最終話
「はい、復唱――婚約破棄!」
「婚約破棄」
「婚約破棄!」
「婚約破棄」
「もっと言葉の刃を尖らせて! 触れるもの皆傷つけるつもりで! 婚約破棄!」
「こ、婚約破棄!」
「憎めこの世を! 憎悪しろ世界を! 悪意を無責任にまき散らせ! 婚約破棄!」
「――トト、ちょっとやりすぎじゃない……?」
ゲインロットがシロエ・クロワのことを相談した翌日から、第二王女トートロッドが書き上げたシナリオに添って稽古が始まった。
シロエに婚約破棄を伝える。
トートロッドの提案は、ゲインロットには到底受け入れられないものだった。
確かにシロエの本心は気になる。
お互い知らないところで生きてきたのだ。
シロエの人生は、これまでどう生きてきたかは、まだほとんど知らない。ここまで来る過程でいろんなことがあったはずで――当然、その間に好きな男ができていたって不思議はない。
親の都合で決まった政略結婚だ。
貴族の娘として育てられたシロエが、己を殺して貴族の運命を受け入れることくらいは、ゲインロットでもわかる。
だが、ゲインロットはシロエが好きだ。
好きだからこそ、貴族だの政略だのは関係なく、幸せにしたい。幸せになってほしいと思う。
もしそれを叶えるのが自分ではないとしたら……
そう考えた時、ゲインロットは「リュスカーの星空」のロメッツと同じ思考に辿り着いた。
だから姉に相談したのだ。
だがしかし、だからといって安易に別れを選ぶつもりはない。むしろ別れたくはない。断じて別れたいわけではない。
それはあくまでも、最後の最後に選ぶべき選択だ。
「まあ聞きなさい。ルーディお兄様も聞いて。上手くいけば『星空』の騒動を終わらせることができるかもしれないわ」
が、詳細を聞いてゲインロットは、これは悪い手ではないと思った。
流行に乗じて婚約破棄を申し込む。
これにシロエが応じるようなら、シロエの中にゲインロットはいないと判断し、大人しく身を引くことを考えてもいい。
もし婚約破棄を少しでも嫌がるようなら、婚約破棄を申し込んだゲインロットの目的と胸中をすべて話し、シロエの本心を問う。
貴族の娘として優秀なシロエは、正面切って尋ねても、素直に胸の内を明かさない可能性が高い。
たとえ想う男がいてもその気持ちに蓋をし、親の決定に従い、政略結婚を受け入れる――一年間シロエを見てきたゲインロットにさえ、それくらいのことはわかる。
シロエは公爵家の娘として恥じることは絶対にしない。
だからこそ、「別れる道もある」ということを、ゲインロット側から提示する。
これならば、シロエに好きな男がいた場合、あるいはゲインロットのことを好きではない場合、別れやすくなるだろう。
それこそ公爵家の娘として、婚約破棄を申し出るような無礼な男、たとえ王族相手でも怒るだろうから。
「悪くないとは思うが……」
そして、トートロッドの提案に賛成したもう一人、第二王子ルーディロットは。
「……うーん」
目の前で婚約破棄婚約破棄、それはもう額に汗して熱心に破棄破棄言っている妹弟を見ていると、果たしてこれが正しいことなのかどうか微妙な気持ちになってきた。
特に王女トートロッドが破棄破棄言っているのはいいのかと。この前までパパと呼んでいた国王が見たら泣くんじゃないかと。
……いや、微妙な気持ちになるなら、有効ではあるのだろう。
ただ、王族が連呼する言葉としては、二重の意味で正しいとは思えないだけで。
――こうして、日々繰り広げられる婚約破棄の練習を経て、あの日の食堂の事件が起こったのだった。
そして、事件のあった日の夜。
「――シロエ」
夕食の席で、父がシロエの名を呼んだ。
シロエは「ああ、来たな」と思った。
来ると思った。
シロエは、ゲインロットからの婚約破棄を受け入れられないままである。悲しいだのなんだのという感情さえ追いついていないのだ。
それゆえに、まだ、公爵である父に報告ができていない。
部屋に戻って落ち着いて考えて、気持ちの整理をつけてから……と思っていたのだが、冷静に考えたって落ち着くことはなく頭の中はぐちゃぐちゃで、時間の無駄だっただけで今に至る。
しかし、父は公爵である。
この手の政治絡みの重大な話は、娘が報告する前に耳に入っていても、なんらおかしくない。
「もう少ししたらゲインロット殿下がお忍びでやってくる。準備しておきなさい」
「は、はい!?」
例の婚約破棄についてだと思ったのに。むしろそれ以外がないと思ったのに。
まさか本人がやってくるだなんて。
「……はっ!?」
まさか。
まさか、本気で婚約破棄をするつもりでは?
