プロローグ:夢の終わりと何かの始まり
夢の終わりを見届けていた。
ここに来るかはとても悩んだ。
……来てしまえばきっと心が軋むから。
だけど、来なければ一生後悔する。その確信があったからこそ、来ることにした。
「六年間、あっという間だったな」
駅から少し離れた通りにある洋食屋の前。
その洋食屋は取り壊し中だ。洋食屋ムーンラビット。
それが私の夢の名だ。
左手に巻いた銀時計を撫でる。
私はシェフだ。
祖父に憧れて、シェフになると決めた。
その夢を叶えるために料理学校に入り、優秀な成績で卒業し、帝都ホテルのレストラン部門に就職した。
十年間、帝都ホテルで夢中になって働いた。
一流ホテルだけあって、一級品の材料を日常的に使えた。
毎日、数百人もの客を相手にするから多くの経験をつむこともできた。
設備も一流、さまざまな料理を作り、尊敬できる先輩たちから多くのことを学べた。
だけど、同時にむなしさも感じていた。
日本一の超高級レストラン。
毎日訪れる数百人の客すべてに超一流の料理を届けないといけなかった。
そのためには、上が決めたレシピを徹底して守り、効率を求め、たった一つの料理ですら分担して流れ作業で作る。
まるで工場にいるような気分になった。
何より厨房に籠り切りで、客の顔を見ることすらない。
十年間、ろくに客の顔を見ずに流れ作業で完璧な料理を生産し続けた。
ある日、私はどうして料理人を目指したのかを思い出した。
祖父に憧れたからだ。
祖父は小さな、でも暖かな洋食屋を開いていた。
幸せそうにフライパンを振り、きらきらした料理を作る。
それを食べた人も幸せそうに笑って、それを見た祖父も笑う。
「……それがとても尊いもので、私もそうなりたいと思った。だから料理人になりたかった」
一度、それを思い出したら、もう止まれなかった。
私は帝都ホテルを批判するつもりはない。
毎日数百人の客を相手に完璧な料理を提供できるのは帝都ホテルだけだし、素晴らしいことだ。
恩も感じている。
料理の腕を上げるため、研修や留学などの制度も充実している。
研究のために、余った材料も快く提供してくれた。
だからこそ、たった十年でここまでの腕になれた。
それがわかっていても、祖父のようになりたいという思いが強く、帝都ホテルを辞めて店を持つ決意をした。
幸い、料理だけにのめり込んだ十年だった。高級レストラン故に給料もいい。退職金も十分にあった。
貯金と退職金で店を買った。東京を離れて、地価の安いところを選び、たまたま、後継者がいないことを理由に店を畳もうとしていた夫婦から安く店を購入できたため、開店費用が安く済み、借金をせずに済んだ。
「夢を叶える城を作ったはずだったのにな」
洋食屋ムーンラビット。
それが私の作ったレストラン。多くの客の笑顔に触れるため、手頃な価格で、本物の料理を楽しめる店を目指した。
席数を絞ることで、客の顔を見ながら、すべての料理を私が作る。
値段を抑えるために、一級品の材料は使えない。
だけど、その分は手間と技術で補う。
……ムーンラビットは、開店してからすぐに人気店になった。
狙い通り、手頃な値段で本物の味を楽しめると話題になり、一度来た客はリピーターになり、客が増えた分、値段を維持したまま、いい材料も使えた。
すべてが順調に思えた。
祖父のようになれた。夢が叶ったと確信していた。
だけど、その夢は冷めるのも早かった。
開店から五年間は順調だったけど、六年目、店の近くにチェーン店が出来た。
洋食チェーン、シャンゼリア。
それなりの味を、それなりの品質で、極めて安く出すチェーン店。
シャンゼリアが開店したとき、さほど脅威には思えなかった。
実際に食べてみたけど、評判通りそれなりの味でしかない。ほとんどの料理が大量生産の冷凍食品。
私の店の味を知った客が離れていくなんて思ってもいなかった。
