第二話:祖父のハンバーグと孫のトマトソース
少年がきつね亭の看板メニューであるハンバーグを作り始める。
メニューを見せてもらったが文字は読めないようだ。言葉が通じているので大丈夫だと思ったけど甘かったみたい。
留学経験があるので日本語、英語、フランス語あたりは会話までできるし、海外の資料で勉強をすることも多いので中国語とドイツ語も読むだけならできる。
初見の言語でも、ある程度ならこれらの言語のいずれかと源流が同じなので、推測ぐらいはできるのだけど、これはまったくわからない。
この文字は異質すぎる。
仕方ないから、あとで色々と話を聞こう。
時間があれば文字も教えてもらおう。読み書きができないのは色々と不便だ。
厨房に移動する。
ちょうど材料を出し終えたようだ。
電気もガスもないのに、どうやって食料を保存しているのかと思ったが、中が金属の板張りでできた木製の冷蔵庫があった。
中が2段になっていて上段に氷の塊をいれて冷やしているようだ。
それならそれで、どうやって氷を手に入れているのかが気になる。それも後で聞いてみよう。
「ずいぶんといい肉を使うね。ひき肉にするなら、安い部位でもいいのに」
「こっちのほうが美味しいですから」
少年が取り出したのは肩ロース。ステーキにできるようないい部位だ。
それを包丁で叩いて粗目のひき肉にしていく。
……祖父直伝というのは本当らしい、ステーキにできる肩ロースを使うのも、包丁で叩いて粗目のひき肉にするのも祖父のやり方だ。
そうして出来た牛百パーセントのひき肉をボウルに入れて木べらで練る。
手でこねないのも、他の材料を加える前に肉だけ練るのにも理由がある。
手でこねれば、手の温度で肉の脂が溶けて、繋がりにくくなり、べちょっとして食感が悪くなる。だから先に肉をしっかりとつなげてから、他の材料を加える。
肉が練り上がったら、一度置いておく。
玉ねぎとニンニクを炒め始める。玉ねぎを炒めるとき、フライパンを温めずに炒めるのも祖父と一緒。
玉ねぎをいきなり熱いフライパンに乗せると細胞が急激に収縮し、水とうまみが流れでてしまう。だから、冷たいフライパンに入れて、油でコーティングしてから火を入れる。こうすると旨味の流出を抑えられる。
それらを、練りあがった肉に加え、ここで初めて手でこねる。
手の温度を利用して粘り気を出す。この際、コネ過ぎないことにも注意する。
この段階で塩で味を調え、スパイスで臭みを消しつつ食欲を引き出す香りづけをする。
スパイスは祖父のものではない。
きつね亭で作られたオリジナルだろう。
こうしてできたタネを俵型にする。
「では、焼いていきますね」
ここでもフライパンを温めないのが祖父流だ。
冷たいフライパンに油を引いて、ハンバーグを乗せる。
一気に焼くと、細胞が収縮し水分をとどめておけずに外に流れでてしまうのは肉も同じ。
そうなると、ぱさぱさになる。
『最初に表面を強火で一気に焼いて旨みを閉じ込める』それが間違いであり、旨味を逃がすだけだと現代では科学的に証明されている。
だが、つい最近まではそれが一種の信仰、あるいは常識だった。
そんな時代に、自分の舌を信じてこの調理法を生み出した祖父のことを私は尊敬している。
肉を最後まで弱火~中火で焼き上げていく。
火を通すことで、良く焼けた肉のいい匂いとスパイスの香りが出てくる。
オリジナルスパイスの香りは上々、味も試してみたい。
「できました! 食べてみてください。タツヒコ様直伝のハンバーグです」
「ありがとう。君の腕は十分見せてもらったよ」
私は小さく笑う。
食べなくてもわかる。まずいわけがない。
◇
完成したハンバーグが皿に盛り付けられる。
この店では大きめの皿に、ハンバーグと付け合わせのサラダを乗せ、それとは別にフランスパンに似たパンと一緒に出すようだ。
「どっ、どうぞ」
私は頷いてナイフを入れる。
ハンバーグを切る。湯気がもくもくと出て、肉汁は一滴もでない。
本当によくできたハンバーグは肉汁がでない。
一見、肉汁がでたほうが美味しそうに見えるけど、実のところ旨味を外に捨てているだけ。それは切った瞬間だけじゃない。フライパンの上でも大量に旨味を捨てている、そして肉汁が出たあとの肉はミイラと一緒で干からびてぱさぱさだ。
