第一章2 姉さん
──もう、何も考えることができなかった。
ぼくは家のリビングから自分の部屋に上がるまで、もはや意識はあってないようなものだった。
確か母さんと封筒を見て、そのあといつも通りに手を洗って、喉が渇いたから水を飲んで、風呂に入って、手を洗って、ご飯を食べて、喉が渇いたから水を飲んで、ご飯を食べて......
そんなことを考えて、現実から逃げても無駄なことぐらいわかっている。食卓に置かれた封筒が、無慈悲な現実を突きつけてくる。
ぼくはなにもかもが嫌になって、こうして自分の部屋のベットに、特に何をするわけでもなく横になっていた。
時計の針は夜の二十二時を指していた。自分の部屋に放心状態で来てから、かれこれ二時間が経過していることになる。
封筒には、一週間後の朝八時に西門へ集合しろという記述があった。ちなみにこのトウキョウには、外への出入り口が東西南北の四つある。そのうちのひとつの西門へ集合をかけられたということだ。
部屋に入ってからの二時間は、ぼくの今までの人生で経験をしたことがないほどあっという間に過ぎた。ただ寝転がっていただけなのに、ただ息を吸って吐いてここに存在していただけなのに、一本の映画を見終わるぐらいの時間を一瞬で浪費してしまった。
しかしこれは、何も現実に対してアクションを起こすことなく、徴兵までのカウントダウンを進めたことを意味している。
何もしなければ、徴兵されたときに絶対に後悔することは頭では理解している。しかし、何をしていいのかわからない。何をすれば、後悔をすることがなくなるのかはわからない。
ただ無気力に苛まれて、何もできない自分がひたすらに憎い。何かしなければいけないが、何もできない自分が情けない。
そんなとき、追い詰められたぼくは、ふと姉さんの顔が浮かんだ。ぼくと母に見送られて、離れていく姉さんの背中が鮮明に思い出される。
ぼくはおぼつかない足取りで、砂漠でオアシスを求める旅人のように、ある部屋を目指して歩いていた。そうすることで、何かを得られる気がした。
いや、姉さんに頼って、救われることを願っていたのかもしれない。
姉さんの部屋は、朝と何も変わらず、シーツには寝たあとが残り、机には教材が広がっていた。
ぼくは姉さんのベットに横になり、枕に顔を深く深く沈める。
かすかに残る姉さんの匂いを感じながら、ぼくは静かに涙を流した。泣いたって何も解決しないけれど、今はこうすることしかできなかった。しかし、現実はこんなぼくを横目に容赦なく迫ってくる。
こんな姿を見たら、姉さんはどう思うかな。そんな現実になんて絶対に負けちゃ駄目だと先生みたいな口調で言うのかな。辛いのはわかるといって頭を撫でて、同情していっしょに悲しんでくれるのかな。
約十五年ほどの付き合いで、毎日いっしょに暮らしていたぼくがわからないはずがない。
姉さんは、ぼくに前を向くよう言うことも、いっしょに負の感情を共有することもないだろう。
きっと姉さんなら、何かしなきゃ駄目だって、例えそれが無駄だとしても、最後までやりきらなきゃって言うんだろうな。
──姉さん、あなたは、どうしてあんなに強く前を向いていられたのですか?
ぼくの姉さん──天沢優香里は、常にぼくの憧れの人だった。
黒髪につり目という姉弟で似た外見の彼女は、別に成績が特別よかったり、運動がすごくできたりするわけではなかった。悪かったりできなかったりするわけではなくて、人並みの能力と言ったところだろう。
そんな姉さんの本当にすごいところは、その性格だった。どんなにひどい状況でも、決してあきらめない。見えるか見えないかわからないぐらいの光を見据えて、確実に一歩ずつ進んでいく、とても前向きな性格だった。
しかし、憧れの姉さんの元にも、無慈悲な現実は襲いかかった。
──それは、なんの前ぶりもなく、突然やって来た。
その日はぼくが退屈な日常から解放されたあと、シオンたちとボウリングに行く予定があった日だった。
シオンも珍しく部活が無く、久々に四人で遊べるということで、ぼくの気持ちは軽やかだった。
その幸せな、暖かい気持ちで家に帰ったことを、リビングに入った瞬間後悔する。
机の上には、『徴兵ノ令』と記された封筒があり、泣き崩れる母親が床に座りこんでいた。
ぼくは、一瞬何が起こっているのかわからなかった。その封筒は、まばたきをするようなわずかな時間に、ぼくら家族を構成する大切なパーツのひとつをもぎ取っていった。
ただの紙切れだ。封筒に入った一枚の紙切れ。実際には見ていないが、おそらく姉さんを徴兵する旨が簡潔に書かれているだけの薄い木の繊維だ。
ただそれだけのものが、今のぼくらには、どんなマフィアやチンピラよりもおそろしかった。
そのときの姉さんのことを、ぼくは鮮明に覚えている。
崩れ落ちる母さんから少し離れて立っていた姉さんは、絶望して泣き出しているなんてことはなかった。
むしろ、その目には希望とまでは言わなくても、何かの輝きがあるのを覚えている。
姉さんのその様子は、母さんとの反応の差も相まって、ぼくには狂人にさえ見えてしまった。
