第五話:プライドの銀時計と私が取り戻した想い
シェフであることを見抜かれていたのは驚いたけど、正体を明かしてすっきりした。
もう、シェフを名乗ることに躊躇いはない。
迷いは消えた。
だから、もう一度厨房に立つ。これからはシェフとしてきつね亭を助ける。
……美味しい料理で、客を笑顔にする。その夢に間違いはなかった。
「サヤマ様、さっそく安くて美味しいハンバーグを作りま」
そこまで言って、アルネはまたふらついたので慌てて支える。
「今日は寝なさい」
「でも、少しでも早く」
「無理をすればまた倒れるわ。今よりも悪化するかもしれないの。そしたらきつね亭は終わりね。体調管理もシェフにとって必要なことよ」
「……わかりました。また、明日がんばります」
もう少しごねると思っていたけど、彼も自分の体が限界だと気付いていたのでしょう。
私も若いときは、こんな無茶をして倒れることがたびたびあった。
彼の体を抱きかかえる。……見た目は華奢なくせにけっこう重い。やっぱり男の子何だって思う。
「きゃっ」
「二階の寝室まで運ぶわ。着替えは一人で大丈夫?」
「はっ、はい大丈夫です。その、ご迷惑をおかけします」
照れくさそうに顔を染めるアルネは可愛い。
いつか、子供を作るならこんな子がほしいと思ってしまった。
◇
翌朝、いつもの時間にアルネが起きてこない。
様子を見に行ったけど、死人のように眠っていた。
たまりにたまった疲れのせいで起きることができないのだろう。
寝かしておこう。
店を開く時間に間に合わなくなるが、そっちのほうは大丈夫なように昨日手配した。
厨房を借りて朝食を作る。
石かまどでの調理は慣れていないし、火加減は難しいけど、留学時代に何度かこういうもので調理したことがあるので、なんとかなりそう。
この店のシェフになるのなら、早いうちに慣れないと。
「消化に良くて栄養があるメニューと言えば、あれがいいわね」
今から作るのは得意料理。風邪をひいたときや二日酔いになったときには効果抜群の優しくて美味しい料理。
早速調理に取り掛かる。
卵と、売れ残りで乾いてダメになったパン、それに野菜くずと牛乳を拝借する。
勝手に厨房を借りるのだから、なるべく店では使いそうにない食材を使う。
野菜くずというのは、ペーストにして牛乳で割って塩とハチミツで味を調えると栄養たっぷりで飲みやすいポタージュにできる。
緑色のポタージュがあっという間に完成した。
味見をしてみる。……うん、いい味。これなら弱った体でも受け入れられる。
ポタージュにカチカチになったパンをちぎっていれて柔らかく煮込む。
ここに昨日市場で買ったスパイスを味見しながら使う。
スパイスと聞けば、辛さや刺激の強さを想像しがちではあるが、甘みがあるものや苦みがあるもの、さまざまだ。
それに漢方のように体にいいものも多い。
帝都ホテルの上司だった上杉料理長は、シェフ仲間での飲み会の翌日は、薬効が高いスパイスを調合した世界で一番二日酔いに効くカレーなんてものを生み出して賄いで振舞っていた。
「うん、名前は違ったけど、知っているスパイスも多いわね」
驚いたことに、こっちの世界のスパイスは種類が豊富で、なかなか風味もいい。港町ゆえだろう。
最後は卵を落として半熟にして、鍋を火から離す。
これで完成。野菜ポタージュのパン粥。
お手軽だが、美味しく、弱った体でも美味しく食べられる。
食べてみる。
これは私の朝食を兼ねた試作品だ。
料理の腕には自信があるが、慣れない厨房で作る料理を味見もせずに人には食べさせられない。
「美味しい。我ながらなかなかのものね」
これならアルネに食べてもらえる。
そんなことを考えていたら、階段を降りる音が聞こえた。
アルネが駆け下りてくる。
「寝坊しちゃいました。早くお店を開かないと!」
慌てた口調で、ぼさぼさの髪で、だらしない格好のアルネが顔を出した。
「アルネ、慌てる必要はないわ」
「でっ、でもお店が」
「自分の姿を冷静に見てみなさい。そんな姿を客に見せたら余計に客が減るわ」
「うっ、たしかに。身だしなみを整えないと」
「それに今日から一週間、店を休むことにしたの。入口にもそう書いてあるわ。だから、ゆっくりしていいわよ」
文字の読み書きはできないからアルネの働いている八百屋に行って、アルネが倒れたことを話し、休業の看板を書いてもらった。
「なっ、なんでそんなことを!? 早く外さないと」
「相談もなしに休業にしたことは謝るけど、きつね亭のために必要なことよ」
店主の許可もとらずにこんなことをするのはどうかと思うけど、強引にでも行動を起こさないときつね亭は変わらない。
「店をお休みするのが、どうしてきつね亭のためになるんですか!?」
温厚なアルネもさすがに今回は起こっているようだ。
しっかりと私の考えを理解してもらおう。
「安くて美味しいハンバーグを作ると言ったでしょ。そのためには小手先の工夫じゃ無理ね。やることが無数にあるの。今までみたいに、店を閉めてからの研究なんてやってたら、いつまで経っても安くて美味しいハンバーグなんて作れないわよ」