肉汁を閉じ込めた旨いハンバーグを作るには、丁寧に包丁で叩くことで、細胞を潰すのではなく切ること。こねすぎないこと、ゆっくりと火を通すことが重要。
そのすべてを守って初めて、肉汁を閉じ込めたハンバーグが作られる。
フォークで口に運ぶ。
噛みしめたとき、はじめて閉じ込めた肉汁が溢れる。荒めに叩いているので肉の食感が残る。
上質な肩ロースを使っているので、肉そのものがうまい。
肉に加えたスパイスが絶妙だ。わずかな辛み、そして渋みが単調になりがちなハンバーグの味に深みを与える。
「……いい出来ね。祖父のハンバーグが見事に受け継がれている。それだけに、どうしてこれで店が流行らないのかが気になるわね。味の問題じゃない。それ以外の要因があるはずよ」
これほどのハンバーグを出せる店は、日本でも少ない。
売れないほうがおかしいのだ。
「二年前までは繁盛していたんです。だけど、二つの不幸がありました」
「二つの不幸?」
「はい、一つはシェフだった父の死です。お父さんが死んで、僕が料理を作るようになってから、味が落ちたって噂が立って。でも、僕はそうは思わないんです! 父が一生懸命教えてくれた。僕もがんばってきた! スパイスの調合だって改良して前より美味しくなってるぐらいなんです。でも、みんな味が落ちたって言って、離れていって……」
「君のお父さんが作っていたころは、人気店だったのかな?」
「はい、父は街一番のシェフって言われてました」
そういうことか。
老舗や、街の名店にありがちなことだ。
「その理由は簡単に分かるわね。父親が名人だったこと、アルネが作り始めてから、少ししか美味しくなってないからよ」
「どういうことですか? まずくなっているどころか、美味しくなっているのに、どうして味が落ちたなんて」
「……よくあるの。死んだ人が過大評価されることが。特に名人だと言われている人の後を継ぐとね。思い出は美化される。あの人の料理はもっと美味しかったって、存在しない料理を思い浮かべる。味が落ちたと思われないようにするには、同じ味では論外、少しではなく圧倒的にうまいものを出すしかない」
「そんな、今のハンバーグだって僕の精一杯だし、これ以上美味しくするなんて」
「そうね。このハンバーグは完成度が高すぎる。これより圧倒的にうまいと思わせる改良なんて、そう簡単に出来はしないわ」
「それじゃ、もうどうにもならないってことですか!?」
「ううん、そうは言ってないよ。ハンバーグをうまくするために、ハンバーグ以外に手を加える。少し、厨房を借りるね。料理店のオーナーでも賄いぐらいは作れるのよ」
私は厨房に移動する。
そして、いくつかの野菜を拝借する。
玉ねぎ、トマト、バター、蜂蜜、酒、芽が伸びたニンニクがあったのでそれも借りる。
玉ねぎをみじん切りにして、フライパンをがんがんに温め、バターを溶かしてから投入する。
ハンバーグのときは玉ねぎを弱火で炒めて旨味を閉じ込めたが、今度は逆に旨味をすべて外に出す必要があるから強火で炒める。
そこにニンニクの芽のみじん切りを加え茶色くなるまで炒めて、酒を加える。
本当なら、ここでコンソメスープを入れたいが、作ると時間がかかるので、蜂蜜を投入。
ここにトマトを入れて煮詰めていく。
塩、胡椒、それにミックススパイスを配合して完成。
私が作ったのはトマトソース。
「さあ、これが圧倒的にハンバーグをうまくする方法よ」
「これ、スープですか?」
「違う、ソースよ」
私はそう言ってから、さきほどの肉タネを焼いて、ソースをたっぷりとかけてからアルネに渡す。
アルネは、おそるおそると言った様子で食べてみる。
「美味しい! 今までのハンバーグよりずっと」
「そのためにソースはあるの」
トマトソースというのは凡庸ではあるが、実のところハンバーグともっとも相性がいいソースの一つ。
ハンバーグ、つまり牛肉の旨味成分というのはイノシン酸だ。
イノシン酸は同じくうまみ成分であるグルタミン酸と結びつくことで、相乗効果で何十倍も美味しくなる。
グルタミン酸を多く含む食材の代表がトマト。
だからこそ、西洋料理では、古くから肉やチーズとトマトを組みわせてきた。
