第13話 ラッキースケベなんて概念ありません
14:00。
「流石は本社のスーパーエースと言ったところですね。葛木さんから話は伺ってますよ」
鳴上はあまりにも要領の良すぎる須藤に、完全に圧倒されていた。
知識にしてもノウハウにしても敵うところが何一つ無い……。直近の数字を見ても、遠すぎる。
拙者も貪欲に″上″を目指してきた。それなのに。スタートラインにすら立てていない。
一体この男、どれ程の努力を重ねたというのだ?
支社と本社でこれ程の差があるというのか?しかし、来たばかりの男に負ける訳には……。
拳を握り締めた鳴上の言葉に、作業を止めた須藤は顔を上げて何のこっちゃと首を傾げた。
そしてピンと来たのか、テンション高く指をパチンと弾いて鳴上を指さす。
「あぁ!違います違います。僕じゃないですよ〜それ」
「は?」
「僕なんか実績で彼女の足元にも及びませんよ〜。まるで別次元に住んでるような人です」
事実を伝えられた鳴上は立ちくらみでふらつくのを必死にこらえ、こめかみを手で抑えた。
この拙者とした事が……見誤った……ッ!?
この男よりも上が居るというのか………!?
本社が支社と比較にならない程ハイレベルというのは幾度となく聞かされてきた。だが、これは………あまりにも、想像以上でござる……。
鳴上は悔しさのままに手に握り締めていたボールペンを、床に落とした事すら気づかないままだった。
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14:05。会社。
化け物揃いの本社。その中でもエースであり、トップの実力者の慣らしを依頼されたヒロは、目ん玉が3m先まで飛び出たかのような勢いでびっくり仰天していた。
「い、いや……!無理です!支社内の実績は鳴上の方が上じゃないですか!!鳴上に任せましょう!」
「鳴上にはさっき須藤を任せただろうが」
「じ、じゃあ柳さん!柳さんでお願いします!!」
「柳には俺の仕事を手伝ってもらうっつっただろ」
「えっ?何で?何で俺なんですか?支社内を探せばもっと適格な人全然いると思うんですけど。そんな凄い人、実績も歴もペーペーの俺なんかじゃ」
「そういう問題じゃねぇんだよなぁ。とにかくお前に任せるわ」
さっさとヒロに背を向け、管理室に戻ろうとする葛木。
待って………!え?
慣らしってことはそのまま毎日ずっと一緒に仕事するって事だよな?いや無理無理無理無理!!!さすがに冗談じゃない!!何で俺が!?無理だって!!!
死ぬ。
学生時代からからずっとそうだ。気がついた時には明らかに自分に見合わない肩書きや仕事を押し付けられる。だけど、今回は明らかにそんなレベルじゃない。
「そろそろ帰ってくるから、エントランスに迎えに行ってやってくれ。それと」
葛木はニヤニヤしながら振り返り、立ち尽くすヒロを見据えた。
「そいつ、お前に会いたがってたぞ」
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14:10。
葛木が管理室へ戻って行くのを見届けたヒロは泡を吹きそうになりながら、エントランスへやって来た。
怖い。お腹が痛い。
もし毎日葛木さんが隣で働いてたら正直ストレスで腹が痛いけど、これはもうそれ以上かもしれない。
どの人だろう?名前も顔も知らされてないから分からない。
筋肉ムキムキで強面のあの人かな。
見るからに冗談の通じなさそうな雰囲気のあの人かな。
デカい声で威圧してるあのオジサンかな。
あーーーー。帰りたい。今すぐに。
だけど、俺に会いたがってるって……。
この会社に知り合いなんて居たか?
その時目線の外から、緊張感のまるでない悲痛な叫び声がヒロの耳に届いた。
「ぎゃーーー!!ごめんなさいっ!あのっ……!私、全部拾います!すいませんでしたっ!はひゃ!破れちゃった……!すぐに新しいのを持ってきますっ……!ごめんなさいぃぃーー!!」
今にも泣きそうな表情で叫び、必死こいてパタパタ走って、ぺこぺこ頭を下げながら新しい書類を外部の人に手渡す女性がいた。
あの子。同い年くらい……?
