第1話 社会人になって3年経った
11:00。
10階建てビルに堂々飾られた会社のロゴプレート。
奥行があり広大な業務フロアで、働く人間は1階層あたり実に200人以上。
業務フロアを見渡せばいつもの光景だった。
忙しなくドタバタと駆け回る無数の足音。
永遠に響き渡るタイピング音。
至るところから無数に鳴り響く電話の着信音、取引先との会話。
『いつもの光景』と聞くと少し退屈な印象を受けるかもしれないが、全くそんな事はない。見える光景こそ毎日同じだが、走り回ってる理由は昨日までと全く違うことである事がほとんどである。状況も上司の指示も目まぐるしく変わるからだ。
一瞬足りとも気を抜けない『戦場』は、平和に思えるこの時代にも確かに存在している。
だが、PCで文字を打ち込んでいる最中、微かに鼓膜を叩いた雨の音を俺は聞き逃さなかった。
胸が高鳴り、『戦場』など心から消え去って席を立ち、窓から外を眺める。
窓の外は日中とは思えない程暗く暗雲が立ち込め、激しい雨が降り注いでいた。
ビルの外は曇りの空の下を傘を差した人々が、雨を逃れたい一心で必死に目的地や近くの建物に入っていく。ガラスを無数の雨水が伝い落ちていく。コンクリートに叩きつけられた雨水が水溝に向かってとぽとぽと流れていく。
帰りまでにやむといいけど。
そう思いつつ、俺はテンションが上がっていた。
昔からずっと雨が好きだからだ。
俺、時枝 広志 (ときえだ ひろし 通称:ヒロ)は高校を卒業し社会人になって3年経った。
身長体重はちょうど平均。顔も別にかっこよくもブサイクでもないし、学力も平均。手先は不器用で運動は死ぬ程苦手だ。取り柄は人より少しだけ他人に優しく出来ること。
この説明で、俺が目立って何か出来たりする人間という訳ではない事は充分理解してもらえただろう。
雨はいいな……。心が落ち着く。
ヒロは窓の外を眺めながら、呑気に今日の晩飯を会社近くのカレーにするかラーメンにするか考えていた。
しかし、上司であり統括官の葛木がデスクに歩み寄ってきている事が分かる雑な足音が聞こえた瞬間に、ヒロは血相を変えて慌てて着席して背筋を伸ばした。
普段ここまで来ない癖に…………!
入社以降俺を指導してくださった葛木さんはその姿だけ見れば落ち着いていて、かっこいい大人な雰囲気の青年だった。歳は俺と2つしか変わらない。
自然体だが整った黒髪に、お世辞にも良いとは言えない鋭い目つき。顎にちまちまと無精髭を生やしている。そして耳には痛々しいまでの、無数のピアス跡がある。
スリムな身体付きにも関わらず、その雰囲気からは強烈さと、野性的な力強さを感じさせた。
論理思考を持ち合わせ計算高く、管理能力の高い男ではある。だが、寝坊癖がありよく寝坊して昼頃出社していた。
俺と葛木さんで重要な取引先との打ち合わせがあった日にガッツリ寝坊され、
「すまんが今日の打ち合わせ時枝1人だけどよろしく!」
と電話で言われ、1人で行かされた時は流石に殺意が芽生えた。
いつも楽しそうに笑ってるか、超絶眠そうにしてるかのどちらか。今日は前者みたいだな。ただどちらにしても、この人は仕事をサボってる事の方が多い。
そして俺は知っている。この時間にわざわざ来るということは、厄介事を押し付けられるか、厄介事を押し付けられるかしかない。
「今日も頑張ってるなぁ」
突然労いの言葉をかけられ、ヒロは逆に怪訝な顔になってしまう。
「どうしたんですか突然」
「んだよその面?上司がちゃんとやってる部下を褒めるのは当然だろうよ」
「追加の仕事ですか?」
「違うよ。昨日パチンコ5万勝ってさ。自慢しに来たってワケ」
「勘弁してください」
葛木は自慢話をし、楽しそうにケラケラと笑っている。
どうやら俺がたまたま窓を眺めてサボっていたのはバレて無かったみたいだ……。バレてない、よな……?
