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 動かない扉を、伊笹はぼんやり眺めていた。今日は幸か不幸か土曜日だ。錦三丁目あたりなんて敷居が高くて遠くてわざわざ行く気にもならないし、行きつけの店もない。結局、あの時に飲み会をやった店に足を向けていた。雑居ビルの二階にあってそれほど大きくはないのに、酒も料理も美味しくてそこが一番気に入っていた。

 ここであの時にした会話を思い出す。

 名古屋ってちょっと不思議な街だね。飲み屋はあるけど例えば新宿歌舞伎町みたいに、この一角だけが繁華街で固まっていますよって所はちょっと離れた場所にしかない。ずっと普通の店ばかりだ。

 そんな普通の場所を案内してあげる。

 お願いします。


 女難だ。

 女に近づくべからず。

 そもそも、女性を近づける暇も近づく暇もないほど仕事は忙しく、残業、残業の毎日で、帰ったら倒れて寝る。シャワーは朝に浴びればいい。目も覚めるし食事どころは軽くかっこめる牛丼屋ならばどこにでもある。

 先輩があの時は横にいて、声高に彼のことを勝手に話していた。

 こいつはね、家でもずっと話さないんだって。それでふられたの。

 えっと、そもそもそれでどうして結婚できたの?


 携帯に仲人上司の「おくさま」からメッセージが入った。

(いま、どこにいますか?)

(大丈夫なので)

 それだけだとあまりにもそっけないかと思って、さすがの彼も付け加えた。

(気にしないで下さい。本当に大丈夫です)

(電話してもいい?)

 仕方ない。

 失礼に当たらないよう、先んじてこちらからかけて耳にあてると、十歳ほど若返ったか?というような声が喉元にかけて流れ落ちてきた。

「もしもし。わたし、おとわの友達です。仲人のむすめです。あの、ごめんなさいママの携帯からかけてます」

 女難だ。


 先輩は学生時代からの先輩でもある。楽しそうに言っていた。

「しかしお前は結構、無鉄砲なとこあるよね。いきなり就職一年目で結婚したり、数か月で離婚したり」

「唐突な見合いの話を受けたり」

「いきなり飛び込みすぎだよ」

 ねえ、結婚しちゃおうか

 いいよ

 ずっと一番心が通じ合うと思っていた、女友達の冗談ぽい投げかけにそう答えた時の彼女の目のきらめき、ほかには誰もいらないよ、大好きだ、そう思ったのはほんとうだ。嬉しかったのもほんとうだ。結婚できたことが、嬉しかった。

 正直、働き始めてから忙しすぎてもう何がなんだかわからない、生きている意味すらわからない生活だった。

 こんな激務のなか、誰かと付き合ったり結婚する暇もないだろう。だったら、出来るときにした方がいい。彼女と一緒にいられるなら、こんな自分でいいと言ってくれるなら、全身で大切に守ろう、守りたい。

 そう思っていた。

「こいつの離婚の理由。家でほとんど一言も話さないんだって」

「それは、だめよ。ねえ。会話がなきゃね」

「元嫁さん、よく出来た人だった。完璧だった。お前はバカだよ」

 彼女は完璧だった。結婚するまでは。


 仲人口の「おくさま」のそのさらに「娘さん」は、あっという間にその場に来ていた。この厄介な電話を早く切り上げたいと考えている口数少なの彼に対して、怒涛のような質問を投げかけた。今いる場所を聞き出すと、あの扉が開いてドアベルがけたたましく鳴る音すら聞こえなかったような気がする。彼女は席にどん!とカバンを置くと、彼の腕に軽く触れるようにしたので、彼は少し後ろに下がってしまった。

「おとわに聞いていたの。この店のこと」

 彼女は目がくりっと大きい、小柄で華奢なな娘だった。まだ息を乱していて、桜色の唇から息が漏れるたびに胸まで上下する。

「ママが、ママが…すっごく落ち込んでて」

「いいですよ。本当に」

 どこかで見たことがあると思った。その濡れたように大きな情動的な目は、仲人口のヒゲ爺さんにそっくりだった。

「おとわね、神戸にいるみたい。ずっと前から行きたがってたイベントがあるの。あの子もね、色々あるの。好きな人がいたのずっと。でもね聞いて?おとわはね…」

 彼女はきょとんとした。

 伊笹が遮るようにこちらに手のひらを向けているのだ。

 はっきりと声を出したので、低い声ながら天井にまでぶつかって落ちてきた。鳴り響いた。

「その話は、聞かない」

 彼女は口を開け、数回ぱくぱく開けたり閉じたりしながら、懸命に続けようとした。

「わかるよ、怒ってるのはわかる。当たり前だよね。だけど、ちょっとだけ聞いてほしいの。あのね…」

「聞きません。すみません」

「顔をつぶしちゃったわけなんだから」

「思ってません」

 彼女はぱっと額に手を当てて眉に皺をよせ、自分は顔をつぶしたとは思っていない、ということを言いたいようだと解釈した。

「何を言っても無駄ってこと?」

「違います」

 伊笹はもう立ち上がっている。

「聞くなら、本人の口から聞きます。どんな言葉も、他人のものなので」

 断固とした姿に言葉を失って、彼女は背中に叫ぶ。

「会ってくれる?ねえ、もう一度だけ。話を聞いて?」

 拒絶が岩のように落ちてきて、扉が閉まった。


 好きな人、ね。

 好きな人に会いに行ったのか。わかりやすい行動だ。

 いかにも女子がやりそうなことだ。


 無口のせいだけになんて出来るとは思えない。元妻がまだ女友達だった頃、彼女相手だと、彼はそれなりによく話が出来ていたのだ。彼女に対してだけは、不思議なほどに舌が滑らかに動いていた。だが結婚したのはまだ就職一年目、しかもエンジニアなど単純に激務だ。慣れない仕事にミスを重ね、加えて勉強もあり講習もあり、帰宅は常に0時を超える。

