クランベリーの丘で
表現上、少々グロテスクに感じられる場面があるかもしれません。
苦手な方はご遠慮ください。
その可憐な少女は、丘の上にたった一人で暮らしていた。彼女は大きな犬と黄色い小鳥を飼っていた。名を、シェスカといった。
普段トールがクランベリーの丘まで出かけることはまずない。なぜならトールたちコルサ族は、魔法族だからだ。魔法族は東の森に住む。クランベリーの麓までは、ハープ川を渡りミルの坂を上り、さらに馬で半時ほどかかる。そんなに離れている丘へ、わざわざ出かける用事もコルサ族にはない。
だから、トールがシェスカと出逢ったのは、冒険好きのトールの気まぐれか、あるいは偶然だったのだろう。
シェスカはブロンドのおさげを弾ませ、長いスカートを翻しながらトールに駆け寄った。トールは狩人の服を着て、茶色いマントを羽織っている。彼の黒髪が、さあっと丘の風に弄ばれる。
「トール! 待ってたのよ! 向こうの草原でティアーローズを摘んできたの。おいしいローズティーができるわ」
弾む声。シェスカは太陽のように笑う。マリンブルーの瞳が真っ直ぐにトールを見つめてくる。
トールはそれを眩しげに見つめ返す。
「そっか、じゃあちょうど良かった。姉さんがクッキーを焼いてくれたんだ。一緒に食べよう」
「ユーリが? 嬉しい!」
シェスカは勢いよくトールの首に抱きついた。
トールはそれをしかと抱きとめ、にっこりと笑った。
ティアーローズは群青色の薔薇だ。お茶にすると青紫の綺麗な紅茶が出来上がる。それはほんのりと甘酸っぱい味で、飲む人を懐古へと導くという。
トールはローズティーを一口飲んで、シェスカに微笑みかけた。
「姉さん、今日来れなくてごめんな。魔術師学校に論文提出しなきゃいけなくてさ」
「そっか……残念だけど、トールが来てくれて嬉しいわ。クッキー、美味しかったって伝えてね」
満面の笑みが、シェスカの健康な肌をよりいっそう輝かせる。
「ああ。必ず」
「トールは、学校いいの?」
「え……」
無邪気に聞かれて、少しうろたえる。
実はサボりなのだ。魔術師学校の教室は陰鬱で窮屈で、気が滅入る。それよりも自由に飛び回って冒険しているほうが、トールには合っているように思える。こうしてシェスカの笑顔を見ているだけで、幸せな気分になれる。だから……
「そ、そんな顔しないでよ。僕はシェスカの隣にいる方がいいんだ」
一瞬訝しげな顔をしたシェスカに、トールは必死の弁解をする。
「魔法なんて、空さえ飛べりゃあとはどうだっていいんだ。教科書読めばだいたいのコツだってつかめるしさ。シェスカこそ、学校行かないの?」
トールは邪気のない口調で、純粋にそう聞いた。
「私は……」
さっとシェスカの表情が曇る。
「あ、ごめ…、いけないこと、きいちゃった?」
トールは気まずくなって目を逸らした。
「ううん。いいの。ただ、私は……コルサ族じゃ、ないから」
シェスカはそう言って苦笑した。
「トールは、私が魔法族じゃなきゃ、イヤ?」
「そ、そんなことないさ! 民族の違いなんて関係ない! 魔法が使えなくたって……僕は純粋に、シェスカが好きなんだ!」
思わず立ち上がってシェスカの両肩を掴んで叫んでしまったトールだが、
「あ……」
恥ずかしくなってうなだれた。
「ありがとう、トール。私も好き」
くすくすと、少女が笑う。
「シェスカ……」
トールは彼がいちばん好きな太陽の額に、そっと口づけた。
†
トールとシェスカが出逢ってから、季節はすでに二度巡っていた。
春の陽光がハープ川にきらきらと反射して、はるか上空を飛ぶトールにとって、それは宝石か天の川のように思えた。
いつものように森の入り口で降り立つと、ローブで全身を覆い、森の番人に命令する。
「迷いの森の番人よ、コルサの民が通る。道をつなぎ、鬼火を灯せ」
すると閉ざされていたはずの森に、一本の小道ができる。木々はざあっと一斉に開いてアーチを作り、暗かったはずの道の端々には、ぽうっと火の玉が浮かんだ。
「ありがとう、番人」
そう言ってトールは、木々のアーチに足を踏み入れた。
「ただいま。姉さん、父さん」
小さな屋敷のドアを開き、トールは呼びかけた。
するとろうそくの三本灯った燭台が、すうっと宙に浮いてトールの前にやってくる。
「あぁ、姉さん、ありがとう」
ローブを脱いで玄関のフックにかけたトールは、燭台を持って、螺旋階段を上る。
「まったく、この家の趣味が分からないよなー」
シャンデリアを燈さず、数万本というろうそくをそこらじゅうに浮かばせて明かりをとるこの家の中は、はっきりいって怖い。暗いから怖いのではなく、何かが出そうな雰囲気なのだ。そして何より、このろうそくの大群は、明らかに通行の邪魔だった。
トールが食堂の重い扉を開くと、
「こんな時間まで、どこに行っていたんだ」
いちばん上座に座った父、ジュドーが、冷たい瞳でトールを見据えてきた。
「あ、父さん、ごめんなさい。ちょっと、道草を…」
「どこへ行ったあとの道草だ」
「え、えっと……」
トールは言いよどむ。