だけど、結果は違った。
客は流れた。
簡単に。
理由は簡単。たしかにそれなりな味でしかないが、むこうの値段は私の店の半額以下。
私の店のランチは千二百円するが、シャンゼリアは五百円でハンバーグランチを出す。
悔しかった。
どうしようもないほどに。
市場に毎日通って、限られた予算の中で少しでもいい材料を探して、手間暇かけて、技術と心を注いで作り上げた自慢の料理。
それが、ただ安いだけの料理に負けてしまった。
本物の料理を作って、客を笑顔にして、その笑顔を見て自分も笑う。
そんな夢は、工場で作られた大量生産の冷凍食品に押しつぶされた。
開店してから六年目にして、月の収支で赤字となった。
それを見て、店を閉めようと決意し今に至る。
実際のところ、この店を続けようと思えばまだ続けられた。
私がとれた道は二つ。
一つは、高級路線にすること。一級品の材料を使い、最上の料理を作る。こうすれば低価格路線のチェーン店とは競合しない。
もう一つは、材料費をもっと削って質を落としてでも値段を下げること。幸い、この店は私の持ち物であり、家賃がなく、人手も最小限のため値段で対抗できなくもない。
だけど、どっちの道も選べなかった。
どちらを選んでも私は夢を捨てることになる。
高級路線に進めば、たくさんの人を笑顔にするという理想を捨てる。
値下げ路線に進めば、自分が納得できない料理を客に出す。そんなもので客を笑顔にできるとは思えないし、できたとしても美味しい料理にではなく、それは今日のご飯は安い値段で済んで良かった、という空っぽな満足感の笑顔だ。
そんなの、どっちを選んでも地獄だ。
何より、情熱が消えてしまった。
馬鹿らしくなったのだ。
私の料理で食べる人を幸せにしてきたと思っていた。
その自負があった。自信もあった。だから頑張ってきた。少しでも美味しいものをと腕を磨き続けた。
だけど、現実はどうだ。
客は味なんてどうでもいい、安ければそれでいい。
この結果がそれを証明している。
夢が壊れて、情熱を失った私に、もう店を続ける気力はなく、あっさりと閉店を決意し、店と土地を売却した。
「私が間違っていたのかな?」
さきほどの言葉を繰り返す。
洋食屋ムーンラビットの看板が完全に取り外された。胸がぎゅっと締め付けられ、左手の銀時計を撫でる。
私の夢の城は消えた。
「さよなら、ムーンラビット」
絞り出すように別れを告げて、私は駅に向かった。
◇
夢が潰えたあとも、生活は続く。
あの店は私の家でもあり、その店を売ってしまった以上、新たな住処が必要となる。
引っ越し先を探す必要に迫られたけど、その問題はすぐに解決した。両親から、祖父の家に住んでほしいと頼まれたのだ。
祖父の家は辺鄙な土地にあり、なかなか買い手がつかなかった。放っておけば荒れ放題になるから、誰でもいいから住んでいたほうがいい。
なので、私が次の仕事を見つけるか、あるいは買い手が現れるまで、そこに住んでほしいとのことだった。
「これから、どうしよう」
幸いなことに、赤字が出始めてから店を早期に畳んだおかげで傷が浅かった。
さらに、周囲で再開発が始まり地価が値上がりしており、私が店を買ったときより高く売れたので、金銭的にはかなりゆとりがある。
お金があるおかげで、ゆっくりと次のことを考えられる。
電車に揺られて窓の外を見る。
……祖父の家に行くのは久しぶりだ。
祖父に憧れたのが私の料理人としての原点だ。
あそこにいけば、立ち直るきっかけが見つかるかもしれない。
◇
電車に揺られること二時間。駅から徒歩一時間たってようやく祖父の家にたどり着いた。
築五十年を超える洋館だけど、作りがしっかりしているし手入れも行き届いているので、まだまだ十分に住むことができる。
屋敷に入ろうとしたとき、携帯が鳴った。
画面に表示されたのは、帝都ホテルに勤めていたときの上司の名前だ。
