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後半の会話はぜひ朗読してお楽しみください。
寒さを堪えて午前中を過ごし、昼になれば程々に暖かくなってきた。
寒いままなら、食堂へ行く元気と勇気もなかなか湧かなかっただろう。
寒さを凌げる教室から出るのも、断腸の思いで下す一大決心となっていた。
思ったより外の温度が低くないことにほっとして、シロエはセフィーレとシンファに誘われるまま教室を出た。
「少し情報を集めてみたのですが、把握できているだけで三十四組が婚約破棄問題に発展しているようです」
シンファの言葉に、「え? そんなに?」とセフィーレが驚く。
シロエも同感だった。
三十四組。
この二人から頻繁に噂は聞いていたが、思った以上に多くて驚いている。
架空の物語に影響を受けるな、とは言わない。
だが、家や利益やプライドといった多くの要素が絡み合っている貴族の現実において、婚姻関係の契約を安易に持ち出すような大それたことをするなんて。
とんでもなく馬鹿馬鹿しいと思う。
何が相手を思いやっての婚約破棄だ。
そういうのは作り物の物語だから美しいのであって、実際にやれば周囲に迷惑を掛けるだけだろうに。それも取り返しがつかないほどの大きな迷惑を掛けかねないのに。
いずれ庶民の上に立つであろう未来の紳士淑女であるはずなのに、貴族の本分を忘れて流行に流されるとは。
このロマシア王国の将来が不安で仕方ない。
「でも、さすがに侯爵から上は、ないようですよ」
それは安心できる情報だった。
シンファの言葉に、セフィーレは「それは私も聞いたわ」と返す。
「特に王家は、やはりあまり良い顔はしていないみたいね」
「あ、らしいですね。どうせ一時の流行りだろうから王族は動く気はないだろう、と兄が言っていました」
だろうな、とシロエは頷く。
王族が動けば大事になってしまい、この流行り病で多少なりとも傷ついた者たちの傷が、もっと広く深くなってしまう可能性がある。
だから、あえて放置して流行が去るのを待つ、というのが王族の意向らしい。馬鹿馬鹿しくて触れたくないというのも多分にあると思うが。
この貴族学校の生徒は、まだ子供に分類される。
決定的な何かがない限りは、まだ修復ができるはずだ。
婚約なんて家同士の契約である。
もっと言うと、貴族の婚姻ならロマシア国王陛下が許可したものである。
いくら訴えようとも、子供だけの意思では、どうなるものでもない。
「ところでシロエ様」
貴族学校の食堂は、いわゆるセルフサービスである。
料理人から受け取ったトレイを持って、三人テーブルに着く。
市井の食堂や定食屋ではないので、大勢がいても多少周囲の話し声が聞こえる程度で、そこまで騒がしくもないし混雑もない。
「最近ゲインロット殿下とはどうなっているか、聞いてもよろしいですか?」
煮込みハンバーグをメインにした定食を頼んだセフィーレが問う。彼女はハンバーグが好きだ。
「あ、私も気になっていました。あの方、今年で卒業ですよね」
もつ煮込みをメインにした定食を頼んだシンファが追従する。彼女はもつ煮込みに入っている味の沁みたキャベツが好きだ。
「あの方とは相変わらずよ」
ぐつぐつと煮えたぎる灼熱のビーフシチューをメインにした定食を頼んだシロエは、肩をすくめてそう言った。
シロエは寒かったので温かいものが食べたかっただけなのだが、これは明らかにシェフのやりすぎだろう。
どうも鉄の器が焼けているようで、湯気がすごい。物珍しいから試している者も多いようで、そこかしこのテーブルからお香のように煙が昇っている。
まあ、かなり美味しそうではあるが。
この煮えたぎるぐつぐつも、食を楽しませるための一要因と考えれば、やりすぎではあるが許さざるを得ない。
「手紙のやり取りだけなら、もう不自由はないわね。文章もかなり整ってきているわ」
「え、すごいですね。まだ一年も経って――あ」
噂をすれば、である。