無言で自分の部屋に戻っていった姉さんを追いかけて行くと、姉さんは自分の部屋の中で友達と電話をしていた。
電話の内容は完璧にはわからないが、どこかにみんなで集まろうというものだということは、何となくわかった。
「ね、姉さん。こんなときにみんなで集まって何をするつもりなの?」
電話が終わった姉さんにぼくは問いかけた。普通は徴兵されたという事実に怯えて、何もやる気が起きなくなったり、絶望したりするのではないかと思ったからだ。
事実、ぼくや母さんはそうだったし、姉さん本人が何も苦しんでいる素振りを見せないのが不思議だった。
そんなぼくに、姉さんはゆっくりと口を開いた。
「今からみんなで作戦会議って言ったらなんか照れくさいけど、そんなところかな」
姉さんは少し頬を赤らめながら言った。
その様子は、やはりぼくにはどこかに壊れているようにしか見えなかった。
「な、何でこんな......」
「何でこんなときにそんなくだらないことをするのかって?」
「くだらないとは思ってないけど、そうかな。で、でもそれがわかってるなら」
──ぼくの気持ちがわかるなら、自分が変なことぐらいわかるでしょ。
その先は、口に出すことができなかった。もしかしたら、姉さんの考えを拒絶することになってしまうかもと思うと怖かった。
でも、それこそが、今ぼくが姉さんに一番言いたいことだった。
しかし、ぼくが言わなくても、姉さんはぼくの気持ちを汲んだように言った。
「ショウの言いたいことはわかるよ。確かに、今のわたしは少しおかしいのかもしれない。普通なら、もっと落ち込むものだよね」
「......」
「でもさ、それで何もしなかったら、なんか悔しくない? 国のいいなりになって、外に叩き出されて、そのまま犬死になんて嫌じゃない? わたしはすごく悔しい。だからさ、学校でも魔法を教えてもらってるし、わたしたちも少しは戦う手段があるんだから、いっしょに戦うみんなで対抗しようと思ったんだ」
姉さんは、ぼくが想像していたよりずっと立派な考えを持っていた。本当はすごく怖いはずなのに、自分たちが今できることをまっとうしようとしている。
ほんの小さな可能性にかけて、少しの希望を見据えて、姉さんは歩き出していた。
ぼくには考えもつかないことだった。本当にこの人がぼくの姉さんなのかと疑うほど、強く生きていた。
「それにさ、頑張ってれば、また帰ってこれるかもしれないでしょ? もしかしたら、意外と地球外の奴ら弱いかも。未来なんて誰にもわからないんだから、みんなの考えてる通りにはならないかもしれない。わたしは、わたしたちの仲間には、まだ抗うちっぽけな力がある。それがどんなに弱いものだとしても、わたしたちはそれを信じて、できるところまで頑張ってみるよ」
ああ、やっぱりぼくは、姉さんが──
そのとき、ぼくは溢れる感情を抑えることができなかった。
「ちょ、ちょっとショウ?! どうしたの突然?!」
姉さんが驚くのも無理はない。何故ならぼくは、姉さんに突然抱きついたのだから。
それに加えて、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら抱きついたものだから、姉さんは動揺していた。
でも、ぼくがしばらくそのままでいると、姉さんは優しくぼくの頭を撫でながら、抱き返してくれた。
──なんで、なんでなんでなんで!
ぼくの感情は、氾濫した川のようにどばどばと溢れていて、今さら止めることなどできなかった。
「なんで、なんで姉さんが行かなくちゃいけないんだよぉ。なんで国の人は、ぼくから、ぼくたちから大好きな姉さんを取ってっちゃうんだよぉ......」
姉さんは、幼い子どもみたいに泣きじゃくるぼくを、優しく包み込んでくれた。ずっとずっと、このままこのときが続いてほしいと思った。
──一週間後、ついにその日が来た。姉さんと、おそらく最後の別れになるだろうということぐらい、ぼくにもわかっていた。
今から西門へ行くというのに、姉さんの顔はどこか晴れやかだった。
姉さんは号泣する母さんを慰めたあと、覚悟を決めた顔で堂々といい放った。
「じゃあ、行ってきます」
そう言って背を向ける姉さんに、『行ってらっしゃい』と返すことができなかった。
このままでは、あとで絶対に後悔する。どんどんと遠ざかる姉さんの背中を見ながら、ぼくはやっとの思いで声をかけた。
「健闘を祈るよ、姉さん!」
我ながら、『行ってきます』に対して、その返しはいかがなものかと思うが、今の姉さんにはこの言葉をかけるほうがいい気がした。
すると姉さんは真っ白な歯を見せながら笑顔で振り返り、
「おう、任しとけ!」
明るく、元気にそう応えた。
無力感に気持ちが蝕まれていたぼくは、何故かおもむろに自分の鞄から携帯を取り出していた。
姉さんに感化されたのか、単に思いつきだったのかはわからない。姉さんのことを真似て、少しでも姉さんに近づこうとしたのかもしれない。
ぼくの握る携帯の液晶画面には、『七瀬詩音』という名前が──ぼくの仲間の名前が、そこには映し出されていた。