第17話 藤寅の稽古2日目その1〜少しマシになったランニング〜
翌朝、今度は時間通りに起きることができ、藤寅との約束通り遅れることなく集合することができた。
「あ、獣士郎くんだ。今日はちゃんと来てくれたんだね」
妹子が晴れやかな笑顔で獣士郎に向けて手を振っている。
昨日のことで獣士郎は少しだけ気まずいと感じているのだが、妹子は何事もなかったのように接している。
「お、おはよう。妹子さん」
少しだけ目を合わせづらい。
「むー」
妹子はいつもの流れであるかのように不満そうな顔をしている。
「お姉ちゃん、おはよう」
「よしよし。おはよう」
妹子が獣士郎の頭を撫でる。
少しだけ恥ずかしさを感じながらも、なんとかして表情に出ないように耐えるが、口元が少しピクピクと動いたのを自覚した。
「お、今日は獣士郎もちゃんと来たか。助かったぜ」
柳次郎は大きな声で笑いながら獣士郎を指差している。
「柳次郎、おはよう」
「ちょっと、柳次郎くん! 人を指さしちゃいけないよ!」
妹子は柳次郎のもとに歩いて行き、伸ばされた人差し指を力強く握った。その強さはメキメキと音が聞こえてきそうなほどだ。
「痛え! 妹子てめえ何すんだよ!」
「柳次郎くんが悪いんだよ?」
妹子は笑顔でそう言うが目は全く笑っていない。完全に説教モードになっている。
「俺は悪くなんかないぞ。ただただ獣士郎に挨拶をしただけじゃないか」
「いや、挨拶なんてしてないね。おはようの一言すら聞いてないよ」
確かに聞いていない。柳次郎の口から聞いたのは獣士郎に対する煽りと妹子に指を強く握られたときのだらしない叫び声だ。
「いいや、挨拶をしたぞ。この指が証拠だ」
「この指が証拠だって? そんな甘ったれたもので人を指差すことが挨拶だって本気で思ってるの?」
「ああ、思ってるとも」
「それは矯正しないといけないな」
突然の野太い声に柳次郎の体が少しだけぴくりと動いた。
「ふ、藤寅さん! いつからおいでになったんですか!?」
妹子は突然のことに焦りを隠せていない。
「今さっき来たところだ。今日は全員揃っているから感心していたのだが、まさか一番うるさくて体力がない貴様がまた問題を起こしているとは思わなかったぞ」
「ご、ごめんなさい」
妹子は素直に頭を下げたが、柳次郎は引き下がろうとしない。
「俺はただ単に挨拶をしただけですよ」
柳次郎の発言に妹子は怒りの眼で柳次郎を睨みつけている。もはやこの場面で獣士郎の出る幕はない。
ただただおどおどしながら、広場にいる3人を順番に見ることしかできなかった。
「まあいい。貴様ら全員が揃ったところで今日の稽古を始める。まずは昨日と同じだ。ただし一周でいい」
「はいっ!」
3人は門を飛び出し、本部の外周を走り出す。
「今日は一周だけでいいのか」
この中で一番体力がないはずの柳次郎が余裕そうな表情で笑った。
昨日のことが嘘であるかのようだ。
「そうみたいだね」
「僕も一周だけで助かったよ。昨日のあれは結構大変だったからね」
数十分後、案の定柳次郎は息を切らしている。
「柳次郎、無理してついてこなくていいから、自分のペースで走ればいいよ」
獣士郎の発言に二人は首を傾げた。
「獣士郎くん、ぺえすって何?」
妹子に指摘されたから獣士郎は気づいた。この世界に外来語は存在しない。そしてペースは外来語だ。
「えっと……その……」
獣士郎の頭の中でペースの和訳を探そうとするも、学生時代の国語の成績が2だったほど国語力がない獣士郎にとっては至難の技だ。
思い出そうとしても、代替語が見つからない。
「ほら、自分の走る速さのことかな? 僕もどんな意味かはわからないんだけど、どうしてかふと口に出てきたんだ」
嘘をつくことに少しだけ心が痛むが、今は仕方ないと獣士郎は考え、口を動かした。
「ああ、そう言うことか。多分獣士郎くんはこの体力がない柳次郎くんに自分なりの速力で走ったほうがいいって言いたかったんだろうね」
その瞬間、柳次郎はムキになって走るスピードを上げ始めた。
「俺だってこのくらいの速さで走れるんだ! 余計な心配はしなくていい」
「そうですかそうですか。私たちは知らないからね? また大量に汗を出しながら本部に戻ってこないでよ?」
「わか……てるって」
今この状況がすでにわかっていないように見える。
「ならいいか。獣士郎くん、行くよ」
「う、うん」
妹子たちも速度を上げて走る。
残りおよそ1キロ。このままのペースで行けば5分もかからないだろう。
そして5分後、柳次郎も息を切らしながら妹子たちと一緒に本部の門を潜った。
「柳次郎、一緒に戻ってこれたね」
「そうだな。まあ、俺からしたらこんなの余裕だけどな」
「またまた、自分を豪語しすぎると後で痛い目を見るよ?」
「よし、戻ってきたな。じゃあ今日は建物の中に入れ。アヤカシについて勉強するぞ」
藤寅にうながされ、本部の建物の中に入って行く。
椅子と机が三つと、黒板が壁にかけられた質素な造りの部屋だが、獣士郎はこの光景を知っているような気がしていた。
そしてこれから藤寅が教えてくれることに内心わくわくしているのだった。