世界が変わるとき
第一章
第一節 来たりし者
天には、異界へと繋がる道があるという。
馬車に揺られる荷台には、大きな輪とボールと道化師の衣装に埋もれるように、外を見つめる少年が座っていた。
紅葉の時期が去り、冬の空気が忍び寄ってくる。
「ここの村は、いつも寂しい。」馬を操り、父が呟く。
少年の名はロム・スカイア・シルヴィアという。大きな町を巡り、興行を生業とする一座の一員である。
団長の父は厳しく、やさしく、賢かった。いち興行主と言うには、あまりにも思慮深く、彼の一言一言には、深い威厳を感じ取ることができた。
「お前は、まだまだ多くを学ばねばならぬ。いずれ大きな役目を果たすことになる。」
何かあるごとに、父はそういった。
「役目って、いったい何ですか。」その度に尋ねるが、
「そのうちわかる。今は、学ぶことだ。」と言うのが常であった。
「次の町までは、まだ遠い。今日はここで休むぞ。」
中堅の軽業師、ミレイは心配そうに言う。「親方、ここは森の中ですぜ。狼が出ないとも限らないんで森を抜けませんかい?」
「馬も疲れているし、森の出口はまだずっと先だ。火を絶やさなければ狼も近寄るまい。さあみんな、テントを張ろう。」
馬の鞍を下ろして水と餌を与え、幌を明けて中の子山羊を下ろしてやった。
熱いスープがみんなの疲れを癒してくれる。
満腹ではないけれど、なんとか空腹も落ち着いた。
「ロム、見張りをしてくれ。2時間したら代わるから。」とミレイ。
焚き火の炎が時折り、弾けるような音を立て、周りの木々は命あるものの様にゆらめく。
夜の森は魔が住むと誰かが言ってたな。あまり気味のいいものじゃないや。
傍らには、友達で番犬のハーネスが、スースーと寝息をたてていた。
冷えた手足や顔が火照って暖かい。瞼も重くなってきた。
カサ…
うとうととまどろむ意識が、異音に断ち切られた。
剣を引き寄せ、揺らめく暗闇に眼をこらす。何かが動いた。
“狼…?いや…”
狼のような、獰猛な気配ではない。でも風は吹いてない。では一体…
自分が確かめようと思うより先に犬が飛び出した。
“ハーネス、深く追うな。”心で話しかける。
“あいつは、危険!”いつもは大人しいハーネスが、めずらしく息巻いている。
弾丸のように木々の暗がりに飛び込む!
獣のように四つ足ではない、だがヒトとはかけ離れている、あれは…
舞台道具の刀を手に、慎重に、しかし急いで後を追った。
ウゥ‐
微かな唸り声が…。月明かりに照らし出された地面には、点々と血の跡が続く。その先には…
“ハーネス!!”体のあちこちから血を流し、睨み付けているその闇の中には、
巨大な、そう、馬よりも大きな体躯をした…人か?いや、それには生命が感じられない。
およそ眼のあるべき所には、ヌラリと鈍く光る影が浮かんでいた。
「…魔族…か…!?」
“…夜の森は魔が住む”
どこにでもある言い伝えだ。だが、迷信ではなかった。
眼を逸らせるわけにはいかない。逃げれば襲いかかって来ることは容易に想像できた。
血の匂いは森の悪しき住人を呼び寄せてしまう。時間をかける訳にはいかない。
“扉…開く…”
低く唸るような声が、心に響く。
「…扉?」
それは何処にある?おまえはそこから来たのか?
声を出そうとした刹那、巨人は、まるで柱のような斧を天空から振り下ろす!
巨体ゆえ力はあるが、俊敏には動けない。
紙一重でかわせたが、まともにやり合える相手か?
父には厳しく言われていた。
「おまえは大きな力がある。それは神が
大事を成す為に授けたてくれた秘剣だ。いいか、他人には決して見せず、
知らせず、言ってもいけない。それはやがてくる神の審判に用いる、最後の
力なのだ。」
だが、その“大きな力”が何なのか、自分には全く分からなかった。もしそんなものがあるなら、今すぐにでも使いたいのに!
「くそっ!」
ロムは素早く振り返り、一声
「ハーネス!逃げるぞ!」
とにかく逃げれるとこまで全力で逃げる!相手は鈍いから逃げ切れる公算は大きい。
幸いハーネスも走れるようだ、あの木々を抜ければ、そこまで行けば!
不意に何かに躓いた。やけに柔らかいそれは”腕!!”千切れた人間の腕!
まだ切断されて間もない腕や足や内臓器が、木々の合間に散在していた。
”生きてる”
ハーネスが叫ぶ!大きな古木の根元の向こう側には、僅かな生気を感じ取る事ができた。
救える者がそこにいるのに、背を向けるのは卑怯だ!と心の底で叫ぶ声が聞こえた。いや、そんな気がした。
「逃げる…のはやめだ。」
巨人は斧で木々をなぎ倒しつつ、地響きを鳴らしてゆっくりと近づいてきた。
岩山を相手に戦う者は愚かだ!この小さな剣で、大木の如き脚に傷すら付けられるのか!?
だがその心配は杞憂であった。巨人はすでに満身創痍であった。