「もう、父さん、いいじゃない。トールもそういう年頃なのよ」
ユーリが助け舟を出した。が、
「どういう年頃かは知らんし、お前がどこへ行こうと勝手だ。だが、お前いったい何日学校へ行っていないと思っている」
「父さん。そんなの後でも聞けるわ。さ、トール、席に着きなさい」
「ユーリは黙ってなさい。トール、私の職業を知っているだろう」
「……教授」
トールは半分ふてくされて呟いた。
「そうだ、魔術師学校魔法研究所の教授だ。分かっているのならこれ以上私の顔に泥を塗るような真似はやめなさい」
ジュドーの冷たい視線が、無言の圧力となってトールを縛る。トールは父を怒らせたことを反省し、小さく返事をした。
ユーリはその重たい雰囲気を払拭すべく、明るい声で呼びかけた。
「食べましょうよ。ね? スープが冷めちゃうわ」
窓の外では新月が、ゆっくりと昇りはじめる。
運命が狂いはじめていることに、彼らはまだ、気づかない。
†
「でさー、父さんそのあと補修だとかいって、僕の部屋に入り込んできて、いきなり魔術の稽古だよ。参っちゃうよなー、まったく」
シェスカの山小屋で膨れっ面をしてみせるトールの頬には、昨夜の稽古の名残か、擦り傷が作られていた。
シェスカはくすくすと笑う。
「だから学校は行った方がいいのよ。友達もたくさんいるんでしょう?」
「いたって、僕はシェスカがいいんだ」
「でも私には、トールとユーリしかいないわ」
シェスカは相変わらず微笑んでいる。トールは自分がひどくわがままを言っているみたいで、贅沢をしているようで、胸の痛みを覚えた。
「ごめん、シェスカ……」
落ち込むトールに、シェスカは明るく問う。
「じゃあ、これからは夜に会いにきてくれればいいじゃない? 私待ってるから、ね?」
「うん……うん、そうだな! 僕、たくさん魔法覚えてシェスカに見せてやるよ。シェスカが一緒に飛べないなら、その背中に羽をつけてやる!」
トールの黒曜石の瞳が輝きだす。
「素敵! トールと一緒に空を飛べるの?」
シェスカのマリンブルーの瞳も呼応する。トールはなんだかとても嬉しくなった。
「ああ、頑張るよ」
†
そうは言っても学校はやはり気が滅入るのだ。この学校が陽光の当たる湖畔にでも造られていて、もっと小奇麗な外装をしていれば、行く気にもなる。だが、魔術師学校は森の最奥に建てられ、築何百年かは知らないが、ボロい外壁には蔦や楓が生い茂り、廊下は薄暗く、その上制服ときたら、真っ黒なローブなのだった。ローブの下も、黒のベストである。
生徒が底抜けに明るいのが救いか……
「あ、やっべー! ガラス割っちまった! 魔法で直して誤魔化すか。クシュリーダ、マイント…」
「ばっか、お前、それ物質をヘビに変える呪文…」
「きゃあぁぁっ!」
もしくは底抜けにやんちゃなのが仇か。
突然大量発生したヘビに、パニックに陥った女子たちの大移動が開始される。
これでも授業中なのだ。
廊下で起こっている騒動を横目に見ながら、トールはため息をつく。
よっくこんなじめじめした場所で元気に遊べるよな……俺なんか反抗する気さえ失せちまうぜ。
これが本心である。
もう一度ため息をついて、板書の書き写しを再開する。歴史である。休んでいる間に、だいぶ進んでしまったようだ。
ふと、赤字で書かれた単語に、妙な引っ掛かりを覚える。
「あれ、なんだっけ……たしか、父さん…」
それは、数日前の夜の会話。
トールは立ち寄ったリビングで不意に聞かれた。
「お前がよく会っている娘というのは、まさかウェダ族じゃないだろうな?」
ジュドーは質問しながらも息子を見ず、分厚い魔法書を読んでいる。
「知らないよ、民族なんて。でも、髪と目の色は黒じゃなくて金髪碧眼なんだ。それが太陽みたいで、すごく綺麗なんだよ」
「好きなのか。その娘を」
「えっ……」
出し抜けに質問されて、トールは戸惑う。
「ウェダ族ならば、諦めろ。あいつらは我が誇り高きコルサ族を陥れた、悪魔の民族だ」
「あぁ、そっか…あの日の…」
だったらなんだというのだ、と、古い過去に固執する父に、少し腹が立ったのを覚えている。
だが悪魔の民族という言葉は気がかりだ。トールは黒板と教科書を交互に見て、聞いていなかった分の先生の話を穴埋めしようと、頭を働かせた。
「つまり、魔法が使えない農耕民族であるウェダ族からある日死人が出て、その死人ってのが秋の収穫祭で踊る予定の巫女で……」
その巫女はコルサ族の男に酷い屈辱を受けたことがあった。それでウェド族は魔法族であるコルサ族に疑いをかけた。「コルサの民がウェドの民を呪い殺した」と。最初は小さかった争いの火種は、やがて民族間の話し合いの場すら凌駕し、戦争へと発展した。最初の疑いが間違いだったと分かったときには、すでに二つの民族間の怒りは止められないところまできてしまっていた。
そして、コルサ族は人間同士の戦いに魔術を使った。人を幸せにし、人の生活と共にあるはずの魔法が、殺人の兵器へと化した。自分たちが使えないものを使って、民衆たちまでも巻き込んで命を奪ってゆくコルサに、ウェドの怒りは頂点に達した。
