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 頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 クロワ公爵家の娘としての教育と、公爵家の娘として恥じない教養を身に着けるための勉強は、シロエにとっては義務である。


 幼少時こそつらいこともあったが、十四歳まで続けてきた今となっては、ただの日常になっている。


 ――そんな日常が、まったく手に付かない。


「……ああもう……」


 何もする気になれず自室のベッドでごろごろしながら、今日の昼休みにあった騒動が頭の中をずっと支配している。

 こんな忌むべき怠惰な過ごし方、体調を崩した時しか許されないのに。授業の予習復習をしたり、そろそろ全身オイルマッサージをしたり、公爵領を富ませる事業のアイデアを考えたりしないといけないのに。

 

 しかし考えられるのは、食堂でのあのことだけだ。


 あれはいったい何だったのか。


 ――「婚約破棄(ファッ〇ン)だ!」


 婚約者に突き付けられた言葉の一つ一つが、ずっとずっと、シロエの頭の中を駆け巡っている。


 あれはどこまで本気なのか。

 本気だと信じたくないシロエは、なかなか言葉そのままの意味として呑み込むことができないでいる。


 だって、この一年、婚約を破棄(ファッ〇ン)したいなどという態度や言葉は、婚約者ゲインロットからは一切窺えなかったからだ。一切だ。わずかな可能性さえ見えなかったからだ。もちろん心変わり……ほかに気になる女ができたとか、そういう気配もまずなかった。


 いや、むしろ。


 むしろ、ゲインロットの好意と誠意しか、シロエには感じられなかった。

 なかなか言葉で意思疎通の取れないゲインロットだからこそ、拙い言動の全てで、それらを伝えてきていた。


 ――だから好きになった。


 最初は一目惚れだった。

 だが、知れば知るほど、もっともっと好きになっていった。


 もう首の辺りまでどっぷりと、ゲインロットという沼に沈んでいるという自覚がある。

 この状態から抜け出すことができるかどうかわからない、それくらい深く惚れ込んでいる。彼を失ったらと想像するだけで、それだけで身が竦む。それほどまでにだ。


 ゲインロットが意図していたかはわからないが、シロエは割とちゃんと口説かれたのだ。

 時に豪速球で、時折変化球で、稀にすっぽぬけのような奇跡の魔球で、シロエのストライクゾーンをもうあの手この手でズバンズバン攻めてきた。えっ、そんな攻め方!? と戸惑うことも多々あったくらいにだ。


 初対面が悪ければまだしも、最初から好意を持った相手から露骨なまでの親愛の情を向けられれば、なびかない方がおかしいだろう。


 シロエはゲインロットが好きだ。

 自分を好きだと言ってくれる、彼が好きだ。

 たとえ「僕はゲイ!」と衆目の中堂々と言い切った彼でも、今でも揺るがず好きだ。


 ――だから、直接、はっきりと婚約破棄(〇ァッキン)と言われたことが、やはり信じられないのだ。


 彼と一緒で嫌な思い出などない。

 強いて言うなら、言葉が通じずもどかしそうな顔をするのが、気になっていたくらいだ。でもそれも今では少なくなり、二週に一度の茶会では割と普通に会話ができるようにさえなってきた。


 正直、これからは楽しいことしかないだろうと思っていた。

 会話ができるようになれば、一緒にいろんなことをして、たくさん思い出を作り、貴族には珍しい両想いで結婚まで行くと思っていた。

 きっと「結婚式が待ち遠しい」と思いながら一緒に上級貴族学校に通うんだろうな、と思っていた。


 それが婚約破棄(ファ〇キン)だなんて。


「ああもうっ……!」


 イェン・ポートに嫉妬して「シロエは僕の婚約者」と言った彼の言葉が胸に刺さり、むず痒いような痛みを訴えてくる。


「僕は君と破棄(ファ〇キン)したい」などと戯言を言われた時は、その時こそ「それはダメ」と言ったが、冷静に考え直した今は、違う意味でならそうダメでもないような気がしてきた。


 別にいいじゃないかと。

 逆にゲインロットと触れ合いたいと思わない方がおかしいのではないか。婚約者なのだし。少しくらいいいんじゃないかと。どうせ結婚するのだし。少しくらいはいいじゃないかと。


「……ふふっ、もうっ……」


 手を繋いで歩くことを想像するだけでニヤニヤしてしまう。

 それ以上はまだ早かろう。

 そこまででも危ういのに、それ以上となると、年月を掛けて鍛え上げた鉄壁の表情筋が確実に緩んでしまうだろう。


 もしキッスなどされたら心臓が爆発して死ぬかもしれない。でもそんな死に方も悪くないと湧いた頭は思ってしまう。


 ――現実逃避なのはわかっている。わかっているが、それも含めて、頭がぐちゃぐちゃで何も手につかないのである。


「…………」


 そして、ベッドで悶え続けるシロエお嬢様を、幼馴染同然に育ち仕えてきた侍女は、窓辺を這う芋虫を見るような目を向けていた。


「……お嬢様」


「ひゃっ」


 シロエは頭がぐちゃぐちゃだったせいで、ノックの音もドアが開いたことも人の気配にも気づかなかった。

 わざわざ耳元で呼んでくれた侍女に驚いて、器用にベッドの上でゴロゴロした体制のままぴょんと跳ねて見せた。


「な、なんですか! ノックをしなさい!」


「はあ、申し訳ありません。ところで何をなさっていたので?」


「何……って、……寝てたのよ!」


 絶対にそんなことはないとは思うが、侍女はもう触れなかった。

 外ではしっかりと公爵の娘として振る舞っているが、実際はまだ十四歳の娘である。自室で油断することもあれば、妄想で身もだえることもあるというものだ。


「夕食の準備ができました」


「え……」


 シロエはようやく、室内が暗いことに気づいた。

 どうやらベッドでごろごろして頭がぐちゃぐちゃの間に、夜になっていたようだ。


「……ああ、もう……」


 とんだ無駄な時間を過ごしてしまったことに、思わず失望の声が漏れた。





 そしてこの夜、シロエの頭をぐちゃぐちゃにした原因である婚約者がクロワ家を訪ねてくることを知らされるのは、夕食時のことである。

 




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