「そういえば、例の商談は進んでるか?」
「はい。デカい商談なのでじっくりと……」
「お前に掛かってるからな。頼むぜ」
「分かりました」
ヒロは、葛木にかなり大きい規模の商談交渉を任せられていた。
成功すれば大きな貢献となり、支社内でも大きく名が売れるレベルの内容である。
任された当初は時足が震えそうになった。
逆に言えば失敗は絶対に許されない内容だった。しかし、努力の甲斐あり今は順調に進んでいる。このままやり切って終われればいいけど。
葛木はそれだけ言ってチャラけたようにニタニタと、お調子者のように笑いながら自席に戻っていった。
嵐みたいな人だな、ほんと。外の大雨や雷すら、あの人の前ではしょぼく感じる。
葛木が去っていく後ろ姿を見届け、ヒロは再び窓際に歩み戻り外を眺め始めた。
入社1年目は、この場所で地獄を見た。
無情にも1人、また1人と消えていく一緒に入社した仲間達。変わりゆく顔ぶれ。常に激務である事に加えて不器用な俺は、上手く日々の業務をこなすことができなかった。
それに加えて幼少から重度のコミュ障で、人と話すこと自体が好きではなかったため、メンバーや取引先とのコミュニケーションで毎度張り詰めるように緊張し、精神をすり減らした。
にも関わらず、いわゆる長男タイプで責任感だけはいっちょ前の俺は、出来もしない癖にYesマンで仕事を大量に引き受け、自爆し迷惑を掛けるのを繰り返した。些細な事で責任や負い目を感じてしまう。
馬車馬のように頑張る以外に、出来ることなんて無かった。
辛い思いをする度に辞めようと思った。何度辞めようと思ったか、数知れない。
ようやく2年目あたりから何となくだが、自分のしなければならない動きを理解し始めた。3年目になる頃にはある程度会社から信頼されるまでに至ったのだ。
そして、こんな自分にも部下が出来た。例の大型の商談を任されたのも、その賜物と言えるかもしれない。
初めて思い通りに取引先との交渉を成功させタスクを完了させたあの時、嬉しかった。苦労している社会人全てに、「慣れればどうにかなるから!」ってドヤ顔で話すだけのために、駅前広場で演説をしたい気持ちになった。
嬉しすぎて危うく、自分がこの世で1番偉い存在と錯覚しかけた。
だけど結局はそれだけだった。過去を振り返る余裕は今もなお無いし、取り繕えるだけでコミュ障が治った訳でもない。いつしか今まで楽しいと感じていた、ゲームをしたりアニメを見たりする時間も、そもそも時間を取れないし、楽しいとも思わなくなりつつあった。
何のために生きていたのか忘れそうだなんて考えていた、その胸のぼやがかった小さな違和感すら忘れそうだ。
俺は、こんなに虚しい思いをする為に生まれてきたのか?
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20:00。
おっ、桜だ……。
残業を終え、今日も今日とてフラフラで会社を出たヒロは夜空に美しく散りゆく桜を死んだ目で見上げて、気づいたら小声でそう呟いていた。
月明かりが美しく、こうこうと街並みを照らしている。
今日も今日とて、疲れ切った。もう頭がまわらない。
何も考えられない。1秒でも早くお布団に入って、寝たい。とにかく早く、帰りたい。
いつもこんな状態だから友達と遊ぶ余裕なんてないし、恋人なんて、尚更出来ない。
毎日の楽しみはご飯の時間だった。特に晩御飯を何にするかは非常に重要だ。『どうせ3日経ったら何食べたかなんて覚えてない』などという理由で、晩飯を疎かにするのは愚策だ。
そんな事で、この過酷な世の中を一体どうやって生きていくのか?
しかしヒロの中にあるその思いは、とっくに疲労によって全て『早く帰って寝たい』に塗り潰されていた。
晩飯をどうするか考える事すら忘れ、無気力な瞳でゆらゆらと帰路についていた。
!?