 朝は頭が重く会社に向かう足取りも重く、会話の一つもおっくうだった。たまの休みには少しでも体を休めたいが、彼女はちょいちょい機嫌が悪くなる。

 そんなとき、彼女は決して理由を語らない。

 彼も理由を尋ねることはしなかった。ただ、顔色を見て最大限に努力した。

 料理は彼女が好きだったから、触らせてくれなかったが洗濯もしたし掃除もした。クリーニングにも行った。彼女の実家に訪問に行き、家を買う約束をし、住宅展示場を見に行った。まだローンなんて頭金さえとても無理だと知りながら。

「あのね、みおちゃんね、あまり話してくれないのが寂しいんだって」

 彼女と共通の友人からそんな電話が入る。

「おしゃべり、もっとしてあげた方がいいと思うよ!」

「そうか。わかった。ありがとう」

「うん、いいんだよ!応援してるから」

「正直、時間もないし疲れてて…何を話せばいいかわからない時もある」

 彼にしては珍しく、さらに聞き返した。

「そう言ってた?」

「なにを?」

「みおが」

「ううん、言ってはなかったけど、そんな感じだったから」


 突然、彼女が言う。

「離婚しようか?」

 驚いて顔を上げた。何を言っているのかわからなかった。

「これで結婚してるって言える?暮らしてる意味ってある?」

「どうしたの。待って」

 彼は思わず言葉がつまった。

「理由を言って」

「言わないとわからないの?」

 少しずつ少しずつ、機嫌が悪くなる時間が伸びていく。理由も何も、何をやっても、いくら掃除をしても、どれだけ少ない時間をけずって遊びに行っても、お前は不満げな顔しかしないじゃないか。何をわかれと言うんだ、これ以上。

「どうして。言ってもらえたら、改めるから」

「改めて欲しいわけじゃない」

「じゃあ何を怒ってんの」

「忙し過ぎるのを責めてるんじゃない。私だって忙しいし。仕事だし」


 しばらく押し問答が続く。唐突に、彼は面倒臭くなった。

 明日も仕事。しかも大事な打ち合わせだ。これ以上何かを抱え考える余暇はもう、彼には残されていない。

 そして、もしかしたら解放されるのかもしれない。この、いつも彼女の顔色を伺いながら、疲れた体に鞭打って家事をする生活から。

 彼女は完璧だった。完璧でなければ嫌だった。排水溝のわずかな汚れも見逃さない。

「もういいよ。わかった。離婚しよう」

「は!?」

 目の前にぱっと見開きのページを開くように、あの時の元妻のあまりにも驚いた顔を、伊笹は昨日のことのように思い出した。それでも、今になってこうして思い出してみれば、あの表情、あの一幕は一生忘れられないと思っていたのに、もう半ば薄れ始めてきている。

「理由も、理由もわからないのに?離婚するの!?離婚、するって言うの!?」

「言ってくれないなら、わからない」

 悲鳴が血のように、彼女の喉元から彼に向けて噴出する。

「わたしのこと、あの子にごちゃごちゃ話したでしょ!」

 何の事だ?

 荒れ狂う彼女をあっけに取られて彼は見ていた。本気で何を言っているのかわからなかった。ただわかるのはただ一つだけだ。もう彼の気持ちはとっくに離れている。ずっと前からのことだった。


 携帯の通知を開いて、そこにゆらめく文字をじっと眺める。

(話を聞くよ。会って話さない?)

 離れてみれば次第にわかってくる。

 彼女の怒りの根っこは、会話がないことよりも違う所にあった。彼が全くあずかり知らない場所で何かが起きており、それがあの時の彼にはわからなかった。

(みおちゃん泣いてるって。でもたくやんにも言いたいことはあるよね?愚痴、聞くよ?)


 掘り下げてみれば何らかの原因なり理由があるのだろう。元妻はきっと彼に顔色を伺いタスクをこなすように家事をこなしてもらうだけではなくて、まったく違う何かが欲しかった。芽生えはじめた不安を、違和感を払拭するようなアクションが欲しかったのだろう。

 正面切って真剣に向き合ってくれなかった恨みだ。ぶつかり合って、激しく抱きしめて、お前じゃなきゃダメなんだっていう理由をくれなかった恨みがある。

 そこに疑いが芽吹いたかもしれない。

 言いたいことは彼にもあったが、自分の中の冷えた部分に気が付いてしまった今、すべての非は自分にあると彼は決めた。

 そしてもう一つ決めた。


(わたしね、おとわの友達なの)


 彼は、恋人であれ妻であれ、それがたとえもう会わないだろう何の関係もない過去の見合い相手であれ、「彼女のともだち」とは二度と話はしない。

 そう心に決めた。二度としない。


 外に出ると、拒絶したくせに急に四方から暗闇が彼に向かって押し被せるように迫ってきて、ひとりである、ひとりであるとささやいた。


 今となってみれば、本当にあれは何だったんだろう。

 飲み会の席であと一人をみな待っていた。唐突に鳴り響くけたたましいドアベル、押し開けられたとびら、そして同じとびらを二人並んで抜けた時のあたたかい手のぬくもり、唇に浮かんだ笑顔、そしてよりもきらめいていた目は。

「きたよやっと。最後の一人。みはま おとわちゃんです。じゃあ、自己紹介してくださーい。」





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