貴道編①
随分、待たせた方にはお待たせしました。
謎の男、貴道編スタートです。
1.
「おいで、貴道。一緒に行こう」
あの女性が俺に手を差し伸べる。
それがこの胸にどんな歓喜を呼び起こすか、彼女は生涯知る事は無いだろう。
桜と秋桜が好きだと言ったあの女性は。
「それは俺が持つから、陽毬さんはドアを開けてくれ」
車のキーを渡すと、妙に凪いだ顔の熟女がこちらを見つめる。
「ストーカーか」
「─────何、何処だ?どの辺にいる?」
「己だ!」
冷静にこちらに指を突き付けられ、俺は顔だけは平静を保ち、内心激しく狼狽していた。
「いや、俺の事は随身とでも思ってくれ。多分、今日辺りこのスーパーに買い物に来ているんじゃないかと当たりを付けて立ち寄っただけだから」
「…それは尾け回してないだけで、おばはんの行動パターンをプロファイルした上で先回りしとるんだろうが!いいか!もうネタバレしてんだから、『檻』の一員なんざやらんでええんじゃ‼︎エロリアンな毎日より私は平凡で、平穏な、老後を、確立したいんだよ!ところで、もう!今日は何が食べたいのッ‼︎」
「鳥塩鍋。─────雪見にしてくれたら尚、嬉しい」
熟女は大根を買いに戻ろうとするので、予め買っておいたそれをチラチラ見せる。
「食う気満々だな。…王子のシフトはどうなってる?来るかな来るよね?後は上総君も最近来るよね?結構食うしね。団子鍋にしてもあいつら牡蠣とかタラバとか持参して入れようとするしね…」
「貴女の留守はもうとっくに皆に知られてる。
ヒロさんがみんなで囲むには狭いから、と、長方形型の炬燵を発注していた。槻の一枚板のヤツだ。今日あたり届く筈だから、ある程度皆、都合付けて来るだろう」
紙セキュリティ────────!と彼女が歯軋りをする。
「あんたらはあたしの私室を何と心得ているのかしらね?そして誰よ?本棚から無断でそっと『婚約破棄は溺愛の始まり』を持って行ったのは⁉︎」
「それは多分、遼」
「は?遼君?最近良く顔を出すと思ったら!」
助手席に陽毬さんを乗せて、寮に車を走らせていると、蔵書についての話になった。
「どうやら陽毬さんには知られたくないようだな。大体数時間で読破して誰かがそちらに邪魔している時にドサクサに紛れて返している様だ」
「何の為に?」
多分、陽毬さんの好きなシチュエーションとか、男の好みを知りたいんだと思う。
そう教えてやる事は簡単だったが…
「──────女心を研究しているんじゃないか?遼はアレで意外と真面目だから」
誤魔化してしまった。
同じ『檻』の仲間だというのに。
「だから、あの幻想レーベルで得られるモノは一部の女子の萌えだけだと言うのに‼︎大体、王族も貴族も民主主義に関係無いわ!寧ろ王太子よりドエロい騎士団長が好みだわ‼︎勿論、声は小○力也か大塚○夫でね!颯爽と‼︎壁ドンで!耳元で囁いて骨抜いてお召し上がり下さる?でも、抱き潰すのは勘弁ね。体力、虫程に無いから。─────って、アラフィフ意外と需要があってびっくりだわ‼︎」
全部ショウちゃんの所為!と、省吾さんの名前が直ぐに出る所が侵食されている証拠って気付いていないんだろうな。
陽毬さんが全部省吾さんのモノになってしまったら、どうなるんだろう。
問えば『有り得ない』と返事が返ってくるだろうけど、段々とスキンシップで身体を触られる事に麻痺させられて、最近は唇以外ならキスをされても怒らなくなった。
何故だろう。
寮で食べても客と食べても、ご飯は変わらず温かいのに。
三ツ星フレンチよりも陽毬さんの手抜きの手巻き寿司の方が美味いと感じてしまうのは。
吸い物なんてインスタントなのに。
…丸ごと省吾さんに食われても、彼女はご飯を俺に食べさせてくれるんだろうか…。
俺と一緒に買い物してくれるんだろうか?
「ほら、そこ!手が止まってる!寿司○郎混ぜて!」
「錦糸玉子なんか分厚いよ?陽毬ちゃん」
「気にすんな!シーチ○ン入れる?後、胡瓜とウインナーとレタスと紫蘇とベーコン…上総君、小皿出して〜〜」
「大皿二つも要るだろ?貴道、マヨと醤油混ぜとけ。それと陽毬ちゃん、ひろつね、広常!」
「呼ばねえ!鍋来るよ〜〜鍋敷き敷いてる?」
手巻き食べながら、皆で鍋をよそっていると、バンッ‼︎とドアが開いた。
「何で俺も呼ばないのッ⁉︎」
省吾さんだった……。
「─────だってねぇ?」←陽毬
「そうだな。忙しいだろうし」←上総
「態々呼ぶのもかったるい」←王子
「…俺、偶々居合わせただけだから」←遼
俺は半分に切られた海苔を差し出した。
「俺のオススメはレタスとカニカマと玉子だが…」
涙目の省吾さんにいきなり茹でたてのタラバを投げ付けられた!
「熱ッ!」
「コラ!ま、待ちなさい‼︎ショウちゃん!ああ、もうぅ〜〜貴道君、大丈夫?ちょっとおいで」
女子走りで華麗に逃げる省吾さんを陽毬さんは追い掛けなかった。
「何処かカニ当たった?」
「いや、カニ茹でたてだから飛沫が飛んだだけで、本体は腕でブロックしたから」
「少し赤いね─────冷やすよ」
蛇口を捻って袖を捲るとと熟女は流水に俺の腕を突っ込んだ。
「全く!ショウちゃんは子供みたいだね。つか、どっから茹でたタラバとか持って来たんだよ…」
掴まれた所だけが熱を持ち、冷たい水が火照った肌を滑り落ちていく。
「寮の厨房でしょ?」←王子
「カニ抜きのメニューって、中華?」←上総
「てか、陽毬が多分追い掛けて来てくんないから、玄関先で泣いてると思う…」←遼
「面倒クサイから、タラバで殴って来る!」
馬油を俺の腕に擦り込むと、カニを持って出て行ってしまった…。
手慣れた様子で海苔を巻く三人は「あ…」と見送る俺の背中を見ている。
「あーあ、行っちゃった…あんな明らかな罠に普通飛び込む?」
「貴道、ちゃんと陽毬ちゃん捕まえとけよ」
「…無事で帰って来いよー」
──────20分後。
真っ赤になって折れたカニを流しに投げ込む陽毬さんの項には、はっきりとした無数のキスマークが施されていた。
それは妙に煽情的に俺の脳裏にこびりついて、長い間離れなかった。
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