めちゃくちゃ謝ってる。
その子の雰囲気はどこか、俺に似ているような気がして。
ヒロは思わずじっとその様子を見つめていた。すると、お客さんを見送って振り返ったその女性と目が合う。
女性の表情と目はぱぁっと輝いて、勢いよく手を振りながらヒロのもとへ走り寄った。
「時枝さん…………!時枝さん!!」
俺、呼ばれてる?もしかして。あんな綺麗な子に?
何で俺の名前知ってるんだろう。
「時枝さーーん!!んべぶっ!!」
べシャッ。
「わーーーーっ!?」
そして次の瞬間、女性は勢いよく左足からつまづいてすっ転んだ。それを見たヒロは青ざめ叫び、考える前に全速力で走り寄る。
「あの……!?大丈夫ですか!?」
「いたた……ごめんなさい。迷惑掛けちゃって」
「俺は何ともないですよ。当たり前ですけど」
ヒロを見上げて控えめにうっすらと笑っているその子は、真っ黒な髪をポニーテールで結いシンプルなスーツを着こなした、清楚で美しい女性だった。
低姿勢かつ少し猫背で、パッと見は小動物みたいな庇護欲に駆られる雰囲気をしている。
先程は大慌てして叫んでいたが、今が恐らく普段の話し方。口を開くとその話し方はパッと見の雰囲気とは対照的に静かで落ち着きがあり、繊細なのを感じる。
大人で賢そうなお姉さんという感じだ。
タレ目で、臆病で自信無さげな人格を想像させられるが、瞳の奥は力強くキラキラと輝いていて、凛々しさと温かさがあった。
俺とこの子はどこか通じ合うものがあるような、そんな気がする。
「あの……!私、鹿沼です。本社から来ました」
「えっ?本社?」
ヒロは驚きを隠せず目を見開いた。
あっ!え!?まさか……この子!??
本社という単語を聞きテンパり散らかしながらも、ヒロは倒れたままの鹿沼に手を差し出すと、鹿沼は一瞬躊躇ってその手を取った。
ごめんそうだよね。俺の手なんか取りたいわけないよねーーーー??
愛想笑いさせてごめんん!!!
そしてヒロに手を引かれて立ち上がると、鹿沼はヒロに深々としっかり頭を下げ、顔を上げて優しく微笑んだ。
「はい。その、えっと………。葛木さんに、時枝さんから色々教わるように言われました。よろしくお願いしますっ」
またもぺこりと頭を下げる鹿沼を見て、ヒロはそのあまりの尊さに逆に胸が痛んだ。
本社のスーパーエース?謙虚すぎない?
こんなに謙虚な人が本社にいる事自体、正直すごくびっくりなのに。
鹿沼が顔を上げて、再び静かに微笑むのを見て、思わずヒロは見とれてしまった。
というか、正直………。この人、すんっげぇ可愛い。
明らかに俺が同じ土俵に立つのは申し訳ないと感じさせる実力と美しさと清楚オーラをビンビン放っているにも関わらず、さっきからめちゃくちゃ微笑んでくる。なんで?
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします………!!俺が教えられる事なんて、無いかもですけど……頑張ります!!!」
「ふふ。そんなことないと思いますよ?」
というか何でまだ鹿沼さんの手を握ったままなんだ!?俺よ!?
0の数が一見分からない程高価な花束でも持たされているかのように、ヒロは強烈に緊張していた。一挙手一投足が落ち着かない気分に、汗が止まらない。
その時鹿沼はまたもや左足からつまづいて、身体がぐらりと大きく前によろけた。
「はわ!」
「おお、っとっと……!?」
危ない……!
ヒロは再び、すっ転びそうになった鹿沼の身体を咄嗟にガシッと支えた。
あわてんぼうさんなのかな?