それだけの難題だ。
それを実現するための工程を頭に浮かべていく。
「安い材料の選定、仕入れるルートの構築、作ったあと安くて美味しいハンバーグを作ったことを周知するための宣伝。それだけやっても足りない。材料で劣る分を腕と工夫で補うなら、調理の手間が増えるわ。利率が落ちる分大量に売らないといけないから新しいハンバーグを味を落とさずに早く作る練習も必要ね。そのためには一週間はいる。間違ったことを言っているかな?」
安くてうまいを実現するのは並大抵のことじゃない。
今みたいに店の経営の片手間では無理だ。
レシピの開発だけなら私もできなくはないが、それ以外にも必要なことが多すぎる。
「でっ、でも、ただでさえお客さんが減ったのに。一週間もお店を閉めちゃったら」
「わずかな客を守るより、新しい客を獲得し、去っていった客を呼び戻すことに全力を尽くすべきよ。……どっちみち、今のままじゃ店を開けば開くほど赤字よ。新しい材料の仕入れをするにもお金がいる。そのお金も温存したいの。いい? きつね亭は生まれ変わる。命がけでよ。それ以外に力を割く余裕なんてない。アルネ、夜の酒場で働くのを辞めてこっちに専念して」
アルネが息を呑んだ。
深夜も働いていることを知られているとは思わなかったのだろう。
「サヤマ様、きつね亭が生まれ変わるために店を閉めるのは納得しました。だけど、僕がお金を稼がないと、材料を仕入れるお金すらないのが今のきつね亭なんです。むしろ、もっとお仕事を増やさないと」
「金の心配は必要ないの。これを使って」
私はシルクのハンカチと指輪を売って作った50マルンを差し出す。
日本円換算で五十万ある。多少は店の運営費の足しになる。
「このお金はいったい」
「昨日、質屋に行って来たの。これだけじゃない。もっとまとまった金を作るわ。この時計を売るつもり」
私は左手の腕時計を外し、机の上に置く。
「こんな小さくて綺麗な時計、初めて見ました。すっごくすっごく高そうです。でも、こんなすごいの売ったら、二度と手に入らなくなります。それに、サヤマ様はこの時計をよく大事そうにしていたじゃないですか」
意外によく見ている。
私は不安になったとき、勇気が必要なとき、この銀時計を撫でる癖がある。
この銀時計は、フランスに留学をしていたときに栄誉あるコンクールで優勝したときに与えられたものだ。
シェフとしてこれを手にしていることは大きな意味を持つ。
天才の証明。日本人でこれを持っているシェフは片手で数えられるほどしかいない。
それに私の心のよりどころでもあった。
あの栄誉ある賞をもらったことが自分の存在価値の証明で、うまくいかないことがあっても、私の腕のせいではないと思えた。
私が私であるために必要な時計だった。
「大事なものよ。……私のプライドそのもの。だからこそ売るの」
私は味なんてどうでもいい。安ければなんでもいい。そんな客に絶望した。
だけど、アルネは違った。
安いほうに流れるのは仕方ないと認めたうえで、それでも美味しいものを客は求めていると言い、そんな料理を作りたいと言った。それこそが、一番客を笑顔にする方法だって。
そんな彼を見て思い知らされた。
客を笑顔にするために帝都ホテルを辞めて店を作ったつもりだった。
だけど、本当は違ったんだ。私の料理をすごいと言わせたい。
そんな自尊心を満たすために帝都ホテルを辞めただけにすぎない。
だから、私が作り出す料理を認めない客たちを認められなかった。客のために自分を曲げられなかった。
憧れの祖父のようになりたいと思って帝都ホテルを抜けて、店を作り、前に進んだつもりで、いつの間にか自分の料理の腕を認めさせたいとしか考えられないようになっていたんだ。
アルネと出会わなければ、きっと一生間違い続けた。
……だから、この銀時計はもういい。
料理の腕が認められている証になんてすがる必要はない。
私が本当に前へと進むために、この時計とはお別れする。
「……やっぱり、もらえません。お返しできるものがないです」
この子は、謙虚すぎる。
私がいいと言っているのに。
「なら、私をきつね亭のシェフとして雇って。私もきつね亭の一員になるなら、この店は二人の店よ。それなら、私が金を出すのも変じゃないでしょ?」
「わかりました。共同経営ってことですね。それなら、利益も半分出します」
「そういう意味じゃないんだけど。なんにしろ、お金を受け取ってくれるならいいわ」
本当は、アルネと出会えたことだけでもとを取れたと思っている。
でも、利益の半分を受け取らないと言えば、今度はこの金を受け取ってもらえない。
だから、このきつね亭を出るとき、彼から受け取った金は全部渡そうと思う。
そんなことを考えているとお腹の音が聞こえた。
アルネのお腹の音だ。
「あっ、あの、その、ごめんなさい」
「謝ることはないわ。むしろ、安心した。元気な証拠よ」
さて、さきほど試作を終わらせたパン粥を振舞うとしよう。
きつね亭の再建のためには、何よりもアルネに体力を付けてもらわないと。