渚の表情を見て、胸が痛んだヒロは再び自宅に向けて全力で駆け出そうとした。
どさっ!!
ヒロは泥で手が滑り、鞄を再び泥まみれの地面に落としてしまった。
「ったくもう!!!」
ヒロはもはや鼻水を啜り泣きそうになりながら、鞄を急いで拾い上げて全力でその場を走り去った。
一瞬後ろを振り向くと渚は、全力疾走する俺を見つめたまま、追ってきてはいなかった。
その立ち姿は、ほんの少しだけ寂しそうだった。
ズキン。ズキン。
ずっと胸が痛んで仕方がない。
ふざけんな。
何で俺に構うんだよ。何で寂しそうにしてんだよ。
せめて惨めで滑稽な俺を笑ってくれよ。3年経っても何も成長してないなって……。
お前を好きなまんまだから、俺は………。
何で忘れられないんだよ。
何で忘れてくれないんだよ!!
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10:30。会社、管理室。
ヒロは会議に必要な資料とプレゼンであまりにもミスを頻発し、葛木にこってり絞られていた。
「この文章と図で伝わる訳ねぇだろ。隣のグラフなんて、もはや関係ないデータ引っ張ってるしよ」
「はい……すいません……」
「クライアントと第三者機関も見んだよこれを。分かってんのか?」
「はい……」
葛木さんはめちゃくちゃ淡々と喋っているが、まるで顔をぶん殴られてるかのようだ。殴られてなんか全くいないのに。
萎縮してしまい、変な汗が止まらない。
長い付き合いの俺だから今辛うじて耐えて立っているが、他の人間ならその場で崩れ落ち泣き出すレベルの威圧感だ。
「何してんの?マジで。こんな初歩で足引っ張られても困るんだよ」
「は………はい………」
「これがこんなんで例の商談はほんとに間違いねぇんだろうな?」
「だ……大丈夫です……」
「つーかさ、新しくなった作成ソフト使えっつったよな。何で古いわけ?人の話聞いてる?」
「す………すいません………」
ここ最近不運が続いていたヒロの胸に、葛木の厳しい口調が追い打ちとなって抉っていく。
ヒロはとぼとぼとデスクに戻った。目に涙が溜まっている。
次の仕事、その次の仕事もまだまだ残っている。例の大型商談を進めるために、取引先に出向く予定だってある。
だが、ヒロはもうやり切れる自信を失っていた。
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21:00。
ヒロは残業を終え、ボロアパートに帰ってきた。
今度こそ何も考えられない。もう無理だ。
もう、風呂に入る気力も飯を食う気力も浮かんでこない。
ガサッ。
ヒロは買ってきたコンビニの焼肉弁当の袋を開封もせず乱暴にテーブルにぶん投げて、部屋着に着替えてさっさと部屋を暗くして布団に入った。
………………目瞑っても眠れないし。
辛い。苦しい。悲しい。
負の感情と痛みだけを動力源に俺の身体は動いている。
前世は殺人鬼だったか?何の罰ゲームか?何で生きてるんだ?俺は。
こんな時は誰かと楽しく喋って。
…………渚。
こんな時にあいつと話せたら、楽しかったかもしれないのに。相談に乗ってくれたかもしれないのに。
何がお前のせいだ、だよ。
馬鹿か俺は。馬鹿野郎だ俺は。
久しぶりに見た渚は、高校時代からまた1段も2段も磨きがかかって可愛くなってて、本当にびっくりした。
まやかしだ。
あんまり疲れて生きてるのも嫌になったもんだから、幻覚を見てたんだ。
渚が俺なんかに会いに来るわけないだろ。
こんなに泣きたいのにもはや涙すら出ない。
心が死んでしまったんだ。
「………………渚………」
「呼んだ?」
「はっ!?!?うわぁぁぁぁあぁぁぁああ!!!!」
ヒロは心臓が口から出そうになるほどびっくりして、腹からの叫び声を上げて飛び起き、声の聞こえた方向と反対に逃げた。
背中が壁に激突して大きな音になってしまい、壁をドンドン、と隣人に叩かれたが、ヒロとしてはもはやそれどころでは無かった。
パチン。
点灯した明かり。枕元にはスイッチを引いた渚が立っており、不思議なものでも見つめるかのような目でヒロを真っ直ぐに見つめていた。
開いた口も塞がらず何も言えず、顔面蒼白で自分を見つめるヒロ。
渚はその様子を見てお腹を抱え大声でゲラゲラと笑い出し、ヒロはたちまち赤面した。
「ヒロ、顔!!死にそうじゃん!!!大丈夫?死ぬ?死ぬの?はははっ!!あっはっはっはははは!!」
「うっ………!!うるせー!お前何でいんだよ!いつからいたんだよ!何でここが分かった!どうやって入ってきたんだよ!てかそもそもインターホン押すなり呼ぶなりしろよ!相変わらずツッコミどころばっかだなお前は!!」
超絶早口でまくし立てるヒロの問いに、渚は笑いすぎて涙を浮かべ、しんどそうにひぃひぃと息を吐き出した。
「さっきから呼んでたのに返事しないし電気消すからじゃん!!あっはは!!はははっはぁっ!!ゲホッ!ゲホッゲホッ!!!はっはははっ!!ゲボッ」
「笑い過ぎだろ」
てか、呼ばれてたのか。俺………。
本当に気づかなかった。
渚はポケットをごそごそと漁り、運転免許証を取り出してヒロに手渡した。
「はい。返してあげるー」
「!? これ……」
「何で鞄にそれ入れてたの?普通お財布じゃない?」
ヒロが受け取った自身の運転免許証は、微かに粉末状の泥がついていた。
まさか、鞄落とした時に一緒に落として………?
