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「道、わかるの?戻れる?」

「うん。わかる。あっちがハーバーランドでしょ」

 ゆかりは心配そうだった。おとわは周囲を見回した。イベントをやっていた倉庫がある区画を抜けた先の大きな道だ。道に設置された照明灯の間隔は広く、そこだけ光がぼうっと広がっているがそれも上から迫る暗闇におしつぶされかけている。

「ここまででいいって、本当に?」

「ここでタクシーに乗るよ、大丈夫」

 別れの手を降り、最後まで眉を寄せていたゆかりがやっと踵を返して戻っていくのを確認すると、おとわはタクシーを待つ列からこっそり抜けて、夜の道を歩き始めた。

 いい?神戸の海沿いの地域には絶対に近づいちゃだめだよ、お嬢さんが歩き回るような所じゃないから。そんなことを言われていたことをぼんやり思い出したが、何よりも動いているものの気配がない。人の影一つ、車の影一つない。さっき客を待ちながら、次々に乗り込んでいたタクシーも、いったいどこへ行ってしまったのだろうと危ぶむほどだった。

 やめろやめろって言われ続けて、言葉ひとつ交わすわけでもない。ただわたしがまとわりついていただけだ。今は遠くからただ見守る。この胸の愛の行き場はある。確かにある。

 苦しかった思いがうそのように、胸を押さえた手の中で膨らみ、輝いて飽和する。

 粒子になってこの夜の闇を照らす。水の匂いを含んだ空間、コンクリートのじめじめした床、昼間はこの港を足を引きずって何度も往復していた。

 抱え込んだ不安と届かないもどかしさを映していた慣れない道が今は体が軽い。

 今日が最初で最後のチャンスだった。来て良かったんだ。

 夜の道を闊歩(かっぽ)する。

 ゆかりにだけ、顔を傾けて何か物問いたげな、話そうという意思を示していた。彼はきっと、ゆかちゃんのことだけは…。

 そんな風に考えるのもどこか他人事、上の空で、今あるのはどこともしれない人のところに飛んでいって戻って来ないおとわの体だ。

 満足感だけが、頭の方から胸に下がってきてそこで滞留している。

 その温かさに支えられて、おとわは今まで目を背けていた出来事をよく考える余裕ができた。大切なことだ。何かとても大切なものに背中を向けて逃げ出してしまった。

 自分がしたこと、してきたことだ。すべてがぐっと上から闇とともにのしかかってきて押しつぶされそうになる。手足が曲がって座り込んでしまいそうになるのを支えているのは、まだはっきり残るあの絵を見た時の高揚感と衝撃だ。あの時、おとわを空に飛ばしたあの力がまだ残っている。だからこうして歩を前に進めている。だが体を動かせば疲れるように、時間とともに絵は細部から次第に薄れて記憶から少しずつ抜けていく。

 おとわはぼんやりと周囲を見回した。財布の中にはお金がなかった。母にクレジットカードを渡したまま返してもらっていなかった。

 母はいつも切符は現場で買う。

 早割になるんだから先に買った方が安いじゃないと言っても、予定というのは変更になることがあるのだからと言い張って譲らない。そして簡単に言う。

「カード出して。払ってくれる?」

 そのうちこんなことを聞いてきた。

「相手の人のお母さんって専業主婦?それとも仕事してた人?」

「知らない。聞いてない」

「何で聞かないの?そんなことちゃんと聞かなきゃ」

「だから、無口な人なんだって」

「聞けば答えるでしょ。そこ重要なポイントよ。専業主婦の母親ってね、特に一人息子に家事なんて絶対させないから。専業主婦の母親が育てた息子っていうのは負の連鎖だからね。そんな拗ねた顔しないの。いい?あんたは黙ってなさい。そこはお母さんがちゃんと聞いてあげるから。最初が肝心よ…」

 拗ねてない。気分が悪いだけ。何か具合が悪い。

 吐きそう。

 今、不自由がないと、そこそこ満足していると見えるのだろうけど、心はいつも不安と焦燥と虚無でいっぱいだ。常に何かの焦りがある。

 結婚すれば落ち着く、子供が出来れば忘れると、誰もが口をそろえるけど、わたしは結婚や子供が欲しいのじゃなくて、ぽっかりあいた穴を埋めるものが、欲しい。

 少し一人になって考えたい。そう思って新幹線の出入り口のところに立って、ひたいを窓ガラスにあててじっと見ていた。


 お父さん、お母さん起きないよ。死んじゃってるみたいに起きないよ

 父と母、二人の話をあとになって総合するとこうだった。離婚を考えてると父が言う。女?と母がきく。父は否定する。そういうわけじゃない。

 ただ自由になりたくて。

 あ、そう。

 母はそれだけ答えると、ふらふらっと布団に入って行った。

 父は寝室の扉をわずかに開けて、じゃあ行くな、と声をかけていった。

 それっきりだ。

 おとわはあるものでご飯を炊いた。母の財布を取り出して日用品を買いに行った。洗濯をやった。トイレットペーパーを取り替えた。高校生のときだった。

 おとわが母と戦ったのは自分の居心地のいい空間を目指してのことだ。なのに母は、母までが突然、どこかに行ってしまった。

 やむにやまれぬ理由だったこともわかりながら、まさかと思う心がある。出て行くのは私の番だったのに。

 母に会えば無理だ、この人と一緒にはいられないと思うのに、解放されたのに、広々とした家の中にひとり戻ることを、もったいないから電気を消している部屋に忍び寄る影を、誰も使われることのない部屋を、冷たいと思うのか。


 風向きがさっと変わって、波の音が耳を打つ。こんなところを歩いているのは奇妙だ。解せない。ここは彼女の知っている海とはまるで違う。砂浜などどこにもなく、切り立ったコンクリートが直角に海に差し込まれているだけだ。巨大で無機質で、どこにもいのちを感じない。

 もしかすると彼女の中にはすでに空洞が出来ていて、ただからっぽの海風に吹かれてたださびしい、さびしいとうつろな音を立てているだけだった。そんな音をただ聞いているなんてもう堪えられない。この深い水底に探しに来なければならない。だからここに来た。あのうつろな音のもとをさぐりあて、拾い握りしめて捨てるために。

 これが必要だった、とおとわは思う。けど、今となってはもう遅い。

 逆だったらよかった。このどうしても必要だと思ったきずなを断ち切ってから会いたかった。

 もう遅い。わたしはからっぽ。だがいっそすがすがしい。いいんだこれで。仕方ない。ひとりでぜんぶ。生きていく。


 真っ暗だ。

 何一つ動く気配はない。

 絵画の力が厳然として降ってきた時と同じように、花の光は急速にしぼんで、今は暗闇が四方から迫ってくる。

 包み込む闇に圧倒され、おとわは立ち止まった。

 取り残されていた。ただひとりだった。

 もうどこにも行けそうもない。

 着信が入る。

 Izasa Takuyaとそれは読めた。





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