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「ゆかちゃん!」

「おとわ」

 しばらく無言で見つめ合った。おとわは言葉が出ない。あの人の無口がうつったみたいだ、と考える。ゆかりは、おとわを連れて入口に近づき合図をする。わざわざ首から下げた関係者用のネームホルダーを上げて見せなくても、みな彼女のことを知っているようだった。ゆかりといて、やっとおとわは息が付けた。この場に入れてもらえたと実感する。

 倉庫の中に足を踏み入れると、いきなり巨大なアートワークが二人を迎えた。横にはスペースを区切って軽食を取る場所も作られている。内部は迷路のように入り組んでいた。人も多い。

 おとわはやっとこれだけ口にした。

「すごいね。こんな所にたくさん人が集まって…こんな所に出展してるんだね」

「いや、そんな大層なものじゃないの。倉庫一つ借りてやってるだけ。動画撮って配信するんだ。チャリティだから…」

 彼に近い。そう思うと急に足が震え出していた。


「お母さんいないのか」

「そう、今はおばあちゃんの家にほとんど行っちゃってるの」

「岡山か」

 なぜ今突然、こんな事を思い出したんだろう。

 出て行ったお父さんからこっそり連絡があったことがあった。電話なのに小声だった。お母さんにバレないように。

「会いたかったけど我慢してたよ。お前気を使っちゃうだろう、お母さんに」

「こうやってこそこそしてること自体、それはそれで気を使うんだけど」

 母にはしない、ちょっと皮肉な調子で生意気な口を利く。おとわは父親相手だと言い返せる。父はするっと受け流して特に何も思っていないようだった。何を考えてるのかは、娘であるおとわにもよくわからない。

 突然どうしたのか、再婚でもしたのと聞いてみたが、あっさりと毎日一人でいるよと答えられただけだった。相変わらずお酒買って、釣りをしながら飲むの?酔っ払って海に落っこちちゃったらまずいだろ。

 父はのびのびとして元気で、幸せそうだ。どうしてだろう。奇妙なやるせなさと 不安に襲われた。父が生き生きとして自然でいることと、おとわの内心のその落ち着かなさは表裏一体で分けることはできない。どうして父が今、自分と話しているのかわからなくて変なことに思えた。

「それでどうしてる。彼氏の一人でもできた?」

「お見合いした」

 父はずいぶんびっくりしているようだった。

「見合い?なんで?どうして」

「友達のお母さんに勧められたの。そしたら会社で知ってるかもしれない人だった」

「そういうのはよくないな。仕事関係の人って」

「別に断っても、これから特に接点はないし」

「どんな感じだった?」

「あまり喋らない人」

「それよくないな」

「どうして?」

「自分の気持ちを喋らないやつは溜め込むからね。お前が気を使っちゃうんじゃないか?」

「今一緒に暮らしてもいないんだから、そんな父親(ちちおや)(づら)、しないで」

 きつい、とげとげしい声が出た。

「いいね」

「なに?」

「そういうのでいいんだよ。お前は。べらべらしゃべる必要はないんだ。必要なことを、これだけははずしちゃいけないってことを相手に伝えられればお前は大丈夫だよ。うん、大丈夫だ」

 おとわは複雑な気持ちで聞いた。分断と抑圧をもたらした張本人がそんな風に言う。


 どこまでも淡々として動じない父と同じように、たとえ今日、こうして顔合わせの場をすっぽかされたからといって、伊笹が傷付いてショックを受けている姿がおとわには想像できなかった。まあ、こんなもんだよなと、すっと背中を向けそうな気がした。

 何を考えても、すべては無駄なことだ。彼のせいになんて出来ないし、負って行くしかない。

 一旦、決めたことや、親や友達との関係や仕事の関係や、今まで築いて来たすべてを捨ててまで確かめたかったものを見極めなければ。

 取り戻したい。

 今日の自分がどこから来たのか、何を考えていたのか、明日どうなろうと思っていたのか。

 どうしても、思い出さなければならない。


「あそこだよ」

 ゆかりが指差した。

 積み上げられたはしごや、大量の塗料、機材に埋まっていておとわは最初、容易に見つけられなかった。

 そして、黙々と作業する背中を見た。

 あちこちに重なる塗料の缶はまるで磯に顔を出している岩塊のようで、彼はほとんど沈んでしまっている。ここが海なのだとすれば、色、色、色の渦巻く海中に深く体をかがめ、顔をつけて無心にただひたすら見えぬ場所に手を伸ばして、しきりと何かをいじっている。

 ゆかりは声をかけない。おとわも黙っていた。

 きっと返事をしない。ただじっとその背中を見ていた。

 おとわの中にこみあげるものがあった。

 やっと会えた。もう一度会えた。ずっとずっと会いたかったこの背中とこの姿が…、ああ、遠い。こんなに遠かったっけ。

 嬉しさで胸がいっぱいになる。懐かしくて慕わしいそれは、もちろん彼本人から来てはいるのだがその動き、動作によって形作られていく後にある驚異を知っているからで、待ち望んでいた。