ウェドは戦った。コルサの人々が争いに疲れ、ひとときの平和をむさぼっているときですら、彼らは復讐の手を休めることはなかった。少しでも自分たちが優位に立とうと、ウェドは必死だったのだ。必死になって、卑怯な戦い、残酷な戦いに手を染めていった。
こうなるとコルサも黙ってはいない。百年前、ついに政府の決定で、ウェド族迫害が執行された。現在ウェド族の戸籍はこの世に存在しない、と、教科書には書かれている。
「なんだよ、結局悪いのはコルサじゃん…」
教壇の先生に聞こえないよう、独りごちる。
彼は思う。もしかすると父にとってこの歴史は、「古い過去」で終わらせられる、そんな簡単な問題ではないのかもしれない。
トールは変な胸騒ぎを覚えた。
「シェスカは……生き残りなのか…?」
太陽が雲に隠れてゆく。蛍光灯が瞬いた。
月の引力が、呼んでいる。
†
その夜トールは、姉の部屋を訪れた。
ユーリは白いフリルのブラウスに、黒い裾の膨らんだロングスカートを穿いていた。濃い紫のローブは、胸のブローチと紐だけで留め、後ろに流している。黒く美しい巻き毛は、いつも肩で揺れている。
「姉さん、今日学校で、民族戦争のことを習ったよ」
そう言うトールの声は低く、震えを抑えようとしているような抑揚のない口調だった。口元が変に笑う。
ユーリは弟にベビーローズティーを差し出して、椅子に座るように言った。
「珍しいじゃない。あなたが学校のことを話すなんて。どうしたの」
ユーリはなるべく軽く聞く。意識的にそうしているのか、その黒い瞳は、トールの姿を捉えようとしない。トールは下を向いているので、それには気付かなかった。
「姉さん……」
トールはベビーローズから搾り取ったピンク色の液体が揺れるのを見つめながら、ポツリと言った。
「僕、父さんのこと、尊敬してるよ」
「ええ」
姉の優しい受け答え。
「姉さんだって、優秀で、僕だけが……」
姉はトールが続きを喋るのをじっと待っている。
「でも、でも。僕、やっと頑張ろうって思えるようになったんだ。父さんに憧れるだけじゃなく、自分もああなろうって、思えるように…なったんだ」
トールは唇を噛みしめた後、少し冷めたピンク色の甘い液体を、一気に胃に流し込む。そして、
「だけどそれは!」
ローズティーを飲み干したそのカップを、ガチャンと皿に乱暴に戻しながら、姉を見つめて言った。
「それは…シェスカがいたからなんだ…! シェスカ、空を飛びたいって言ったんだ。だから、一緒に空を飛ぼうって、約束したんだ。……羽を付けてあげるって言ったときのシェスカの目、すごい、きらきらしてた……」
眩しい彼女の笑顔を思い出しながら、トールは思わず浮いてしまった腰を、すとんと下ろす。
「ねぇ、姉さん」
空になったティーカップを親の仇のように凝視する。そして、どうしても震えてしまう唇でトールは聞いた。
「シェスカは、ウェド族なの…?」
ティーカップを持ち上げようとしていたユーリの指がぴくりと動く。
「……、ねぇトール?」
「姉さん!」
トールは姉の作り笑いがいちばん嫌いだ。幼いころ、病気で死んだ母の最期の笑顔を思い出すからだ。母は言った。必死に作った笑顔で、「トール、いい子ね」と。そして逝った。姉が作り笑いをすると、トールは自分が子供扱いされているようで、無性に腹が立つ。実際はユーリと二つしか違わないのに。
「誤魔化すなよ…」
「…そうね、ごめんなさい」
ユーリの沈痛な面持ちが、トールの問いに対して是と答えていた。
「もういい。分かった」
トールは腹の奥に抱えた絶望の淵から声を出した。
「トール!」
部屋を出て行こうとする弟の腕を掴んで、
「待って。今度は姉さんの話、聞いて…?」
泣きそうな声で言って、彼女はトールの肩にこつんと額を乗せてくる。
「友達がいない、可哀想な子なんだって、トール、言ったわよね? だから姉さんが友達になってあげてって、クランベリーの丘にたった一人で住んでいる女の子を、あなたは私に紹介した」
トールは黙っている。
「私は心臓が止まるかと思った。…クランベリーの丘って、かつて、ウェド族の聖域だったのよ。そこに住んでる金髪碧眼のみなしご……はっとしたわ。彼女の育ての親は、コルサ族、しかも、父さんの学友だった人なの…」
ユーリは弟を抱きしめる。
「あなたたちがずっと知らないままなら、どんなに…」
ユーリの言葉は、彼女の身長を少し追い抜いた弟の言葉に遮られる。
「僕たちが? シェスカも自分がウェド族だって、知らないの?」
「…シェスカの育ての親は、彼女がコルサ族じゃないってことだけを彼女に伝えて、ウェドとの歴史は一切語ろうとしなかった。そして周りにも、自分がウェドの生き残りを匿っていることを、隠し通した。…その人は…私が敬愛した、魔方陣研究の教授だった! 彼は…私がまだ見ぬシェスカのことをよく語った。そして…母さんと同じ病気で…シェスカの身を案じながら…死んで、いっ…」
嗚咽に声を詰まらせたユーリは、これ以上嗚咽が漏れてしまわないよう、歯を食いしばった。知らず、弟を抱く腕の力が強くなる。