視界の端に映った人物を見て、シンファは口を噤んだ。何かとシロエがぐつぐつ煮えるシチューの湯気越しに視線を向ければ……
なるほど、黙った理由がそこにいた。
ロマシア王国第五王子ゲインロットである。
それと、彼の友人として補佐役に付いているシンファの兄イェン・ポートが食堂に入ってきた姿が、激しく立ち昇る湯気の向こうにうっすら見えた。
ゲインロットは、まだまだ男性と言うには線が細い美少年だ。
これから成長期を迎えてぐんぐん身長も伸び体格も良くなるであろう現在は、背格好はシロエと同じくらいである。
一見冷たい印象の強い青い瞳は穏やかな温かさを帯び、光に透かした蜂蜜のような美しい黄金の髪は長く、緩く三つ編みにしてまとめている。
まだ高くはない身長のせいか、長い髪のせいか、攻撃性を感じさせない顔立ちや瞳のせいか。
こうして見ると美少女のようにも見えて、男も女も惹きつけそうな……性別を意識させない怪しい色気を放っている。
常に傍に控える伯爵家長男イェン・ポート――シンファ・ポートの兄が、すでに精悍な顔立ちで体格もよくがっしりしているだけに、対比のせいで余計にそう見えてしまう面もあるのかもしれない。
――いずれアレが私のものになるのだ。
そう思うと、シロエの胸は高鳴る。ニヤニヤしそうになる。よだれだってだらだら流しそうだ。アレは私のだ。顔にも態度にも出さないが、すでに完全に惚れ込んでいる。
そんな二人を、いや、麗しき婚約者に見惚れていると――ゲインロットの視線が、激しく昇るシチューの湯気越しにシロエと噛み合った。
「……えっ」
思わずシロエは声を漏らした。
いつもなら、どこであろうと顔を合わせれば、ゲインロットは声は掛けないまでも微笑んで見せる。
そしてシロエも、それに黙礼を返していた。
だが。
なぜだ。
ゲインロットは激しく立ち昇る湯気越しにシロエを確認すると――常にない厳しい顔をした。
微笑みなんてない。
青い瞳から温度が消えた。
眉間に寄るしわは不快感の表れだろうか。
シロエは混乱した。
自分は何かゲインロットの、婚約者の気に障るようなことをしただろうか、と。でもそんな顔も愛しいと思えるのは惚れた弱味か。
いや、ない。
ないと思う。
ゲインロットとは距離を置いている関係だ。
もっと言うと、怒らせるようなことさえできない、間を空けた関係だ。
もしかしてシチューかと。
こんなぐつぐつに焼いた鉄の器でいつまでもアツアツをキープしているビーフシチューを頼んだせいかと。湯気が鬱陶しいという意味かと。物珍しさに負けた貴族の令嬢にあるまじき不躾な好奇心に眉をひそめるのかと。いいえ好奇心じゃない寒いだけですと言い訳のような弁解をせねばならないのかと。
そんなことを考えていると――ゲインロットがイェンを連れて、こちらへやってきた。
そして――開口一番言ったのだった。
「シロエ・クロワ! 貴方トノ婚約を破棄する」
えっ。
……えっ?
表情筋が壊れているとまで言われたことのあるシロエの無表情が、さすがに変わった。
いや。
何がとは言わないが、片方だけなら、内心の動揺を隠したまま受けられたかもしれない。
何がとは言わないが、襲い来る衝撃が予期せぬ二重構造だったせいで、厳しい教育を受けてきた貴族らしさを軽々粉砕されたのだ。
ゲインロットの言葉は、一つの言葉で二つの問題があった。
まるで声を忘れたカナリアのように呆然とゲインロットを見ていると、――彼は婚約者に対し、もう一度、念を押すように、声を張って言ったのだ。
「婚約破棄だ!」
二度目である。
残念なことに、気のせいではなかった。
己の耳がおかしくなった方がよかったと思えるほどに、空耳でもなかった。
ちょっと噛んだだけかと思えば、むしろ発音だけは一部異様によかった。どことは言わないが破棄辺りの感じが非常によかった。タンギングも完璧だった。
後ろに控える常に冷静沈着なイェン・ポートも目を見開いているので、ゲインロットのこの言動は彼も知らなかったようだ。
「い、い、いったい、急に、何を……?」
シロエは迷った末に、それだけ言った。
正直、どちらに焦点を合わせていいのか、わからなかったのだ。