「佐山、聞いたぞ。店を潰したんだって」
「……上杉料理長、いきなり電話をしてきたと思えば、それですか。それなりに落ち込んでいるんですけど」
「ははは、俺にとっては朗報だからな。一流のシェフの手が空いた。どうだ? 戻ってくる気はないか」
一瞬、携帯を落としそうになった。
「私が居たのは六年も前ですよ。今更戻ったところで、使い物になるとは思えません」
「謙遜するな。おまえは誰よりも努力家で飲み込みが早かった。それにな、俺の部下にムーンラビットの大ファンがいて。そいつは通うたびに、おまえの腕が上がってるって、はしゃいでた。こういう話もするのも、そいつの推薦があったからというのもある……まあ、なんだ。俺はおまえの腕を買っている」
「買いかぶりすぎです」
「一応言っておくが、平からじゃない、俺の補佐として腕を振るってほしい。レシピを考え、シェフたちを監督する側だ。雇用条件も相応のものを出す。即答する必要ないから、一度考えてみてくれ。……佐山、自分で店を持ったおまえだからわかると思うが、一級品の材料、一流の設備、上質な客、すべてが揃う場所はここしかないぞ。まあ、俺も店を潰したことがある人間だから、そう言えるんだけどな。……間違っても腐るんじゃねえぞ」
そして、電話が終わる。
少し、涙が出そうになった。上杉料理長が本気で心配してくれているのはわかっている。
あの人は昔から私を買ってくれていた。
それに、私が気付いていないと思っているが、三か月に一回ぐらい、変装して来てくれていたことも知っている。
「帝都ホテルに戻るのも……いいかもな」
夢を追うために、辞めてしまった古巣を思い出す。
上杉料理長が言うように、あそこはシェフとして理想の環境だ。
だけど、あそこに戻るのは洋食屋ムーンラビットでやってきたすべてを否定するように思える。
また、左手の銀時計を撫でてしまう。
不安になったとき、悩んだとき、この銀時計を撫でる癖があった。
この銀時計は私の勲章であり、誇りだから。
◇
祖父の家は造りが立派とはいえ、しばらく誰も使っていなかったせいで、大掃除が必要だった。
すぐに使いそうな部屋の掃除を終わらせて、邪魔になりそうなものを倉庫に移す。
すると、倉庫でノートの束を見つけた。
何気なく手に取る。
それは祖父のレシピを書き記したものだった。
ノートを開くと目を離せなくなった。
「……おじいちゃんはすごいな。こんなレシピを何十年も前に考えてたんだ」
今開いたのはナポリタンのページ。
ケチャップの味に深みを持たせるために焦がし醤油をわずかに加えると書いてあった。
あの時代に、ナポリタンに工夫をしようと考えること自体がすごい。それに洋食にしょうゆ、それも合性を考えて焦がし醤油というのが斬新だ。
私は夢中になってレシピを読み続けた。
不思議だ。レシピを呼んでいるだけなのに、今までよりずっと祖父を身近に感じた。
◇
気が付いたら夜になっていた。
周囲が暗くなって文字が読めなくなってようやく気付いた。何かに夢中になるとほかが見えなくなるのは私の悪い癖だ。
明かりをつけないと。
立ち上がり、スイッチを探すが途中で何かにひっかかった。布だ。
大きな姿見鏡にかけられていたもの。
布を剥がされた、鏡が光っている。
光源なんてないはずなのに。いや、一つだけあった。
それは満月の光。
でも、それにしたってあまりにも強い光。
鏡に向かって手を伸ばす。
理由なんてなかった。なんとなく呼ばれた気がしたんだ。
鏡に触れると、まるで水面のように波打った。
さらに力を込めると鏡に手が吸い込まれる。
……冷静に考えれば気味悪がって逃げる。
だけど、なぜか私はそうしなかった。
気が付いたら、鏡に吸い込まれていく。
目を閉じる。
どうしてだろう?
この鏡の向こうに今の私に必要な何かがある。
そう思えた。