「僕は…」
怒りに喉を震わせた少年の声が、重低音となって部屋の底辺に満ちる。
トールはユーリの腕を振りほどいて叫んだ。
「少なくとも僕は知っておくべきだった! どうして! どうして黙ってたんだ! 姉さんは隠し通せると思ってたの?! コルサ族なら…いずれは皆知ってしまう歴史を、事実を…隠したって意味無いじゃないか! もし最初から知っていたなら…僕はシェスカを守れたんだ…。父さんにだって、あんなに素直に答えたりはしなかった!」
ユーリは父と聞いて、びくりと体を震わせた。
「…父さんに、喋ったの…?」
「……っ!」
トールは何か無性に叫びたい衝動に駆られたが、破れかけのズボンを強く握りしめ、自分を押さえ込んだ。そして。
「! トール! 待って!」
駆け出していった弟。差し伸べた手。ドアが閉まる。激しい拒絶の音。ユーリの鼓膜がわなないた。
ユーリはその場にくず折れた。
「……許して、トール…。私だって、思い出したくなかったのよ…。森の掟を破ってまで、クランベリーに移り住んだ師匠が……何を守ろうとしていたかなんて……」
それを知ってしまった自分。そしてそれを師匠の死と共に封印してしまった自分。そんな自分を認めたくなかった自分。全てを忘れてシェスカと友達になれたなら。それは自己満足というのだとユーリははなから知っていた。でも、心の鍵は、開けたくなかった。知らないふりをしていたかった。たとえそれが、弟を傷つけることになったとしても。
トールは自室に逃げ込んだ。
彼は許せなかったのだ。何も知らなかった自分を。それを姉の責任にしてしまうことは、男として恥ずかしいことだと思った。だから最後の理性で、自分を抑えた。
放ちきれなかった自己嫌悪は、トールの中で激しく渦を巻いて膨張する。後悔と絶望と怒りが混沌とし、トールを襲い、苛む。
彼は耳を塞ぎ、目を閉じ、うずくまった。
完全に心を閉ざすと、シェスカに会いたくなった。
上限の月が、か弱い光のベールを届けている。両開きの窓を開け放つと、それはカーテンと共にゆらゆらと揺れて絡まる。
夜風が妖しくトールを誘う。
「クゥ、いるかい? 乗せてってくれないか」
トールはどこにともなく外に向かって呼びかけた。
「クゥ?」
すると、疑問形の鳴き声と共に、コウモリの翼を生やした黒いウサギのようなものが窓の外に現れる。小さな羽をぱたぱたとしきりに動かして浮いている。トールの腕の中にすっぽり収まるサイズだ。
「自分で飛びたい気分じゃないんだよ。ね、クランベリーまで、乗せてってくれない?」
「クー!」
クゥはぷいと横を向き、鼻をひくひくさせた。
「そこをなんとか!」
トールは身を乗り出して頼むが、クゥは浮いたまま後ろ足で毛づくろいをはじめてしまう。
「もう、いいよ! クゥの意地悪。ちゃんと留守番してろよ」
沈んでいるところへ自分のペットに冷たくされたトールは機嫌を悪くし、悪態をつくが早いか、三階の自室の窓から飛び降りた。同時に自分の靴とマントに飛行の呪文をかける。すると、落下していたトールの体が、ふわりと浮いて元の位置に戻った。
そしてクゥの首根っこを掴むと、乱暴に部屋に投げ入れた。瞬間、クゥが八歳くらいの少年に変化した。すたっと見事に着地する。
「悪さするなよー」
それを捨て台詞に、トールはクランベリーを目指して飛び立った。
の、だが――。
屋敷の門の上を過ぎたとき、とつぜん数匹のコウモリがまとわりついてきた。
「うっわ…ちょ、なんだよお前ら」
トールはいらいらを募らせる。と、
「こんな夜中にどこへ行くんだ」
トールの正面にいた一匹が喋った。ジュドーの声だ。
「あ…と、父さん…」
心臓がずきりと跳ね上がった。
――あいつらは我が誇り高きコルサ族を陥れた、悪魔の民族だ――
先日の父の言葉が蘇る。一瞬の呼吸困難。
「よ、夜の散歩だよ。むしゃくしゃしてるから、ちょっと外の空気吸おうかなって…」
「クランベリーまでか?」
「えっ…?」
トールの双眸が、大きく見開かれた。
どうしてそれを……
トールの全身から、いやな汗が吹き出す。
「クゥの耳を借りた。あれはウサギとコウモリの掛け合わせだからな。耳はいい」
つまり、ジュドーは今コウモリの口を借りて喋っているように、術をかけてクゥの耳を借り、息子の行き先を知ったのだ。
「コウモリの耳を侮るなよ。クゥが羽ばたけば、私のコウモリたちは反応する。クゥがお前の部屋へ行くのなら、それはお前が遠出をするという証拠。皆が寝静まるこの時間に出かけるのを不審に思って聞いてみれば、よりによってクランベリーとは」
コウモリを通じて、失笑するジュドーの高圧的な態度が伝わってくる。もはやこれは尋問ではない。ジュドーはトールを試していた。
「クランベリーには何があるのだ」
父はすでにその答えを知っている。
トールは暗い部屋でほくそ笑む父の姿を想像した。ぞっと悪寒が走る。
「黙るのか」
――父さんに、喋ったの?――
姉の声がこだまする。
心臓が壊れそうなスピードで脈打ちはじめる。
「その娘に会いたいのか」
「!」
シェスカ!!