というかもう片方には触れていいのか、わざとなのか、そうじゃないのか、知っていて言っているのかそうじゃないのか。
周りに大勢の生徒もいるこの状況で触れると、ゲインロットの汚点になるかもしれない。
いろんな疑問と可能性が駆け巡ったシロエは、どちらも、具体的な部分には触れないよう、しかしどうとでも取れる質問を返した。
というかそれしか返せなかった。
「シロエ、僕は、悲しい……」
ゲインロットは本当に悲しそうな顔をする。実にそそる。
ついさっき言い放ってはいけない衝撃を言い放った者のできる顔ではない、加害者ではなく被害者の顔をする。
「な、なにが、ですか? このぐつぐつのシチューがそんなに気に入りませんか?」
他に彼の気に障る心当たりがないシロエは、いつもなら「そんなわけあるか」と判断するであろう世迷言を口にする。シェフはやりすぎだが悪いことはしていない。
「……」
ゲインロットは激しく立ち昇る湯気をちらりと見て「え、何それ見たことない」みたいな素の顔を一瞬見せたが、すぐに伏し目がちになった。本当にそそる。
「シロエは、いつも楽しそう」
「は、はい……?」
彼の悲しみを湛えた視線は、同じテーブルに着き、思わぬ修羅場に同席して固まっているシロエの友人たちに向けられた。
「セフレ・ルァンドゥゥル嬢」
「――せふっ……!?」
いきなり最悪の暴言を吐かれたっぽくなったセフィーレが絶句した。
「チィンァ・ポートゥ嬢」
「――チンっ――ごほっうほっえへんっ! んんっ! 私は何も言ってない!」
反射的に思わず口にしようとしたそれをシンファは危ういところで軌道修正した。
とんでもない巻き込まれ事故だった。
だがそんな事故など気づいていないらしく、ゲインロットは続ける。
「シロエは、僕とイると、笑顔なれない。セフレ嬢とチィンァ嬢といると、楽しそウ。僕は君を、幸せに、きっとデキない」
「――ちょ、ちょっと待ってください。殿下。落ち着きましょう、ね?」
衝撃の余波で固まっていたイェンが、ようやく止めに入る。そりゃ止めるだろう。さっきから補佐すべき第五王子がちょっと色々と発音的にまずいことを言っている。というか止めるのが遅いくらいだ。
が、いつも穏やかなゲインロットは、そんなイェンをキッと睨みつけた。
「僕、君にモ言う! ィェイン・ポートゥ!」
「イン、ポ……!?」
「君、シロエと仲良イ! 僕ヨり仲良い! 僕が婚約者なノニ!」
「インっ、いや……私は、その、私はただの妹の添え物です! クロワ嬢が仲良くしてくださっている愚妹のついでで、それなりに良くしていただいているだけで……!」
「黙れ!」
少々しどろもどろになっているのも致し方ないイェンの言葉を、ゲインロットは一蹴した。いつになく凛々しい男の顔にキュンとする。でも正直シロエはキュンとしながら「おまえが一度黙れ」と思った。
「シロエの婚約者、僕! ゲイが婚約者!」
待て。
なぜ急に自分のことを略称で呼び出した。
「あの、殿下、ちょっと落ち着いて……」
やはり一度強引にでも黙らせた方がいいと英断したシロエが、止めに入ろうとするが――ゲインロットはシロエまで睨みつけた。
「僕は落ち着いてイる! ゲイは落ち着いてイル!」
いや絶対落ち着いてないだろう。
「ゲイじゃなくてゲイン様でしょう? あなたはゲイン様! ゲイは違う! でしょ!?」
「僕はゲイ!」
「だからあなたはゲインでしょうが!」
もう「僕はゲイ」は完全に違う意味だ。
「シロエ! なゼ僕の言うコト、ワカらない!」
「何がですか!?」
「僕は君と破棄したいンダ!」
「それはダメ!」
剥き出しじゃないか。
欲望が剥き出しじゃないか。
それではもう意味が違う。婚約を付けろ。付けてもダメなくらいなのに。でもそんな取り乱す彼も好きだとシロエは再確認した。
「だから! ゲイと君は破棄ナンだ!!」
「ああもうっ……!」
シロエは頭を抱えたくなった。
所々の単語が気になり過ぎてゲインロットの主張が、核となる部分がいまいちよくわからない。