その手を取ったままだった為咄嗟に身体を支えられたが、気づけばヒロが鹿沼をひしと抱きしめるような体制になっていた。
「鹿沼さん!大丈夫ですか?」
「何度もすみません……時枝さん。やっぱり、親切ですね。すごく」
「い、いやそんな」
やっぱりって何だ?
「時枝さんの手。あったかいです」
静かにそう言ったうーさんの声の抑揚には、繊細な女性らしさがあって。
ヒロは思わずドキリとした。
むに。
その時、超絶柔らかくて癒される感触が、ヒロの右の手のひらを幸せにした。
んっ?何だろう?これ。
視線を下にやると、ヒロの手はおもむろに鹿沼の胸を触っていた。
鹿沼はほんの少し驚いたように目を見開いて、自分の胸を揉みしだくヒロの右手を見つめていた。
むにゅ。むにゅ。
というか正直スーツだったから見た目じゃ分かりづらかったけど。
これ、ゆ、ゆさゆさして、でっか………
「って、違ぁぁぁう!!ごめんっ!ごめんごめん!!何してんの俺!?」
「ふふ。大丈夫ですよ?」
ヒロは慌てて手を離したが、罪なき女の子の胸を指がめり込むくらいがっつり3〜4秒くらいずっと揉んでいた事実と、蘇るトラウマに顔は青ざめ、先程までとは異なる意味合いの汗が大量に身体中から吹き出た。
アカン!!!俺はもうおしまいやぁぁぁ!!
何でこうなるんだよ……。
会社にラッキースケベなんて概念ありませんから。
存在するのはセクハラと訴えられる未来だけ。あの時みたいに。
きっと出来心で万引きして店員に見つかった人とか、こういう心情なんだろうな。
何と言い訳をして逃れればいいというのか。白目を剥きながら、それを必死に考え出す。
「……えへへ。ごめんなさい。随分前の事ですが、足を怪我しまして。ずっと本調子にならなくてつまづいちゃうんです」
落ち着きのないヒロを見つめてそう言った鹿沼は何事も無かったように、優しく微笑んでいた。
何で俺が謝られてるんだろう?
前世の俺がとてつもなく徳を積んだとでもいうのだろうか?
そんな状況にも関わらず、ヒロの右手にはずっと鹿沼の胸の感触が残ったままだった。
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15:00。
ヒロは葛木の指示通りに、鹿沼に必要な引き継ぎを開始したが、早々に驚きを隠せなかった。
この子……仕事の覚えがあまりにも早い。
「ここはこうで」
「見るのは、確かあの資料ですよね。他の方の作業を見てなんとなく分かりました」
「あ、そうですね」
「もし間違ってたら、都度教えて頂けると助かります」
「はい」
余程の特殊なタスクでない限り、会話がこれで終了する。一般的な知識やビジネスパーソンに必要なマインドと呼ばれるものは全て不足なくもち合わせていて、判断も早い。
もはや何も教えなくても戦力の1人にカウント出来そうな勢いだった。
…………いくら本社の第一線の人とはいえ、あまりにもスムーズに引き継ぎが進み過ぎではなかろうか?
明後日の夕方まで掛かると思ってたのにこのままでは今日中に全て終わってしまうため、ヒロは逆に焦っていた。
なんか教えさせてくれ!!葛木さんにサボったと思われてしまう。
しかしひとつだけ、ヒロは胸がぼやっとするような違和感を覚えていた。
ピピピピーーーーッ!!