「時間がかかっちゃって。あの子、手の抜き方を知らないから」

 そんなゆかりの声もくぐもって水の中を通して聞くように遠かった。

 ここに行けば会える。もう一度会えるって思った。それは…。

 何かを言いたいからじゃなかった。声を聴きたい姿を見たいからじゃなかった。待っていたのは。

 彼が立ち上がる。今度は一歩ずつゆっくりと届かないほど高く、はしごの上に登った。

 カバーを自分の手で一つ一つ、丁寧に降ろしていく。その覆いはずっとつながっていて、立ちすくんだまま見守っている彼女らの足のすぐそばまで続いていることにおとわは今、気づいた。

 床に目を落とした。覆いの下はみどり、みどり、一面のみどりだ。

 空さえ埋め尽くす一枚一枚の葉をどこまでも丁寧に描き尽くす。

 何一つ目もくれず、表情一つ変えずに、ただひたすら黙々と手を動かしている姿は岩のように動かしがたい。

「はずしますよ」

 別の場所にある脚立の上から声がかかって、マスク姿の人の腕が動くのが視界の端にちらっと映った。

 あっ!

 圧倒される。

 壁一面の巨大な絵。どこまでも続く森だ、迷う。迷子になってしまいそう。

 ユーカリの葉だ。

 覆いが取れていくにつれて、みどり一面のボードの上に突然、白い鳥の群れが出現した。夜の森だ。闇が一面に広がった。

 一面みどりの森切れ目からみるみる広がっていく深い青に吸い込まれて行きそうになる。星が一つ一つ大きくゆっくりとゆらめいて森を照らす。

 なんて雄大な世界なんだろう。

 あの中には自由がある。

 黙々と作業を続ける、こちらを一瞥もしない人。あの時も今も、誰の顔も見たことはなかったんじゃないか。その人の中からこの絵は出てきている。

 このひとにとって描くことは生命(いのち)だ。

 あの海中に顔をつけて彼のしていたことといえば自らの腹をさばき、脈打つ心臓をつかみだして見せる。

 そのいのちはこうして絵を通して見た全ての人に入る。でも、「彼の所に入る」余地はない。ひとかけらもない。あまりにも完璧で、あまりにも圧倒的に一つの個で、完成されていて、自由だった。


 突然、根拠を持たないこと、が広がって波の水しぶきのようにおとわの頭から落ちかかり、包み込んできた。おとわの目から口から手の先から、体の内部に本流となって入ってきて、体が浮いたように思う。

 緊張が極限まで行った時、どこかでスイッチが落ちる。

 今なら空も飛べそうだ。そう思った瞬間、おとわはみどりの彼方にあるその青い闇に吸い込まれた。

 すうっと体が浮いて、横っとびにしゅうっと走る。

 意識が飛んだ。


 黒い空の彼方の向こうに、心は飛び去って、時間もさかのぼって、あの日のどこかを探していた。

 曲がりながらはっきりと見える遠くなる森のみどりは既に遠く、濃い闇に包まれながら海上を飛んで探す。

 もうすっかり暗くなった海の上をくねった軌道を描きながら、慣れない飛行にふらふらと漂いつつも目的地はわかっている。

 あの蜘蛛の網のように光る巨大な輝きが東京、こちらの光が横浜。お父さんがいるところ。だからもっと西の方。


 あの甲高い、つんざくような声が霧笛のように鳴り響いた。

 ペイで払ってね。

 わかったよ。あとで。あとで必ず払うから。


 それでどこかわかった。ここは神戸で、それも中心部からはずれた小さな港だ。低く海の上を行く。何度かすれすれに波の間近を飛んだ。夜の海が立てる水音が耳近く、泡とともにはじけた。

 少しだけイベント会場用の倉庫の上を旋回した。暗い海の中に、ここだけは入口から昼間とも見紛う灯りが漏れて、まばゆく煌めいている。他はすべて闇にとけていた。

 おとわは進路を東へ向けた。光る巨大な大橋、名港トリトンをくぐったころ、目指す所が見える。都会のあかりだ。ざわつき、喧騒に満ちている。けたたましい電車の音があちこちで響く。

 約束していた場所へ行く。そうだった、約束していたんだ。どこかに行かないとと、思ってたのはこれだ。あの店だ。かなり場末の大衆居酒屋、違う。そのビルの二階にある小さな店、個人経営の居酒屋だ。

 支払いにプリペイドカード使いたがるあの子は、いつもどんなに断ってもやっぱり声をかけてくる。

 すっかり興奮してしまっている、みゆのおばさんからの大慌ての電話に辟易して、少し考えさせてくださいと言った後でおとわは考え、甲高い声の子に電話した。

 あっその人、来るよ。

 どこの店?

 今日来る?

 行く。

 飛びながら高架下をくぐり、ちょっと右に左に看板にぶつかっておとわの体は派手な音を立てた。誰もこちらを見上げない。降りればいいのに地面すれすれをまだ身を押し揉んで少しでも長く飛ぼうとしたのは、どうやら飛行が楽しかったかららしい。

 やっと地面に降り立つと、それからしゃんとして身なりを整え、おとわは飲み屋の扉をぐいと引っ張って開けて入った。






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