その時、突然両肩に衝撃が走ったヒロは、一瞬何が起きたか分からずに大きく目を見開いた。
身体を壊すには早いだろ!?一応まだ21なんだが……。
そんな事を思ったが、どうやら誰かの手に両肩を掴まれているようだった。
誰が俺の後ろに立ってこんなことをしてきているのか考える暇もなく、その両手は器用に肩甲骨のツボを絶妙な力加減でぐりぐりと押してきた。
ぐりぐりぐりぐり。
うぉぉぉぉ!??
幽体離脱でもしそうな強烈さとキレのある感覚は、脳みそに電流でも流れされているかのようだ。
思わず声が出そうになる。毎日パソコンばっか睨んで疲れ切り、運動不足になったこの身体に、それはあまりにも染み渡った。
後ろにいる人が誰なのかなんてそんな事一切気にならなくなるくらいには、その電流が流れるかのような快楽に夢中になった。
「………ふーっ」
「あぁっふわぁ!?!?」
疲れの取れていく感覚に浸っていると、耳元に息を吹きかけられた。
背筋をムカデでも這い回ったかのような感覚に、俺は我に返ると同時にとうとう変な声を出してしまった。
この通りには人が沢山いる。当然、俺は大勢の目線の的となってしまった。あまりの恥ずかしさに顔が燃えるように熱くなった。
思わずバッと振り返るとそこには見慣れた、久しい顔の女が俺を見てきょとんとして立っていた。
そいつは俺のあまりに疲れきった表情を見て、思わず吹き出して笑った。
「ヒロ♡ やーっと見つけた!」
俺を見つめるその女は、手を後ろに組んでそう言ってほんの少し上目遣いのポーズをとり、心底嬉しそうに、それでいてあざとく「にしし」と笑っていた。
疲れた。帰りたい。早く寝たい。虚しい。辛い。
今まで頭の中を埋めつくしていたそれらの感情を全部地球の裏側までぶっ飛ばす程のその可愛さに、俺は口を開けたまま惚けて、数秒完全に見とれてしまった。
草津 渚 (くさつ なぎさ)。
高校時代以来、3年振りの再会だった。
もうすぐ肩に届きそうな程度の長さの髪。
綺麗な茶髪。染めたんだ……。
すんっっっげぇ似合ってる……。
瞳はぱっちりしてて、好奇心とワクワクに満ちていた。真っ直ぐで澄み切った瞳は、まるで真実を全て見抜こうとするかのようだった。
童顔で、同い年だけど少し幼さが残る。
にも関わらず、昔と違って化粧で整えられたことによって入り混じった大人の魅力は、この夜の街では『危うさ』を感じさせた。
服装は癖が強く、まるで舞台裏のスタッフのようだった。上下共に真っ黒の、フードパーカーと膝丈より少し短めのスカート。真っ黒のタイツに、真っ黒のスニーカー。
癖の強さがありながらも、美しい容姿であり自信と強気に満ちた雰囲気をもつこいつは、街中にいるだけで圧倒的な存在感で目立ち、道ゆく人々の目線を容易に引く。
辺りを舞い散る桜が、その美しさと存在感を更に引き立たせていた。
「…………? ヒロ?どうしたの?」
数秒見とれて黙ったままの俺に、渚は目を見開いて興味深いものでも見るかのように見つめてそう問いかけた。
その瞬間俺は、地面がめくれ上がる程勢いよく踵を返した。
俺は渚に背を向け、全身全霊、今生最後と言える程に、腕をちぎれそうなくらい勢いよく振って全力疾走をした。
「は!?はぁぁぁぁぁぁぁ!? ちょ!ちょっと待ってよ!! やっっと見つけたのにぃ!! ねーーー!ヒロぉぉー!!」
何でこんな所に?
どうして俺を見つけられたんだよ………?渚。
高校卒業して離れ離れになって、SNSもライヌもブロックして、やっとお前を忘れられると思ったのに。
再会したと頭が理解したその瞬間の、心臓のバク付き方。嫌でもこの気持ちを思い出してしまう。
困ったぞ。本当にこれは、困った。
3年が経った今でも俺は。
お前の事が、好きなまんまだった。