「……まさか、父さん…シェスカを…」
最悪の事態を想像してしまったトールは、蒼ざめながら訊く。
コウモリが嗤った。
「はっ。やはりそうか。クランベリーには、やはりウェドの娘がいたのか」
しまった!
トールは右手で自分の口を押さえた。息が止まる。
罠に、嵌められた…!
――ウェドは悪魔の民族だ。排除せねばならん――
遠くで父の声がした。
†
うっすらと目を開くと、ぼやけた視界の中に、石の天井が映った。背中がひんやりする。体が痛い。
あぁそうか…僕、動揺して、飛行魔法が解けて…
トールは急激なスピードで落下していった。落ちるな、と思った。きっと痛いだろうと思った。しかし、それをどうにかしようなんて気丈な精神は、もう残ってはいなかった。
「……ってぇ…。ここ…どこだ?」
場所を確認しようと起き上がった体に、打ち身のような鈍い痛みが走る。
三方と天井が、石で囲まれていた。正面に、鉄格子。窓はなく、格子の外で揺れている数本のろうそくだけが唯一の明かりだった。
地下牢だろうか。厳重に施錠がされている。
カツン…
足音が響いた。
「…気が付いた? もうちょっとで朝だから…そしたら出られるわ」
ベビーローズの香りが漂う。
「姉さん…? 朝って…僕、どうしてこんなところに…?」
トールが戸惑い尋ねると、ユーリは突然、口を押さえて泣き出してしまった。
「ど、どうしたの? 姉さん、どうして泣くの」
トールはますます戸惑いを隠せなくなる。なにがどうなっているのだろう。
「泣いてちゃ分からないよ。姉さん! どうして僕は朝まで閉じ込められなきゃいけないの。シェスカは無事なの? 父さんはいったい…」
「ごめんなさい!」
唐突にユーリが叫んだ。耳を塞ぎ、泣きじゃくって叫ぶ。
「私の所為だわ、トール、ごめんなさい。私が黙っていたばっかりに…! こんな…こんなことに…」
「だから何なの! 話してくれないと分からないよ! 姉さん! ユーリ姉さん!」
鉄格子の隙間から伸びた腕に、肩を揺さぶられる。
「そ、そうね…話さなきゃ…話さなきゃ、いけないのよね…」
ユーリは涙を拭いて、何とかトールに向き直った。
「気を、確かに持って聞いてね…?」
トールはごくりと唾を飲み込む。
「シェスカは、無事よ。でも…」
「でも何!」
「あなたは父さんに、術をかけられた…」
ユーリの頬を伝う涙を、ろうそくが儚げに映し出す。
「術って…?」
トールは自分の体を見つめた。
「あなたは、月の出る晩、」
ユーリの口から、呪いの言葉が発せられる。
「シェスカを殺しに行くわ」
時の流れが、滞った。ひんやりと、だがねっとりとした空気が、トールを呼吸困難に陥らせる。肺に入ったそれは重く、また肩にのしかかるそれも重く、トールは時に押し潰されそうになる。
アナタハ月ノ出ル晩シェスカヲ殺シニ行クワ
ユーリの唇の動きが、目に焼きついてしまった。
「…それ、どういうことだよ…?」
冗談だろ? と、トールは懸命に笑顔を作って明るい声で聞く。だがそれは失敗し、笑顔は引きつり、声は上擦って震えた。
「父さんは…決して自分の手を汚さない。自分の時間を浪費しようとしない。だからシェスカを…」
「…僕に、殺せって…? できるわけないだろ?」
トールはシェスカの太陽のような笑顔を思い出す。
だがユーリはたいそう悲しげに首を横に振った。
「月の出る晩は、呪いをかけられた血が騒ぐ。あなたは月の引力に誘われて窓を開き、月光を浴びて人喰い狼になる。そして本能の赴くまま、シェスカの匂いを嗅ぎ分け……」
彼女の口調に抑揚はなかった。おそらく疲れきっているのだろう。声に力が感じられない。
「…は、ははは…今どき狼男って…流行らないよ、そういう冗談。もう、やめてよ姉さん…」
喉が渇ききっていた。声が掠れていくのが分かった。感情が麻痺していく。
ユーリは憐憫の瞳で弟を見つめていた。
「な、なんだよ…まだ脅かす気?」
ユーリは格子の中へ手を差し伸べ、弟の冷たい手を握った。
「ごめんなさい…私の所為よ…。だけど私はあなたが恋人を殺しになんて行ってしまわないように、こうやって閉じ込めておくことしかできない……っ」
ユーリはスカートに顔を埋めてすすり泣く。