「ぎょえーーー!!」
「か!鹿沼さん!!大丈夫!?」
「ごめんなさい……!!ま、またやっちゃった………!」
「別の端末で作業しよう!すぐ持ってくるから!」
「はう……すいません……。あ、でも。……これならどうにかなるかも………?」
それは、鹿沼が事ある毎に不運に見舞われる事だった。
彼女はPCに向かい合う最中、物運びしてる人に3回ぶつかられ転倒している。
何も無いところでつまづくこと5回くらい。
普通に作業してるのにキーボードが破損し、ボールペンが真ん中から折れ、PCと印刷機はフリーズした。その様はまるで、破壊神を見ているかのようだった。
今もまさに、鹿沼の使っていたPCが何故か原因不明のエラーで青い画面になってしまった。従業員達の珍奇な目線が痛い。
その度に毎回毎回、鹿沼はうるうると涙目になってヒロを見つめた。
しかし衝撃的なことに、これだけ多くのトラブルが起きたにも関わらず、一切業務もタスクの慣らしも遅延していない。
何故なら鹿沼は機械やツールの仕組みにめっぽう強く、その常軌を逸するほどにぶっ飛んだ地力であらゆる不都合を全て力ずくでゼロに戻してしまうからだ。
気づけばエラーは綺麗さっぱり解消され、鹿沼は何事も無かったかのように作業を再開していた。
少なくとも俺が同じエラーを起こしたら、仕事が半日以上遅れを取るだろう。
うん、うん。なるほどね。勉強になるなぁ。こういうトラブルの時はそうやればいいんだなー。うんうん。
…………って!!真似できる訳ねぇだろうがぁぁぁ!!!
鹿沼は謙虚かつとにかく低姿勢で、誰にでもすぐ謝り、ぺこぺこしていた。そこまで謝ることないのに、と今日だけで既に4回くらい思わされている。
ヒロはそんな鹿沼に逆に、圧倒的な格の違いというか、越えようのない壁を見せられているかのような気分にさせられていた。高圧的な態度を取られてる訳でも、マウントを取られている訳でもないにも関わらずである。
俺が鹿沼さんの立場だったら、あんな目に見舞われ続けたら5分も経たずに心が折れるだろうな………。
って。もう30分は経っていたんだな。
「鹿沼さん。そろそろ休憩どうです?ペースもかなり早いし」
「は、はい……!休憩、します」
「俺は待ってるから、行って来ていいですよ」
「あの。…………良ければ、一緒に休憩しに行きませんか?」
「わ。分かりました」
鹿沼はぱぁっと表情を輝かせた。瞳は相も変わらず、キラキラと光り輝いている。
ヒロは再び緊張し始めた。
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16:30。
休憩室へ向かおうとしているだけにも関わらず、ヒロ達は廊下で何度も何度も足を止める事となった。
「鹿沼さん!支社での意気込み等あるのでしょうか?インタビューと撮影させてください!」
「私、あの鹿沼さんと面と向かって話せると思ってませんでした。泣きそうです」
「本社での1位、ガチ尊敬してます!サイン下さい!!」
「これ、つまらないものですが差し入れです!受け取ってください!!」
止まる気配のないカメラのフラッシュと、ずっと増え続ける人だかり。本社のエースの鹿沼が来たという話を聞きつけて、支社中の至る所から興味を持った社員が集まってきていた。
鹿沼さん、すげーーー…………。あっという間に両肩が差し入れの荷物まみれになってる。
そしてこれだけの人だかりにも関わらず、先程とは打って変わり超落ち着いて対応してる。すごい。
俺は支社内の人達に一言も声なんか掛けられなかったのに。まあ、当然だけど……。
「鹿沼さん!鹿沼さんが尊敬している人や憧れの人はいるのでしょうか?是非この機会に教えて下さい!!」
人だかりがシンと静まり返った。この場の全員が鹿沼の言葉を待っている。
しかしその質問をされた瞬間に、平静な表情をしていた鹿沼が突然ハッと頬を赤らめて、遠巻きにいたヒロのことをしばらく見つめた。
ヒロはその視線に気づくが、意図は当然分からなかった。
なんで突然こっちを見たんだろう。お手洗にでも行きたいのかな?
何人かがつられてヒロの方を振り返って、皆して首を傾げてスッと鹿沼へ向き直っていく。
なんかゴメン。立ってたのが俺でゴメンな。
結局鹿沼は、頬を赤らめたまま『秘密です』と言ってその質問を終わらせてしまった。
憧れの人は一体誰なのだろう?気になる……。