そのつもりで、父に直接告げるために来るのでは?
なかなか受け入れられなかった婚約破棄が、この段でようやく実感が湧いてきた。
父が、公爵が絡むなら、それは本当に嘘でも冗談でも済まないことである。
シロエがゲインロットの婚約破棄を信じられなかろうがなんだろうが、婚約破棄となる現実がやってくる。
ゲインロットとの婚約を破棄される。
そんなことは考えられない。
さーっと顔から血の気が引いていく。
眩暈を起こしそうなほどに、受け入れがたい現実がやってくる。
――それでも倒れなかったのは、公爵家の娘としてのプライドゆえだった。
本心では、いっそ倒れてしまってこの現実から目を背けたいと思っていたものの、そんなことは許されない。
現実味がなくなった。
味のしなくなった料理を口に運び、夢の中のような現実味のない色褪せた家の中を歩き、……侍女の手で受け入れがたい現実を受け入れる準備が始まる。
綺麗に着飾り、化粧をし、下品でない程度にアクセサリーを身に着け、戦闘準備が完了する。
「――ゲインロット殿下が来ました」
そして、絶対に勝ち目のない戦いへと赴く。
「ごめん。ごめん。ごめんなさい。ごめん」
化粧をした上でも顔面蒼白で、誰が見ても普通じゃない虚ろな瞳でやってきたシロエ・クロワを見て……
ゲインロットは彼女の前に駆けると、跪いて、謝罪の言葉を繰り返した。
「嘘なんダ。僕は君と別れタクない」
取られた手が温かい。
色を失い、現実を必死で拒否していたシロエの目に、手に、胸に、現実が戻ってくる。
「僕は君と婚約破棄なんてシたくない」
「――おいなんだ若造! 娘に何を言う!」
なんだか聞き捨てならない言葉が出てきて、思わずシロエの父が吠える――が、「まあまあ」と事情を説明するために同行してきた第二王子ルーディロットが宥める。
「ゲイン、そっちは任せる。こっちは任せろ」
身分を忘れて憤慨する公爵など目に入らないのか、ゲインロットはひたすらシロエに謝罪し……シロエは少しずつ現実へと戻ってきている。
だが、なんというか、すでに二人だけの世界に旅立っているようで、ここが公爵家の応接間でほかに人がいるのも目に入らないらしい。
ひたすら謝り倒すゲインロット。
まだ呆然としているシロエ。
今にも「王族とか関係ねぇぞガキが」と言い出しそうな怖い顔の公爵。
そして、完全に無視された形のルーディロット。第二王子なのに。
なかなかカオスな状況である。
「はいはい、こちらこちら」
いろんな意味で見てられなくなったのか、控えていた侍女が強引にゲインロットとシロエを押して、部屋から追い出した。
クロワ家の外に……二人きりになれる場所に押し出され、ゲインロットはシロエの手を引いて、どこへ向かうでもなく庭を彷徨い歩く。
庭師の手によって整えられた庭は、星明かりの下でも美しい。
夜になると真冬のような寒さに晒されるが、しかし自然は、春の芽吹きが始まりつつある。
もうじき春になり、この庭もあざやかに彩られることだろう。
「……うそなの?」
シロエの口からぽつりと漏れた一言に、ゆっくりと歩いていたゲインロットが振り返る。
「ごめん。昼の、嘘だ。僕は君と結婚したい。婚約破棄なんてしたくナイ」
「では、なぜ……?」
ゲインロットは全てを語り出した。
小説「リュスカーの星空」を読んで、ロメッツに感情移入したこと。
シロエが自分のことをどう思っているかわからなかったこと。
ほかに、好きな人がいるかもしれないと、考えたこと。
「僕と君、親が決めタ結婚相手。僕と君の気持ち、関係ない。シロエ、僕の前では笑わナい。貼り付けた笑顔バカり。友達と一緒の方が楽シそう。
婚約破棄は、嘘だ。僕はシたくない。
でもそれ以外、あの時言ッタこと、嘘じゃない。
セフレ・ラァンドルォール嬢、ンッチン・ポートォ嬢、ついでにイィン・ポゥトォ。
友達といる時、シロエ楽しそう。僕といる時ヨリ楽しそう。
僕はシロエに好かれてないカモしれない。そう思ったから……」
だから婚約破棄を告げて、シロエの反応を見たかった、と。