「アルネの言う通り、ハンバーグそのものをこれ以上改良するのは難しい。だけど、ソースを工夫すれば圧倒的に美味しくすることができる。このトマトソースは蜂蜜を味の決め手に作ったけど、しっかり出汁を取ったスープをベースにすればもっと美味しくなるわ。このソースの基本を教えるから、アルネがこのハンバーグをもっと美味しくするために必要なスープを作れば、今のトマトソースをかけたハンバーグより、ずっと美味しいものができる。……何より、君の味になる。きつね亭はアルネの店よ。私が教えるより自分で試行錯誤して君の味を作るべきだと思う」
ハンバーグを美味しくできないのなら、ハンバーグを引き立てるわき役を美味しく作る。
今回はトマトソースだが、いろんなソースを作ってバリエーションを作るのもいいし、小手先ながらチーズや半熟卵もありだ。チーズや半熟卵があるだけで、わくわく感が強くなる。
それに、このトマトソースを完成させるためにコンソメスープを作れば、それをハンバーグと一緒に提供できる。
スープ一つつくだけで、満足感は大きくあがる。
「はい、これなら父さんのハンバーグよりずっと美味しいって思えますし、みんなもそう思ってくれるはずです」
「これで、一つ目の問題は解決ね。ただ、ソースを使うなら、ハンバーグ自体も塩加減やスパイスに微調整は必要だと思う。君の想像以上に大変よ」
「大変でも、もっと美味しいハンバーグになるならいくらでも頑張ります! ……でも、不思議です。サヤマ様、シェフじゃないって言ったのに、すごい手際が良くて、味付けだって即興なのにばっちり決まってて」
「ある程度料理ができないと、経営者なんて務まらないものよ。それより、二つ目の問題は?」
アルネの顔が目に見えて暗くなる。
一つ目の問題も、かなり大きな問題に思えたが、二つ目の問題はもっと厄介そうだ。
「実は、ハンバーグのレシピが盗まれたんです。お父さんが死んだあと、お客様はだいぶ減りましたが、それでもなんとかやれてたんです。だけど、レナリック商会、街で一番大きな商会が、ハンバーグを看板メニューにしたお店をたくさん出したんです。味じゃ負けてないけど、値段が半分以下で、残ったお客さんが全部とられてしまいました」
深刻な顔をするわけだ。
そして、その話を聞いて胸の傷がうずく。
それはまるで、私が店を潰したときと同じようで。
「一応、聞くけど、きつね亭のハンバーグの値段を下げることはできないの?」
「厳しいです。今でさえ原価率が六割で、これ以上値段を下げたら、ましてや半額なんかにしたら、売るたびに赤字です」
原価率六割。
その時点で、商売として成立するぎりぎりだ。
標準が三割。六割というのは大繁盛店の薄利多売でぎりぎり成立する金額。
もし、この店のような流行らない店で行えば継続的に赤字が出るはず。
「僕、いろいろとやってきたんです。宣伝したり、少しでも美味しくなるようにしたり、お店の内装を工夫したり、毎日ぴかぴかに磨いて、でも、半分のお金で食べられるってことには全然かなわなくて」
泣きそうな声で少年は囁いた。
胸が痛い。
だが、私は力になれるのだろうか?
半額以下の値段で料理を出すチェーン店に客を奪われ、戦うことすらなく店を閉めた私に。
「……その敵のハンバーグを食べてみたいな。値段の差はわかったけど、味の差も知っておきたい」
「なら、今すぐ行きましょう! 今日はお店を閉めます。……どっちみち、お客さんも来ないですし」
「その前に、質屋ね。手持ちのお金がないから注文できないの」
「それぐらい、僕が出します! 衣食住は保証するって言ったじゃないですか」
「店の実情を知った今、かなり頼み辛いの。この店、ずっと赤字だろうし」
客が入っていない店で、原価六割の看板メニューなんて出せばそうなる。
「赤字ですけど、なんとかしますから!。さっ、行きましょう。……サヤマ様は問題を一つ解決してくれました。だから、二つ目もって思ったら、一秒でも早くなにかしたいんです」
買いかぶりすぎだ。
そう言おうとしてやめた。
ここでそれを言うのはあまりにも酷だ。
もう私は手を貸してしまった。
料理店経営者としてでも、できることは全部やらないと。
それなら、敵を知ることが重要だろう。