いくら泣いたところで、己が罪を浄化することなどできはしない。しかし悲しみは尽きない。やがてこの悲しみは憎悪に変わってゆくだろう。行き場のない罪悪感と悲しみは大きすぎて、このままでは少女を飲み込んでしまう。或いは、内側から食い尽くされるかもしれない。そうなる前に、どうか…
ふ、と、ろうそくの炎が消える。朝日が昇って、家中のろうそくにかけられていた魔法が解けたのだ。代わりに太陽の光が、石の階段を照らし出す。
ああそんなところに入り口が、と、トールは頭をもたげ、おぼろげに認識する。
ユーリも顔を上げた。泣き腫らしたせいで、目が真っ赤になっている。
「…朝だわ…。もう大丈夫よ。出てらっしゃい」
ユーリは牢の鍵を開け、涙を拭いて気丈に振る舞った。嘘っぱちの笑顔だ。
それは母の声と重なる。「いい子ね、トール」私が守ってあげる。子供は何も心配する必要なんてない。
まただ!
全ての感情が渦を巻き、耐えられなくなったトールの心は爆発した。
「ふざけるな……。僕の感情を弄ぶなよ! もういい加減にしてくれ! みんなして、そんなに僕が憎いのか?! 僕が何をしたっていうんだ! シェスカを愛しているのが、そんなにいけないことなの?! 僕はもう子供じゃない! 僕を自由にする権利なんて、僕にしかないはずなんだ!」
鉄の扉をくぐり抜けたトールは、石の階段を勢いよく上ってゆく。
「トール!」
「放っといてくれ!」
そう叫ぶトールの口内には、確かに牙が生えていた。
地上に上がり、廊下を疾走し、玄関の扉を開けて前庭を駆け抜け、門をくぐり抜ける。
と、突如虚空から現れた父に手首を強く掴まれた。
慣性の法則で、前に進もうとしていたトールの体は、かくんと後ろに引き戻される。ぎりぎりと絞められる手首の痛さに、トールは顔をしかめた。
威厳に満ちた魔術師は、低い声で告げる。
「その呪い、ウェドの女を愛した罰だと思え。誇り高きコルサの民として、己の罪を恥じなさい」
かけられた魔法は、かけた本人しか解くことができない。ましてやジュドーのような上級の魔術師の魔法など。
トールは、きっ、と父を睨み据えた。そしてきつく掴まれた手を強引に振りほどき、森の出口へと奔り去っていった。
――どうして…? 父さん…!
†
何日ぶりだろう。眼下に小さなロッジが見える。その周りを走り回っている大型犬の姿も見える。こうやって薫風に乗って、穏やかなクランベリーの丘を見渡していると、自分の身にふりかかった全てのことが、悪い夢だったように思えてくる。
しかし、まだ半分信じられない、いや、信じたくないこのことを、伝えなくてはならない。彼女に。彼女のために。
トールは深呼吸した。
覚悟を決めて、急降下する。
彼はロッジのドアの前に、静かに降り立った。
「…シェスカ、いる? 君に言わなきゃいけないことがあるんだ…」
もう少し大きな声が出るかと思っていた。掠れた声は、ちゃんと聞こえただろうか。
きぃ、とドアが開かれる。
「トール? どうしたの、こんな朝早く…」
と、シェスカが言い終わらないうちに、トールはシェスカを抱きしめた。
「ちょっ、どうしたっていうの?! いたい、いたいわ、離してトール! …トール?」
シェスカはトールのただならぬ雰囲気を悟った。そして彼の行為に応じようと、トールの背にそっと両腕をまわす。
トールはシェスカの腕の感触を覚え、はっと我に返って彼女を引き離した。
「トール…?」
シェスカの怪訝な瞳。
トールは真っ直ぐに彼女を見つめて言った。
「もう、シェスカとは、会わない」
突然の言葉に、シェスカは愕然とする。
「…な、何を言い出すの…?いきなりそんな…」
「今度君に会ったら、きっと僕は君を殺してしまう。だから…どこか遠くへ、逃げてほしい」
シェスカを真摯に見つめる黒曜石の瞳。彼女はトールの言葉が偽りでないことを知った。
「…何か、悪いことが起こるのね…?」
「そうだ、だから僕を忘れて、国境の向こうへ…」
「だめよ、私はここから離れられない」
クランベリーには思い出が多すぎる。
シェスカは必死に訴えるトールの頬に、そっとキスをした。そして、優しく微笑んで想いを告げる。
「あなたは私をこんなにも想ってくれている。そんな人が私を殺すなんて、きっと自分の意思じゃないんでしょう? だったらなおさら、苦しんでいるトールのもとをはなれるなんて」