そんなゲインロットの告白を聞いて、シロエの目はどんどん丸くなっていく。
驚いていた。
そんな風に思われていたなんて、微塵も考えもしなかったから。
――心当たりは、ある。
シロエはゲインロットから好意を示され、それをただ受け取るだけだった。
自分から意思表示はほとんどしなかった。
通じていると思っていたからだ。
どうせ婚約は免れないし、結婚するのは確定している。
それなのに、ガンガンに好意を示してくるから。
両想いであることがわかっているから、好意を示していると思っていたのだ。
言い方はあれだが、釣った魚にエサをあげまくって二人の情を太らせているのだろうと思っていた。
そういうのが好きなんだろう、と。
その状態で、シロエまでゲインロットにエサをあげるような行為をし始めたら――巷でたまに見かけるバカップルに成り下がる。
周囲の目を気にせずイチャイチャするなど(まあ少しぐらいはしてもいいと思うけど)公爵家の娘として許されないし、また第五王子をそんな周囲の人間の眉を寄せさせるようなものにさせるわけにもいかない。
それゆえ、意思表示はあまりしなかったのだが……
それがゲインロットを不安にさせてしまったらしい。
好きなのは自分だけで、そっけない態度のシロエの気持ちは自分にないと、思ってしまったらしい。
「ゲインロット様」
シロエはまっすぐに、まだ同じ目線の先にある、婚約者の青い瞳を見詰める。
夜空の下で揺れている。
彼の中には、シロエに対する不安がある。
「私はあなたが好きです。他に好きな男性などいません」
その不安を払拭できるのは、シロエだけである。
「あなたなしでは生きていけないと思うほどに、あなたが大好きです。お慕いしております」
「……ほんとに? 僕でいいの?」
「あなたじゃないと嫌なんです。ここまで私を好きにさせておいて……もう二度とあんなことは言わないでください」
そっと身を寄せると……ゲインロットは優しく、そして強くシロエの身体を抱き締めた。
心に空きそうになった風穴と、まだ冬の風を帯びた寒気と。
二つに震えるシロエを、ゲインロットは温めてくれる。
「うん。もう二度とシロエと破棄したい、なんて、言わない」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ええ。二度と言わないでください。本当に」
星空の下、シロエの瞳から一筋の光がこぼれた。
その涙の意味は、シロエ本人にもわからなかった。
――まあ、もしかしたら、「最後も台無し……」に近い感情だったかもしれない。
こうして、第五王子ゲインロット・ロマシアと公爵家令嬢シロエ・クロワの婚約破棄騒動は、その日の内に解決した。
春が来る。
ゲインロットは、生まれ育ったサカオー王国に帰るという選択肢を捨て、ロマシアの上級貴族学校へ進級することを決め。
シロエも、何事もなかったように貴族学校の最上級生になる。
そして、春を迎える前に、貴族学校に蔓延していた婚約破棄病は無事終息した。
正確には、ゲインロットの婚約破棄発言以来、もう起こらなかった。
何せ婚約破棄と聞けば、あるいは文字で見るだけでも、嫌でも婚約破棄が連想されてしまうから。
あの場にいた多くの者が、「婚約破棄だ」と高らかに叫んだゲインロットの声が、幻聴のように聞こえてくるようになったから。
「リュスカーの星空」の思い出や感動を塗りつぶすように、すっかり破棄の衝撃が上塗りされてしまったのである。
そんなもので感動だの自己陶酔だの、できるわけがない。
あの時あの現場でこそ、色々と衝撃が強すぎて笑えなかったが。
少し落ち着いてきたら、婚約破棄という字面を見るだけでクスクス笑い出す者も出てきている。
今となっては、貴族学校で婚約破棄などと口走ろうものなら、大笑いされてしまうだろう。
――感動とは程遠い破棄になってしまった今、廃れるのは当然の流れだった。
春が来た。
冬の騒動など寒さと共に去ってしまい、ロマシア貴族学校の新たな一年が始まる。




