第一話:諦めたシェフと諦めない子ぎつね
鏡に吸い込まれた瞬間、目を閉じてしまった。
奇妙な浮遊感に体が包まれる。
しばらくして冷たい石の感触がした。
「本当だったんだ。鏡の向こうから、救世主が現れるって……。あの、救世主様、どうかきつね亭を救ってください!」
元気で真面目そうで大きな声が耳に響いた。
目を開く。
すると、見たことがない少年が目の前にいた。
年齢は十代後半?
黒髪に茶色の瞳。ただ、顔立ちや体つきは西洋系。
さらに彼から漂う香りから同業者だとわかった。
料理人はどうしても食材や調味料の匂いが染みつく。
いったい彼はどうして祖父の倉庫にいる。そもそも誰だ?
「えっと、状況がわからないんだけど。ちょっと時間をくれない?」
「はっ、はい」
周りを見回す。
……どこからどう見ても私がいた倉庫じゃない。
最初は少年が倉庫に忍び込んだことを疑ったが、少なくとも彼が来たわけじゃなく、私のほうがどこかに飛ばされたみたいだ。
鏡に吸い込まれたと感じたのが幻覚の類でないのなら、ここは鏡の中の世界なのかな?
背後には大きな姿見鏡があった。
だけど、倉庫にあったものとは違う。
そして、彼が言った言葉。救世主は実在する。そして、きつね亭を救ってください。
そこから導き出される結論は……。
「だめ、どういう状況かちっともわからない。話を聞かせてくれないかな?」
「はっ、はい救世主様。どうぞこちらに」
考えてもわからないことは聞けばいい。
この子はどうやら私に対して敵意はない。むしろ、あこがれと期待のようなものを向けている。変なことはされないだろう。
◇
少年に連れられてやってきたのは、どうやら食堂のようだ。
内装を見る限り、大衆食堂。
少年は火を熾してお茶を淹れてくれる。
石かまどと薪を使っているのに驚く。どうしてわざわざそんな不便なものを使うのだろう。
「救世主様のお口にあえばいいのですが」
声が震えていた。
お茶を飲んでみる。
渋みの中にわずかな甘み。煎茶に似ているが、微妙に違う。なにより甘い香りがする。こんな茶は知らない。
「美味しいお茶ね。これは何というお茶かな?」
「センダルの葉を乾燥したものです」
センダル? 聞いたことがない名前だ。ただ、この茶葉を手に入れてみたい。料理にも使えそうだ。
ただ、それは後回しにしよう。
「まずは自己紹介。私は佐山トオル。君の名は?」
父と母は私が男か女かわからないうちに、どちらでもいい名前にしようと決めて、トオルになった。
名前だけだと、男と間違われることも多い。
「僕はアルネって言います。よろしくお願いします。サヤマ様」
少年の名前も、どちらともとれるので笑ってしまう。
「アルネ、単刀直入に聞くわね。私を救世主と呼んだ理由と、きつね亭を救ってくれと言った意味を教えて」
彼が放った第一声、そこにこの状況を解くカギがあるはずだ。
「はっ、はい。昔、おじいちゃんが教えてくれたんです。三十年前も、きつね亭……おじいちゃんのこのお店が潰れそうになったんです。もうどうにもならないってあきらめかけたとき、鏡の向こうからタツヒコって人がやってきて、ハンバーグって料理を教えてくれて、きつね亭は蘇ったんです。その日は満月の夜だったっておじいちゃんが言っていたので、満月の夜には救世主が来るようにお祈りしてたんです」
今の話で色々とわかったことがある。
……これが何かの盛大などっきりじゃないのであれば、鏡を通してどこか別の世界に来たことになる。
信じがたいが、それ以外にこの状況を説明できない。
それなら、石かまどなんてものを使っているのも、センダルなんて茶があるのもわかる。
まあ、それならそれでどうして言葉が通じるのかがわからないのだが。
顔を手で覆う。
これからどうなるんだろう? そもそも帰れるのだろうか? 次々に嫌な想像が膨らむ。
取り乱しそうになるが、必死にこらえる。
年下の子の前でそんなかっこ悪いことはできない。これは私の意地だ。
それに経験上知っている。どんな最悪の事態が起きても冷静さを失ってはいけない。焦れば焦るほど、事態は悪化してしまう。今は一つでも情報を集めよう。もう一つ彼はとんでもないことを言っていた。
「そのタツヒコというのは私のおじいちゃん……祖父と同じ名前ね。祖父が潰れかけたきつね亭にハンバーグを教えたのかしら……」
「きっとそうですよ!。タツヒコ様のハンバーグはきつね亭の名物で、今も看板メニューです! タツヒコ様のお孫様なんて、感激です」
ハンバーグは祖父の得意料理であり、祖父の洋食屋でも看板メニューだった。
もし、つぶれかけの店を立て直そうとするなら、祖父はハンバーグを教えるだろう。
状況はわかったけど、どうしても気になることがあった。
「つまり、君は一度店を助けてもらったことに味を占めて、神頼みをしてたというわけね。また、都合よく救世主が現れて、新しいメニューを教えてもらえば店が立て直せるとでも思っているのかな? 君がするべきは神頼みじゃなく、店を立て直すための努力でしょ。努力もせずに安易に他人の力を宛てにする奴は好きじゃないの」
つい、きつく言ってしまった。
料理に関しては誰より真剣に取り組んできた。
だからこそ、他人の力に頼ろうとするやからは嫌悪してしまう。
アルネは言葉を失う。
……少し言い過ぎたかな。
「そっ、そうですよね……。サヤマ様の言ってることは正しいです。僕は間違っています。だけど、それでも、きつね亭を、祖父と父が好きだったきつね亭を守りたいんです。どうか、力を貸してください」
アルネがその場で土下座する。