できはしないと、シェスカはかぶりを振る。
トールは戸惑う。唇を噛みしめると、伸びた牙が唇にくい込んで、つう、と血が流れる。
「……呪いを、かけられた。僕は君を殺す獣になる」
もう抗いきれない事実を、ぼそり呟く。
シェスカは白い指でそっとトールの血を拭い、ふわりと彼を抱きしめた。
「トールがどんな姿になったって、私はトールが好きよ。あなたの全てを、受け入れるわ」
「あぁ! シェスカ、ごめんよ。僕を許して……」
トールの腕が、ゆっくりとシェスカを包み込んだ。
陽が高く昇りはじめる。
月が地底からトールを呼ぶ。細波の音が聴こえる。
愛に縛られた感情の行く末は、残酷かもしれない。
†
今夜もいい天気だ。よく晴れた漆黒の空には、銀メッキを施されたような大きな月が、ぽっかりと浮かんでいる。その光を浴び、庭の薔薇は凍えていた。
ある屋敷の地下牢で、飢えた獣が唸り声を上げている。金に光る双眸が、じっと少女を見据える。
少女は泣きそうな声で呼びかけた。
「トール、夜が明ければ元通りよ。だから少しだけ、もう少しだけ、辛抱してね」
少年の姿をした獣は、喉をぐるぐると鳴らしながら訴える。
「…姉さん、息が、苦しいんだ…喉が渇く…ここから出して。シェスカが呼んでいる…」
沸騰した血が内臓から湧き上がってくるような錯覚を覚えたトールは、長く伸びた爪で喉元を掻きむしった。
「だめよ! 何してるのトール! やめなさい!」
荒く短く息をする少年の衣服は真っ赤に染まる。こんなに穏やかな夜なのに、無性に暑い。眼球が汗をかいているのか、視界がぼやける。
「…肉…姉さん…肉が、ほしい」
トールはほとんど無意識に、本能の言葉を発した。その自分の声を、良くなった耳でしかと聞いて、彼は自分が獣に近づいていることを自覚した。牙の生えた少年は、ひと雫の涙を零す。
こんな夜が、果てしなく続いてゆくのだろうか。
…私には耐えられない。
ユーリはブローチの針で己が手首を掻き切った。
流れ出た血を杯に注いで、弟に与える。
彼は渇いた喉を早急に潤すがごとく、姉の血をお
いしそうに飲み干した。
気の狂いそうになる夜を、それから幾度繰り返しただろう。父は娘に促した。無駄なことは止めろ、お前まで死んでしまうぞ、と。
ユーリはだが、己を苛む感情の呪縛から逃れることができなかった。
弟に対する愛と罪の意識が、彼女を行動に駆り立てていた。
その間にも、天空は巡ってゆく。何も知らずに。月が、満ちてゆく。彼を導く。
トールはどんどん変貌していった――。
†
それは、満月の夜。それは死んだ太陽の光を受け継ぎ、闇を白々と照らす。月は、意志を持たぬ死人。或いは、天空の遊戯。
踊れ、少年よ、今宵、共に宴を。
ユーリは霞みゆく眼で懸命に檻の中を見つめる。
トールは憔悴しきっていた。
「…生きて…」
彼は食事を拒み続けていた。ユーリもまた、一睡もしていない。
だから、彼女の記憶がそこで途切れてしまったのは、仕方がなかったのだ。ユーリは鉄格子を掴んだまま、ずるずるとくず折れていった。
ざわざわ、ざわざわ、
月の引力が呼んでいる。少年の理性は抗う力を失くす。本能が、トールの身体に生きろと命じる。
トールは、立ち上がった。
姉が倒れている。起きてほしい。だが爪の長く伸びた手で触れれば、彼女は傷ついてしまう。どうすればいい。トールは呼びかけた。
「あおーぅ…」
だがそれはすでに、人間の言葉ではなかった。
悲しみにくれる狼。彼はその悲しみゆえ、最後の理性を失った。
月の囁き。さざ波の声。
力がみなぎってゆく。
トールは死した光の呼び声に、従った。
信じられない力で鉄格子を破って駆け出す。足は韋駄天のように速かった。月光を浴び、トールは洗練されてゆく。純粋な獣へと、純粋な欲望を湛え。
前足を地につけ、疾走してゆく。愛しいひとの匂いがする。欲しい。僕は彼女が欲しい。
森の番人は恐れおののき一斉に道をあける。
金の瞳が、真っ直ぐに闇を見つめていた。
うっすらと目を開いたユーリは、そこに広がる惨状に驚愕した。
丈夫なはずの鉄の檻が、まるで柔らかい蝋のように引き千切られて散在していた。
ああ、なんてこと!!