じゃあ。泥だらけになったのを渚が、洗ってくれたのか………。
「住所はそれ見て分かったから家の前で待ってたの。で、ヒロが帰ってきたからそれ見て入った。鍵は入ったあとヒロが閉めなかったんじゃん」
「うそ?俺開けっ放しだった?」
「うん」
渚はそう言って、尻もちをつく体制で呆然とするヒロのすぐ隣にぴったりくっついて、体育座りをした。
そしてヒロの目を見つめ、にしし。と笑った。
か………!顔、近っ!!
やっぱり………何回見てもめっっっちゃくちゃ可愛い。
改めて確信した。
やっぱり俺は…………渚が好きだ。
けど………。
ヒロは混乱し、戸惑いの眼差しを渚に返した。
やべぇ………。やっぱり分からない。
俺はコミュ障だった。だからこそ、人の感情や意図には敏感に反応することが出来た。誰が今何を考えてるのか、顔を見てれば大体分かるんだ。
だけど。
こいつが何を考えてるのかだけは、いくら表情を読んでてもさっぱり分からない。
「でー?なに悩んでるの?」
「え」
「悩んでるからあんなにイライラしてたんでしょ?…………まさか昨日も一昨日も、ほんとに私が嫌いで怒ってた?」
渚は体育座りしたままほんの少しだけ寂しそうに眉を垂れ下げて、心配と悲愴を含んだ瞳でヒロを見つめた。
それを見たヒロはあっけらかんと、純粋に笑ってみせた。
「渚の顔久しぶりに見て話したら、疲れも悩みも吹っ飛んだよ。ありがとうね」
本心をそのまんま、はっきりと口にしたヒロ。
ヒロを見つめる渚は頬を真っ赤にして目と口をMAXまで大きく見開いて、身体をぷるぷると震わせていた。
「はっ!!はーー!?!?そっそ!そんなの知ってるし!!私と話せて!!う、嬉しかったもんね!?知ってるよ!!そんなの知ってたから!!!」
「ちょ、渚?どうした」
「まず謝れっ!!わ、私から逃げたのを謝れって話をわざわざしに来てやったの!!!今日は!!!」
「ご、ごめん。ごめんって。分かった。分かったってば」
顔を真っ赤にして、さっきとは意味合いの異なるであろう涙を目に浮かべた渚に肩を両手で勢いよくボコボコと殴られながら、ヒロはバツの悪そうな表情で何度も謝った。
気の済むまでヒロの肩を殴った渚は向こうに顔を移して、真っ赤な顔をしたまま小さな声で言った。
「…………ライヌ交換してくれたら、許してあげる」
ライヌというのは、メッセージとか通話が無料で出来るアプリだ。
ヒロと渚はスマホを近づけあって、再びライヌを交換した。
頬を少し赤らめながらも普段の表情に戻った渚を見て、ヒロはズキズキと胸を痛ませていた。
昨日逃げたのは謝ったけど。
渚の連絡を3年間ブロックしてたのは、謝れてない……。
ちゃんと謝らないと………。
固い決意を宿した瞳に宿したヒロ。しかし、結局その日はそれを言い出せずにいた。