土下座という文化があるのは驚きだ。
……驚く以上にきまずい、こんな子に土下座なんてさせてしまうなんて。こんなことをさせるつもりはなかった。
ただ、だからと言って手を貸す気にはならないが。
「ふう、勘違いしているようだけど、私は祖父と違ってシェフじゃないの。助けたくても助けられない」
少年が顔をあげる。
その目には、深い絶望があった。
……妙に気まずくなる。
嘘をついてしまった後目もある。
シェフじゃないと口に出してしまったのは感傷だ。
夢を叶えるための店を潰し、私が抱いた夢そのものが間違っていたかもしれない。
そう考えてしまった私は、シェフを続けていくことに迷いがあった。
それだけじゃない。怖いんだ。またシェフとして厨房に立ち、客に裏切られるのが。
私が信じて、積み重ねてきた料理そのものを否定される。あんな思いは二度としたくない。
だから、シェフじゃないと言ってしまった。
「そっ、そうなんですか。てっきり、鏡の向こうから来る人は、みんなシェフだと思ってました」
失敗したかもしれない。
彼の協力を断るにしても、帰る方法を聞き出してからだ。
祖父がここに来たということは、戻る方法があるということ。彼がへそを曲げて、それを隠せば帰れなくなってしまう。
「とにかく、立って。これじゃ君を虐めているように見えちゃう」
私も席を立ち、手を伸ばす。
アルネが泣きそうな顔のまま私の手を取る。
「すみません」
助け起こすために手に力を入れたとき、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気付く。
この手は……。
「……アルネ、厨房を見せてもらってもいいかな。私はシェフじゃない。だけど、料理店の経営者なの。アドバイスぐらいはできるかもしれない」
アルネの顔に生気が戻る。
「はい、わかりました。こちらに!」
アルネは私を連れて厨房に移動する。
厨房の中を見る。
原始的な厨房。ガスも電気も存在しない。
調理器具は使いこまれ、手入れが行き届いていた。形だけじゃなく、真に道具を愛していた。
アルネの手を握ったとき驚いた。いくつものタコができては潰れたあと、火傷を繰り返して出来上がった厚い皮。
まだ二十にも届いていないだろうに、アルネの手は熟練のシェフの手だった。この年であの手になるには生半可な努力では足りない。
この厨房と、調理器具、彼の手を見れば、きつね亭を守るため、アルネがどれだけ努力を積み重ねてきたかはわかってしまう。
彼へ告げた言葉は早計だった。
……私は努力をせずに他人にすがる奴が大嫌いだ。
だけど努力する奴は好きだ。応援したくなる。
「まったく、言い訳ぐらいしてよ」
うっかり、独り言をもらしてしまう。
「なにか言いました?」
「いや、なんでもないよ」
そして、私は謙虚なことにも美徳を感じる。
普通なら努力はしている。それでもだめだとわめきたてるはずなのに、彼は言い訳をしなかった
だからこそ、少しは力を貸してやりたいと思った。
「私は料理店を経営してた。料理人ではないけど知識はある。それに経営に関しても手助けはできると思う。力を貸してもいい。その代わり、祖父がどうやって鏡の向こうに戻ったか教えてもらえないかな?」
だから、そう言った。
シェフであることは隠し、料理人としてではなく、経営者として少年の力になる。
夢を失った私にはそれぐらいがちょうどいい。
「おじいちゃんの話では、タツヒコ様は次の満月の夜、鏡が輝いて帰っていったと」
「なるほど。次の満月には私も帰れるわけね。次の満月はいつかな?」
「だいたい、一か月後ですね」
月の満ち欠けも、私の世界と一緒で、一か月なんて単位もあるのか。鏡の向こうの世界は不思議だ。言葉も含めて元の世界と一緒なんて。
「一か月は長いわね。一応聞くけど、こういう金は使えないわよね?」
「それ、お金なんですか?」
さすがに日本円は使えないようだ。ただ、少なくとも金という概念はある。
「鏡の向こうのお金よ。……使えないのは仕方ない。なら、質屋を教えて。たぶん指輪やらアクセサリーやら、何か売れると思う。それで当座のお金を作って、仕事を探す」
生きるだけでも金はいる。
見知らぬ土地で仕事を探すのは面倒だが、言葉が通じるならなんとかなるだろう。
「そっ、そんな必要はありません! お金はあんまりないですけど、衣食住は僕が保証します! 無理やり呼び出したのに、放り出すなんてできないです! それに、アドバイスもしてもらいますし、お給料も払えるように頑張ります」
この少年は努力家だけじゃなく、善人でもあるようだ。
期待外れだと放りだされてもおかしくないのに。
私がいま、理不尽に呼び出され、一か月も帰れないのにアルネに怒りをぶつけないのは、彼の人柄ゆえだろう。
「なら、その言葉に甘えるわ。それから、アドバイスをするまえに、この店のハンバーグを食べさせてくれないかな」
祖父直伝のハンバーグなら、客足が遠のくとは考えにくい。
私は三十年という月日の間に味が落ちたことを疑った。
「任せてください。すぐに作りますね」
「店が定休日で良かったね。客がいれば、こんなわがままは言えないから」
「その、とても言いにくいんですが」
少年がもじもじし始める。
……言いにくいこと? まさか。
「店は開いているのね」
「その通りです。お客さんが一人もいないだけで」
外の明るさを見る限り、夕食時真っ最中。
この時間に客がゼロ。
相当まずいようだ。
早急に手を打たないといけない。
まずは、少年の作るハンバーグを食べてみよう。話はそこからだ。