すでに望月は高く昇っている。
ユーリはふらつく足を酷使して、外へ出た。そしてできるだけ大きな声で呼ばわった。
「クゥ! 私を乗せてクランベリーに行くのよ!」
どこからともなくユーリの目の前に現れた黒い生き物。彼はただならぬ雰囲気を感じ取り、即座にユーリに従った。
ばっ、と羽が大きくなり、ウサギだった体は半獣の少年になる。
「クー!」
ユーリ、早く! クゥが啼く。
ユーリはありったけの力で、クゥの背中に這い上がった。するとすぐさまクゥは空高く飛び上がる。
彼女は冷たい夜風を受けながら、トールとシェスカの無事を祈った。
†
トールはハープ川の源流、崖の上に佇んでいた。月光がハープの滝を美しく照らしている。
魔法の解けた少年は、赤く染まった両腕を、虚ろな瞳で見つめていた。口の中いっぱいに、鉄の味が広がる。
シェスカはどこ…?
「トール!」
ユーリは弟の姿を見つけ、クゥの背中から転げ落ちるようにして彼に駆け寄った。
「……」
彼女は確か…あぁ、僕の姉さんだ。
「姉さん」
トールはやっと人間の言葉を口にする。だがその口からは、ぽたぽたとウェドの血が溢れ出す。
「あぁ、トール…」
ユーリは弟に手を差し伸べた。
「こっちにいらっしゃい…? あなたを苦しめるものは、もうないわ…」
そう、なくなってしまった。大切なものが。私は守りきることができなかった。
弟は血に汚れた顔で、寂しそうに微笑んだ。
「姉さん、さようなら。どうか父さんを恨まないで」
「何を、言っているの…? トー…」
ハープの滝が、一瞬赤く染まる。しかしそれは次々と湧き出る白糸によって、何もなかったかのように白く透明に浄化される。トールは音もなく水の底へ吸い込まれていった。
白銀の滝が再び煌きだす。
「…うそ…うそよ…」
表情が定まらない。
愛する者の消え逝く瞬間を見るには、少女はまだ若すぎた。罪と悲しみが膨張し、破裂寸前の少女の心に突き刺さる。溢れ出る、喪失感。
「トオォォォォール!」
哀しみが木霊する。
もう限界だよ、ユーリ。君が壊れてしまう前に、助けてあげる。そんな辛い感情は、すり替えてしまおう。
彼女の心は、悲しみに飲み込まれることより、悲しみを転化させる道を選んだ。心は、怒りを開放した。
「……クゥ、帰りましょう」
そう言った彼女の声は低く、辺りの草木がざわめいた。
生暖かい風が吹く。
やり場のない怒りの矛先は、父に向いていた。
†
月は、哀しみを引き連れて沈もうとしていた。
ユーリはジュドーの書斎の扉を開いた。
ぽたりぼたりと、絨毯に赤い染みができる。
威厳高き黒いローブの男は、書物片手に窓越しの月を見ていた。
後ろも振り返らずに言う。
「ノックぐらいしなさい。寝ている時間だ」
しかしユーリは、それを遮るように言った。
「父さん、いえ、ジュドー。私はあなたを許さない」
「何だ、親に向かってその言い方は」
父はやはり外を見ている。
「あぁ、トールの敬愛した父さん、あなたは一度だって私たちをきちんと見てはくれなかった……真正面から見つめ合えば、分かり合うことだってできたかもしれないのに…。でも、もう、遅いわ…」
ユーリはゆっくりとジュドーに歩み寄る。
「父さん、大好きだった」
ジュドーが振り返る。
「……!! ユ、ユーリ?! お前、バ、バカなことは止めなさい!」
ユーリの体に、長剣が後ろから貫通していた。
「もう時間がないのよ。父さん、」
ユーリは両手を広げた。
「よ、よせ、来るな…」
魔術師はうろたえる。彼は壁に張り付いた。
「一緒にトールのもとへ行きましょう」
ぽたり、ぽたり。
「やめろ…ユーリ、私はただ、あいつを立派なコルサの魔術師にと……トールを……トール、トールは…死んだのか…?」
「えぇ」
「なぜ…?!」
父の顔が、苦渋に歪む。
ユーリは微笑んだ。
「あぁ、父さん、あなたはただ、純粋すぎた、だけなんだわ…」
少女の心は救われた。
「大好きよ、優し、かった、父さん…」
ユーリは父を抱きしめた。彼女を貫いている長剣が、ジュドーの血に濡れる。
薄れゆく意識の中、少女は父の体温を、たしかに感じていた。
半獣の少年のあたたかい舌が、冷えゆく魔術師たちの頬をそっと舐める。
「クゥ…」
ウサギは寂しさに震えた。
夜明けの空が、ティアーローズの色をたたえていた。
Fin.
日本の古典文学をこよなく愛する作者が、慣れないカタカナのキャラ名で外国風味のファンタジーを書いてみました。
出だしのパンチが弱いくせに、後半かなりシリアスになっていきます。
青い紅茶からひらめいたお話でした。
評価・感想等ございましたら、よろしくお願いいたします。